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時空の交叉を認識する①
■時空の交叉を認識する
仮ヶ音ミドリコはネイビーブルーのワンピース姿で池袋東口のカフェに現れた。
血の通わない人形を思わせる痩せたからだつきや、櫛の通りそうもないほど絡みあった伸ばし放題の髪は、良家のお嬢様というプロフィールからは想像しにくい。
最も印象的だったのは、世界を睨みつけるような眼光だった。彼女の整った眉目は多くのひとが美人の範疇に含めるだろうけど、眼差しの強さが相手にそう気づかせないところがある。
僕は遠くからその不機嫌そうな視線に捉えられ、ひどく狼狽えてしまった。
店内の人間たちを無視するかのように闊歩してやってくる彼女にあたふた自己紹介すると、仮ヶ音です、と彼女は静かに答えて席につき、この虫ケラが……とでも言いそうな一瞥をくれながら
「先にお伝えしておきますが、わたしの眼つきはいわば標準設定で、機嫌が悪いというわけではありません」
そう言ってわずかに目元を細めた。
笑顔のつもりだったのだと思う。
「月霊學園の躯躰なら無用なのですが、物理的な会話では情報が煩雑すぎて誤解が心配になるのです。引きこもりのような暮らしを続けてるせいでもあるのでしょうけれど」
きれいな秋晴れですね、なんて話題もなく唐突に始まった会話に慌てながら、僕は自分が待ち合わせたのは誰だったかと一瞬考えた。
彼女が仮ヶ音ミドリコ――ダークサイドのプレイヤーにして、最も人気の霊獣躰「明神みあらか」の生みの親だった。
それは2017年10月。ダークサイド二度目の「躰乖祭」開催が発表されたころだった。
◆ ◆ ◆
「躰乖祭のおかげでダークサイドが活気づいてますから、お話するいい機会と思いまして」
僕が今日のお礼を言うと、そんな返答があった。
趣味に近いライターの〝取材〟に付き合うだけの意味を、彼女なりにもっているわけだ。
ふたりして注文したあと(彼女はラズベリーのパンケーキとカフェラテを慣れたしぐさで頼んだ)、僕はあらためてその日の趣旨を話す。
「ダークサイドとは、月霊學園という迷宮を舞台にしたホラーテイストのアドベンチャーゲームです。プレイヤーは躯躰と呼ばれる人形を操作として探索する。ですが個人的印象を言うと、このゲームについて話すならまずあの感覚に触れなくてはいけません。解放感というか陶酔感というか……あの感覚については多くの用語も登録されてますし、議論も活発です。今日はまず、それがどこからくるのかについて伺えればと……」
「つまり、かさねのことが聞きたいのですね」
仮ヶ音さんの言葉が僕の前置きを断ち切った。
「ええと……」
「OGF/同位体のトナリのことですよ。わたしたちが小学校からの知り合いだったことは『カフェテリア』のログを漁れば出てきますから」
一足飛びに進む話に戸惑ったものの、期待していたことが聞けそうで僕は少し興奮した。
「つまり……そのころからトナリ……かさねさんは、ダークサイドのアイデアをもっていたと……」
「そうともいえますが、それでは主客が転倒しているようです」
「というと」
「かさねははじめから、わたしたちとは違っていました。陸に打ち揚げられた魚のようなもので、生き延びるために試行錯誤をしていたんです。月霊學園はいわばその副産物なのです」
店員がパンケーキセットをもってくる。並べられる皿やカトラリーに見向きもせず、背筋をすらりと伸ばして話す仮ヶ音さんは確かにお嬢様だった。
「いただいたメールで、灰都さんはR・D・レインの精神分析に触れてらっしゃいましたね(*1)。ある気質をもったひとびとは、世界と触れ合うために偽りの自己、いわば仮面を被って生きる。それが日常的になれば、そのひと本来の〝内的な自己〟は世界から分断され、当人は自閉的な、いわば死んだ現実を生きることになる……そんな理解でよろしいでしょうか」
仮ヶ音さんの要約を聞きながら、僕は付け焼刃をひけらかしたようで恥ずかしくなったが、彼女の瞳がじっと促すので言葉をひねり出した。
「ええ、僕の思ったのは……月霊學園のプレイヤーはあの無機質な躯躰で動き、会話する。そこでは普段の生活で被る仮面などいらないので、本来の〝内的な自己〟が表に出る。それであの解放感を説明できるのではと」
「なるほど、面白いですね」
仮ヶ音さんは面白くもなさそうに首を傾げた。
