トマト保険

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ようやくたどり着いた民家には田中という表札がかかっていた。 もちろんアポなどとっていない。だがここで契約をとることもできないようなら、本社に戻るなど夢のまた夢だ。 「すみませーん、こんにちはー、田中さーん、いませんかー、満月生命です。」 しばらくして、玄関から出てきたのは短パンにタンクトップ姿の青年。彼は田中太郎と名乗った。健康的に日焼けした肌に引き締まった筋肉。着ているものを除けば男前の部類に入るだろう。 「あの、私、満月生命から参りました、桃山と申します。お忙しいところ申し訳ありませんが、少しだけお時間いただけないでしょうか。生命保険って入ってらっしゃいますか?」 私の質問には答えず、田中は言った。 「あんたこの辺では見ない顔だな。こんな暑さの中、歩いてたら日射病になるよ。とりあえず上がってくれ。」 これは好感触だ。金と時間に糸目をつけず、外見を磨いてきた甲斐があったらしい。彼の後に従い、家にお邪魔する。出された麦茶はよく冷えていておいしかった。 人心地ついたところで保険の話を始めたいが、初めから本題に入るのは素人のすること。まずは相手のフィールドにのっかる。 「田中さんは普段どんなお仕事をなさっているのですか?」 「農家だよ。トマト作ってる。」 「へえ、トマト。私も好きなんです。」 「そうなのかい?うちのトマトはさ、近所でもうまいって評判で…」 そこから小一時間、田中はトマトについて話し続けた。お世辞にも面白い話ではなかったが、彼は目を輝かせて語っていたので、私は話の腰を折ることはできなかった。 ようやく彼の話が一区切りついたところで本題に入ろうとしたが、これから収穫があるからとまた後日の約束となり、パンフレットだけおいていくことになった。 「これ家で食べてくれ。」 帰り際、紙袋一杯に入ったトマトを差し出された。嫌いじゃないが、引っ越してきたばかりで友人もいない私にこの量は食べきれない。 「いや、食べきれないので、大丈夫です。仕事で来ただけですし。むしろ私の方こそ長居してしまって申し訳ありません。」 私は断ったが、遠慮していると思われたのか、強引にトマトを押し付けられた。しかも、「畑に行くついでだから」と軽トラに乗せ、自宅まで送ってくれた。 「うちのトマトは最高だから。食べると元気になるぞ。足りなくなったらまたおいで。」 そう言って彼は軽トラを運転し去っていった。 足りなくなるも何も、腐らせる前に食べきれるだろうか。 とりあえず、一個水で洗い齧ってみる。 艶やかな皮から汁が溢れる。甘みと酸味のバランスが調度良い。なるほど、元気になれる味だ。心の傷にも効けばいいのに。柄にもなく、そんなことを思う。 結果、5日ともたずにトマトは消費された。 最後の1個を食べ終えるとなぜだか寂しくなった。その寂しさがすっかり虜になってしまったトマトに対するものなのか、それ以外の何かに対するものなのかは、まだ分からなかった。
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