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 映に送られて辿り着いたマンションのドアを開ける。明かりが点いていた。  ――空がいる。  それだけで、駆け出してその姿を見つけて抱きつきたい衝動に駆られたが、万優は一度深呼吸をして、廊下をいつもの足取りで進んだ。  居間へ続くドアを開ける寸前、人の声に万優は一瞬足を止めた。 『でね、その時の機長が……』  知っている女性の声だ。  万優は、思い切ってドアを押した。 「あ、万優くん、おかえり」  ちょうどこちらを向いてダイニングチェアに腰掛けていた深春が笑顔で手を振った。 「……ただいま」  軽く頭を下げて万優が返すと、背を向けていた空もこちらを向いた。 「おかえり」  そう言う空の脇を通って、キッチンへ立つ。グラスを取り出して冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、注ぎいれる。動揺を隠すように万優はそれを一気に飲み下した。 「ごめんね、台所勝手に借りちゃった」  深春の目の前のテーブルにはクーラーに刺さったワインと、オードブルが並んでいた。  おそらく、オードブルは深春自身が作ったのだろう。シンクには、少し野菜のカケラが散乱していた。 「別に……俺が管理してるわけじゃないんで」 「そうなの? それにしては、空ってば、全然モノの位置とか知らなくて。てっきり万優くんの担当域なんだと」 「空は覚える気がないだけですよ」  シンクの隅に空になったグラスを置いて、万優はキッチンを出た。 「万優くん、一緒にどう?」  深春がワインを軽く持ち上げて笑う。 「……いえ。友人と済ませてきたトコなんで。明日も早いし風呂入って寝ます。ゆっくりしてって下さい」  言いながら、万優は自分を笑いそうになった。  ――ゆっくりしてって、だってさ。ライバル宣言してきた女相手に。バカじゃないか、俺は。  万優は振り返ることなく、自室へと入った。そこですぐに、ドアのノックが聴こえたので、握っていたままのノブをそのまま引く。  立っていたのは空だった。 「……万優、何か、怒ってる?」 「別に。怒ってなんて……」  部屋へ入った空は、直ぐにそう聞いた。万優は着ていたジャケットをハンガーに掛けながら答える。  後ろで、空が吐くため息が聞こえる。 「……久しぶりなのに、な」 「何が?」  シャツのボタンを二つほど開けてから、万優は空に向き直った。 「まだ、十時を廻ったばかりだ」 「そうだね」  ちらりと、ベッドの傍にあるサイドボードに目をやる。シルバーフレームのアナログの長針がかちり、と動いた。 「だから……怒ってるかと」 「ああ……そうかもね」  万優はベッドへ腰掛けると頷いてから、空の顔を見上げた。  つまり、こんなに長く傍に居られる絶好の機会なのに、ドア一枚挟んだ向こうには従妹が酒を煽っている……この状況に怒ってもいい、ということだ。 「……深春さんとは、よく会うの? こんな風に、俺の居ないところで」 「まさか。今日が初めてだ」  空は、万優の傍に座ると、そっとその腰に腕を廻した。 「けど、勝手知ったるなんとかって感じだった」 「……もしかして、万優、妬いてる?」 「どうして、俺がそんなことで妬くんだよ」  正直、苛々した。  玄関を開けたときの、あの跳ねる様な気持ちは今の万優には微塵も残っていない。 妬いてる――そうかもしれない。  でも、認めたくない。絶対、ゼッタイ。 「万優は、どこに居た?」  耳元であまやかに囁く声に万優はちらりと視線を送った。 「同期と食事って言った。……映だよ。会ってるだろ、合コンで」 「ああ、あの変な関西弁の」 「そう、それと居酒屋に居た」 「デート?」  その言葉に、空を見上げる。  恋人の間には言っていい言葉と、悪い言葉がある。この言葉は明らかに後者だ。少なくとも、万優には。 「……だったら? だったら、嬉しいの? 空は。それとも、今空は深春さんとデート中だとでも言いたいの?」 「まさか。冗談じゃないか」  そんなにムキになるなよ、と空が顔を近づける。万優はそれを両手でめいっぱい押し返した。 「冗談じゃないよ! 映は友達だよ、互いにそういう認識で、それ以上になることもそれ以下になることもない。けど……っ…」  そっちは違うかもしれないじゃないか――そう言おうとして、言葉が詰まった。  傷ついたような空の瞳が視界に入り、思わず顔を伏せた。  ――ああ……そうか。キスを拒んだことなんて一度もなかったんだ……  それに驚いて、傷ついているんだと思った。  だけど、したことを戻すことは出来ないし、その行動は正しいと思っている。  キスで、誤魔化されたくない。 「もう……わかったよ……」  そっと、空の腕が万優から離れる。  すっ、と立ち上がると何も言わずに部屋を後にした。  ――深春さんは違うんだよ、空。  空のことが好きなんだ。友達や親戚以上になりたいんだよ。ねえ……聞いてよ、空。俺の話を聴いて。  なんて、言えたら、どんなに楽だろう。 「……サイアク」  呟いて、ベッドへと転がる。  ギクシャク。  そんな音が耳元で聞こえる気がした。
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