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噂には聞いていた。 でも、現実を突きつけられるとまだ信じれない自分がいた。 五箇山地域で育った子は授業として小学校で「こきりこ」の地方(ジカタ)や踊りを習い、中学校で「こきりこ」、「麦屋節」それぞれ好きな民謡の楽器の地方を始めるのが通例で、琴美は麦屋の歌い手を選んだ。剛志は小学校から「こきりこ」の歌い手、中学に入ると、琴美と一緒に麦屋の歌い手も掛け持ちするようになった。 そんな剛志だったが、変声期で声が出なくなり、高校進学と同時に藤三朗に教わり三味線をはじめた。 他の子供達が中学校の3年間でやっと弾けるようになる三味線を僅か1か月で習得した、、歌の素養があるとはいえ、並大抵の努力ではなかったであろう。 高校最後の全国大会、琴美を引っ張るように三味線を演奏した剛志、、、、無論、藤三朗も人一倍目をかけていた。 あれは高校2年の富山県大会の少し前の事、3年生が抜け、剛志が三味線のリーダーに、琴美がメインボーカルになったばかりの頃、琴美は少しスランプに入っていた。 思うような歌い方が出来ずにいた琴美を見ていた彼は、藤三朗に相談したのだ。 「やっぱり、なんか違うんだよなぁ、、、会長、今みたいに琴美が気持ちよく歌ってくれる弾き方、俺に教えてください。」 部活が休みの日曜日、琴美が祖父に手合わせしてもらっているところにやってきて、彼はそう切り出した。 「お前さんに教える事は十分教えました。ただ、我が強い、、一辺しか弾かないよ。あとは考えな。ほら、琴美さん、いきますよ。」そう言って藤三朗はポンッとキセルを叩くと三味線を手に取った。 藤三朗は常々、琴美や剛志に言ってました。 「歌ってもんは十人十色、例えば、私にゃ私の唄がある。喜一さんには喜一さんの唄がある。だから、我々地方は歌い手に合わせた弾き方をしなきゃいけないよ。」と。 祖父に合わせて歌って居る感覚、それは琴美を包み込む様に優しく奏でられる音色であった。 一節終わると「わかりましたか?」っと悪戯っぽく笑うお爺ちゃん、剛志は「やってみます。」っと三味線を弾き出した。 「ほら、お前さん。入ってやんな。」っと言われ琴美も歌い出す。 「むぅぅぎぃぃいやぁぁー」 麦や菜種は 二年で刈るが 麻は刈らりょか 半土用(はんどよう)に 麦や菜種というのは前の年の秋に種を撒いて次の年の春に刈りとる、ところが麻というのは春に撒いて夏には刈り取ってしまう。そんな麻の儚い命を平家の落人が、かつての自分たちにの短い栄華に照らし合わせ歌った歌詞だ。 ジッと目を閉じてじっと聞き入る祖父。 『なんかゾクって来た、、』琴美の中で彼に引っ張られる感覚を覚えた瞬間です。 1番が終わると「ほら、もう一度。」っと言いながら藤三朗も弾き始めた。 2番の歌詞は「波の屋島を 遠く逃れ来て 薪こるてふ 深山辺(みやまべ)に」 こちらは、義経の逆落としや那須与一や有名な屋島合戦に敗れた落人の心情を歌った歌詞だ。 「その感覚です。」2番を歌い終えると三味線を奏でながらお爺ちゃんはニコリと笑い呟きます。 「流石、七里の孫だね、、お前さんは相変わらず良い耳してらぁ、、」っと藤三朗も息を巻きます。 七里家は剛志の父の実家、麦屋節は代々、七里家や藤三朗の住む下梨地区に伝承されてきた民謡です。 剛志は他の地区の子でした、父が下梨の七里家の生まれ。彼もまた琴美と同じで小さい頃から麦屋節を聞き育ちました。 そんな彼は高校在学中に、藤三朗の一存で保存会への入会を許されたのです。 従来は下梨地区だけでやってきた保存会、、中には反対する人もいた。 そんな古い考えを跳ね除けるように彼は人一倍、麦屋に力を注いでいた。
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