あの夏の垂木祭をいつまでも君と

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 駅の階段を地上へと上がり、川沿いの道に出ると、生暖かい夏の風が頬を打つ。両耳を覆うヘッドホンを外すと、行き交う人々の喧騒と、お囃子の音が僕を包みこんだ。  浴衣姿の女子高生らしき少女とすれ違う。微かに漂う懐かしい柑橘系の香り。そのつんとした匂いが、刹那、想い出を刺激する。過ぎ去るその香りに思わず振り返った。  その背中、紺色の浴衣、赤い帯。髪を持ち上げるように結わえて、そこに差した(かんざし)。あの日の君の黒い髪からちょこんと出ていた簪に光っていたのは花の形をした桜色の水晶だった。  ――垂木祭(たるきまつり)は最高のお祭りだね!  あの日の君の一言で、垂木祭は僕の中で「最高のお祭り」に格上げされたのだ。高校時代、僕が住む世界の価値は美弥子(みやこ)が決めた。美弥子がこの街の色彩を決める。  去りゆく少女の背中に、思わず伸ばしそうになる左手。それはもちろん美弥子じゃない。君が生きていたとしたら高校生じゃなくて、僕と同じ大学生だ。たとえそれが同じ浴衣で同じ香水で同じ簪でも、君じゃなければ意味が無いんだ。  もし、君じゃないなら、君に似ていない方がいい。  少女の浴衣姿の向こう。空に向かって立つ丸太が何本も見える。垂木様(たるきさま)だ。木の先に掛けられた太い縄が、それぞれの丸太の頂点を結ぶ。たわんだ縄の中央には大きな鈴がぶら下げられていて、空中から無秩序に音を降らしていた。 「なに、女子高生のお尻追いかけているのよ? 私の彼氏はいつから未成年の背中を(いや)らしい目で凝視する変質者になったのかしら?」  背中をぽんっと叩かれる。 「――あれ? 先に着いていたんだ?」 「先に着いてたわよ? もう、こんな可愛い彼女の存在に気付かないなんて、幹大(みきひろ)の認知能力には問題があるわね」  そう言って加奈(かな)は掛けていたサングラスを少し下ろした。  上目遣いに覗き込んでくる瞳が悪戯っぽく笑う。  薄いベージュのカットソーに、ブラウンのスカート。  腰にあてた左手。手首のブレスレットがさりげなく揺れている。 「自分で『可愛い』って言う? 押し付けっぽいぞ?」 「え? 可愛いでしょ、私? 自分の彼女のこと、もっと誇って良いのよ、幹大は?」 「いや、……まぁ、可愛いけど。ていうか、今日は眼鏡じゃないんだ」 「お祭りだからね〜。今日はコンタクトレンズにしてみた」 「その上にサングラスね。それだったら眼鏡でよくない?」 「だって、眼鏡じゃサングラスつけられないでしょ?」 「そもそも、垂木祭(たるきまつり)、夕方だし。むしろ暗いし」 「――もう、気分よ、気分!」  僕が「まぁ、分からなくもないけど」と認めると、加奈は「でしょ?」と言ってサングラスを掛け直した。ボブヘアの彼女は、なんだか嬉しそうに口角を上げる。  そして、右手を差し出す。まるで、「私をエスコートしなさい」とでも言わんばかりに。  僕が苦笑い浮かべながらその手を取って、二人は歩きだした。  垂木祭は毎年夏に催される、この街の恒例行事だ。  大通りに幾本も並べ立てられた垂木様と呼ばれる大きな丸太の間を太い縄が渡っていく。宙に浮いた大きな鈴がしゃらららと鳴らす音の下を、僕らは時の回廊を抜けるように練り歩くのだ。  僕は次の春にこの街から出ていく。就職して、どこか知らない勤務地――たぶん東京で働き始める。でも、医学部の加奈(かな)は一人でこの街に残るのだ。沢山の想い出が詰まったこの街に。  川沿いを南へと、加奈と手を繋いで歩く。  こんな寂れた地方都市のお祭りなんて、観光客だってほとんど来ない。それでも、大通りには多くの人が繰り出していた。  屋台のりんご飴を求める子供。射的で彼女に良いところを見せようとする高校生。 「――こうして、垂木祭に幹大(みきひろ)と来るのも最後かもね?」 「え、なんで?」 「だって、幹大、来年の夏はこの街に居ないでしょ?」  当たり前のことを言うように、加奈が首を傾げる。  僕が立ち止まると、彼女も寄り添うように足を止め、サングラスを外した。 「――垂木祭には、戻ってくるよ」 「わざわざ? 東京から? こんなお祭りのために?」 「なんとか、有給休暇くらい取れると思うし、加奈もこっちにいるからさ。それに垂木祭は――」  短い沈黙を受けて、加奈が言葉を継ぐ。 「『垂木祭は最高のお祭り』……だから?」  優しく笑んだ彼女の視線が、僕を覗き込んでいた。  きっと加奈も、僕の頭の中に浮かべているのと同じ情景を、見ているのだろう。  高校時代、僕と加奈、そして、美弥子、僕の親友の智之(ともゆき)は、四人一組の仲良しグループだった。高校二年生の文化祭に僕と美弥子が付き合いだした。それから、加奈は智之のことが好きだった。加奈は智之に告白できずにいたけれど、二人が付き合いだすのは時間の問題だと思っていた。そんな四人だった。  高校三年生の時、四人で夏の垂木祭へと繰り出したことがあった。  紺色の浴衣を着た美弥子は、赤い金魚柄の帯をしめて、髪に(かんざし)を差していた。