「社会に適合しにくい心の分析、わたしも好きですよ。救われた気になれますからね。それが誤解でも」
「仮想人格救済論というのもそういう話かと思っていたんですが……」
「うーん、そうですね。たとえば……灰都さんはこれまで月霊學園に何回ログインしたか憶えてますか」
「……ええと、まだ半年程度ですから、1日1~2回として200回くらいでしょうか」
「躯躰の操作に慣れてきたのはいつごろでしたか」
僕は少し考えた。そう聞かれて、はじめは「躯躰」の操作に違和感があったことを思い出した。
「どうでしょう……数日もすれば気にならなくなったような」
「普段の生活で月霊學園での記憶を思い出すことはありますか?」
カウンセリングの予約は入れませんでしたがなどと軽口をたたく空気ではなかったので、僕はその後も続く質問に素直に答え続けた。
質問が終わってから、まるでチューリングテストでしたねとだけ言った。まさに人口知能の人間らしさを判定する試験官が僕がどの程度人間らしいか確かめているようだった。
仮ヶ音さんは黙ってバッグからコピー用紙の束を取り出した。
「灰都さんの判定結果はわかってますよ」
一枚目には見慣れたダークサイドのロゴと、プレイヤーらしい名前のリストがあった。
「チューリングテストに喩えるなら、ダークサイドとはプレイヤーがその領域を認識しているかを判定するテストです。かさねがそうデザインした。もちろん判定が目的ではありませんが」
仮ヶ音さんは紙を僕へ向けて何枚かめくった。
なにかのデータベースからエクスポートされたらしい数値の羅列。
「僕のプレイデータですか」
胸を冷たいものに触れられたようだった。
月霊學園で迫られる無数の選択肢に、僕がどう答え、いつどの霊獣躰を憑依させたのか、その詳細な履歴だった。
「あまり知られてないようですが、誰にだってダウンロードできるのですよ」
こともなげに仮ヶ音さんが言った。
「いまのお答えでもわかりましたが、あなたはすでにその領域を認識しています。昨日までにダークサイドにアカウントをつくった2,414名のうち42%がそうであるように」
「領域……」
「ええ、月霊學園を理解するにはただその領域から見ればいい。そうすれば〝本来の自分〟などという考え方のずれにも気づかれるでしょう。偽りの自己の奥に〝本来の自分〟がある、そんな解釈はまるで……恐竜のように古い。あまりに人間的です」
話し続ける仮ヶ音さんの瞳は潤んで見えたが、その顔色はずっと青白かった。
「レインは別の著書でこんなことも言ってます。偽りの自己が消滅するとき、太古の元型的な層に潜む、聖なる力の媒介者がよみがえると。太古の元型的な層に潜むものとはなにか。少なくとも〝本来の自分〟といった矮小なものとは思えません。そもそも……人間に〝本来の自分〟などないのです。月霊學園のあの無機質な人形に惹かれるとしたら、それはわたしたちの内側に〝本来の自分〟なんてないことを端的に実感させてくれるからですよ」
僕は無意識に呟いていた。守らなきゃいけないたったひとりのボクなんてない。ここには無数のボクたちがいるんだから――。
「そう。みあらかのワードメモリにあるセリフですね。かさねの言葉を元にしたものなんです」
え、と僕は聞き返した。
「みんなかさねが始めたことですから。これから躰乖祭で起こることも……ね」
◆ ◆ ◆
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*1 僕は仮ヶ音さんとのメールで、イギリスの精神科医R・D・レインによる精神分析の著作『引き裂かれた自己』の内容に触れていた。本書は統合失調症やその気質があるとされるひとびとがどのような世界に生きているかを分析したもので、ダークサイドにおける「仮想人格救済論」の議論で言及されたこともあり、その理解の助けになるのではと考えたからだ。なおレインの精神分析は現在臨床で用いられることはほとんどないそうだが、1960年に刊行された本書は精神医療という枠を超えて哲学的・思想的に広範な影響力をもち、日本ではテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を読解する副読本といったサブカル的文脈でも受容された経緯がある。
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