まるで雑誌の中から飛び出してきた少女のようで、めちゃくちゃ可愛かった。  僕と美弥子は恋人同士だったし、僕は加奈が智之と二人っきりになりたがっていることも知っていたから、男女ペアで射的や金魚すくいに挑戦したりした。空に伸びる垂木様の間で、はしゃいだあの日。――僕らは、あの時、きっと青春の只中にあったのだ。  神社の石垣に背中を預けて、四人並んで、川沿いの大通りを眺めていた。歩行者天国を歩く人々の姿が、いつもと違う明かりに照らされて、フォトジェニックに揺らめく。左手にりんご飴を持った僕の右手の指は、美弥子の左手に少しだけ触れていた。そこだけが敏感だった。 「垂木祭は最高のお祭りだね! また、来年も四人で来ようね!」  その時、美弥子が言った言葉で、なんてことのない夏の景色が急速に色付き始めた。智之が「だなっ!」ってりんご飴を掲げて、加奈も「そうね」って目尻に皺を寄せる。  僕はそれまで、こんな街の垂木祭が「最高のお祭り」だなんて、思ったことさえなかった。むしろ、しけた、モノクロのお祭りだとさえ思っていた。でも、あの夏、美弥子がそれを「最高のお祭り」だと呼んだ瞬間、四人で訪れた垂木祭は、確かに世界で「最高のお祭り」に変わったのだ。僕たちにとって、たった一つの、この世界で最も色鮮やかなお祭りに。  でも、夏の景色を鮮やかに色付けた責任も取らないまま、君は僕の前から消えたのだ。僕の親友で加奈の想い人の智之と一緒に。  高校三年の冬、美弥子と智之が、事故で突然この世を去った。  加奈と僕は、あの日から二人だけ取り残されている。 「――もう、四年経つんだな。あれから」 「――だね」  気付けば、僕らはあの日の神社の石垣まで来ていた。 「ねぇ、幹大にとって、私とデートしている今日は、人生で『最高のお祭り』の日?」 「何だよ急に?」 「――正直に答えて」  その言葉が引き金で、情景がフラッシュバックする。  美弥子の浴衣姿、笑い声、柑橘系の香り。指が触れ合って、それだけで心臓が跳ねた。  僕より少し背が高かった智之の口にする冗談。  それに少し照れながら突っ込む、もどかしい加奈の姿。  高校時代の青春が、目の前の景色の上に描かれる。  人生で「最高のお祭り」。きっとそれは、どうしようもなく「あの日」のことなのだろう。それは自分の中から消せない情景。 「やっぱり、あの日、美弥子とも一緒にいた夏の垂木祭が、僕にとって『最高のお祭り』の日なんだと思うよ」  今の恋人に、昔の恋人の名前を出すことが非常識だってことだってくらい分かっている。でも、あの日のあの場所に居たのは、美弥子を見ていた僕だけじゃない。智之を見ていた加奈も居たのだ。 「――そうだよね。うん、そうだと思う。私もきっと、そうだもん!」  寂しそうな瞳とは裏腹に、その口許はどこか嬉しそうだった。  左手を掲げて指を広げる加奈の手首で、ブレスレットが煌めいて揺れた。 「ねぇ、幹大? 私は、幹大に私と二人の時間であの日のことを上書きして欲しいなんて、願ってないんだよ? 四人で過ごした時間は、私にとっても宝物だもん」  加奈の大人びた横顔が遠くを見つめる。  薄いベージュのカットソーを纏う加奈の姿の上に、紺色の浴衣を着る美弥子のイメージが浮かび上がる。でも、その二つの姿は重なりそうで、重ならない。だって、加奈と美弥子は全然似ていないから。容姿も性格も全然似ていないから。  ――もし、次に好きになるのが、君じゃないなら、君に似ていない方がいい。  そう思ったのが四年前の冬。今、僕の隣には加奈がいる。大切な想い出を共有した、僕の彼女がいる。 「もちろん、今は私のことを一番好きでいてほしいわよ。でも、私にとっても、あの夏は忘れられない時間。だから幹大が同じように思い続けてくれることは――なんだか嬉しいの」 「――そっか」 「――うん、そうなの」  目の前の大通りを浴衣姿の女子高生と男子の四人組が歩いていく。  空に浮かぶ鈴を見上げる加奈の瞳。  きっと僕も、今、同じ目をしているのだと思う。 「――やっぱり、俺。来年も垂木祭には、戻ってくるわ」 「そう? ご自由に? どうせ、私はいるけど」 「うん。俺にとって、やっぱり夏の垂木祭は『最高のお祭り』だから」 「言っとくけど、私にとってもだからね?」  頬を緩めて、悪戯っぽい笑顔。 「知ってるよ。――だから、来年もこうやってデートしようよ。二人で」 「いいけど? 私が幹大の彼女なんだし」  当然のように、頷く、僕の彼女。 「うん、それから、再来年も、その次の年も、ずっと」  その言葉に、加奈が振り向き、僕を見上げた。  彼女の瞳を見て、僕は一つ息を吸う。 「――大学を卒業したら、結婚しようよ、加奈。ずっと一緒に居たいんだ」  加奈は顎に親指を当てて、少し考えてから「いいよ」と頷いた。  あの頃の美弥子とは違う、加奈らしい、はにかんだ笑顔で。     二人っきりの僕と君だから。大切にしていきたい。  これまでの想い出も、これからの人生も。君のことも。  最高のお祭り――夏の垂木祭をいつまでも君と。 <了>
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