好きに線引く夏の思い出

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好きに線引く夏の思い出

 実習棟の三階の一番端、廊下の突き当りにある教室。決して少なくない所属部員数でありながら活動実績はほとんどない文芸部の部室だ。ともすれば悪い生徒たちの溜まり場にもなりかねないそこは、しかしいつ訪れてもせいぜいひとりふたりの大人しい生徒が本を読んでいるだけの空間だった。  梅雨が明けてしばし。煌々(こうこう)と照り付ける陽光から逃げるように文芸部員の定位置は日陰の廊下側へと移っていた。  期末テストも終わり夏休みへ向けて授業が短くなると、そのぶん部活の時間も長くなる。必然的に部室の滞在時間、つまりふたりの時間も長くなるのだった。 「先輩は夏休みの予定どんな感じです?」 「え?」  それはちょっとした気の迷いというか出来心というか、長い時間があるとつい何か話題を探してしまうヒトのサガというか、とにかく深い意味のある質問ではなかった。 「夏休みの予定ですよ、予定」  だからその短い返事は、ただ聞き取れなかっただけのことだと。 「いや、特には無いよ」  続いた補足の行間にも【まだ】という一言が含まれているものだと。 「なんにも決めてないんですか。もう目の前ですよ」  当然のようにそう思っていた。 「いや、そもそも予定を立てる予定からして無いのだけれど」  しかしその思い込みを否定するように、新田はピンと来ない様子で首を傾げる。 「言っている意味がよくわからないんですけど」  噛み合わずに困惑するふたり。 「それはこっちの台詞だよ。というか、ああ、そうか」  制服を校則通りに着こなして、ひとつ結びの三つ編みに紺色でフルリムのセルフレーム眼鏡という組み合わせは絵に描いたような文学少女。そんな見た目でありながら威風堂々、いや、むしろ傲岸不遜とでも言うべきだろう空気を纏った彼女は、なにかに気付いた素振りで手を打った。 「君は夏休みに入念な予定を立ててこの暑い中わざわざ遊び歩く派なんだね」 「派、って」  完全に理解した顔の新田は唖然とする後輩のことなど目に入らないかのように得意げに続ける。 「浮かれた空気に満ち溢れた夏休み。高い気温と眩しい日差しに増えた露出と弾ける汗が人を知らず知らずのうちに開放的に作り替えていく、そうそれは魔性の季節。海にプール、山でキャンプ、川でバーベキュー、街なら映画館とか涼しくて良いかな。人と連れ立って図書館で宿題をするのもまた一興。夜はお祭り、縁日に花火大会も欠かせないな。そしてそこから生まれるひと夏のアバンチュール…いいよね、そういうの…」  不二があっけにとられている横でやや早口にまくし立てた彼女は、ゆっくりと締めくくるようにペースを落としていき。 「ああ、創作の中でならね」  一息置いて投げつけるように吐き捨てた。 「え、あっはい。えっ」 「現実にはお断りだよ、冗談じゃない」  そう前置きすると、先ほどとは打って変わって忌々しそうに早口でまくし立て始める。 「切り付けるような日差し、蒸し暑い空気、どこへ行ってもひと、ひと、ひと。髪は傷む、肌は荒れる、人ごみに揉まれてパーソナルスペースどころか物理スペースすら確保できやしない。自然の多いところに行けば当然虫に刺される、蛇やなんかにも出くわす。海の家や屋台で食べるものは値段ばかり高くて別に美味しいわけじゃない。街だってそうさ。今のご時世エアコンの無い家なんてそうそう無いだろうに、外の施設へ涼みに行く時代じゃあないんだよ。わざわざ映画館まで行かなくても最新作以外ならWebでいくらでも観られるのに好き好んで炎天下を出かける気持ちは私にはわからないな別にわかりたくもないけどねっ」  そこまで言って、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らすとヌルくなったコーヒーに口をつけた。  部室を沈黙が支配する。コメントが難しい。 「…えーと、うん、先輩は二十歳になってもビアガーデンとか絶対行かなさそうですね」 「そもそもアルコールにあまり魅力を感じないけれど、それにしてもビアガーデンは本当に意味がわからないな。よくあんな商売が成り立つものだよ」 「そこまで言わなくても」 「まあ、一応未成年だしお酒を呑んだと言うほど飲んだことはもちろん無いから、そんな私にはわからないだけなのかも知れないけど」  そこは間違いないと思います、と直接口には出さない不二。 「でもこの間わからないことをわからないままにしておくのは気に入らないとか言ってませんでしたっけ」 「そんなことは言ってない。わからないまま唯々諾々と他人に従うのは気に入らないとは言ったけどね」 「ええと、何事も理解、分解、再構築、とかも言ってませんでしたっけ。理を識り分けて見極め己なりに組み直せれば賛否はさておき血肉にはなる、とかなんとか」  新田が一瞬「ぐっ」っと呻く。 「…あのときは上手いこと言ったつもりだったけど、今にして思えばあれはちょっと無理のある言い回しだったなと、そうだね…反省してる」  苦々しい顔で撤回を口にする新田。外に出たくない気持ちの強さが半端ではない。 「また大胆に前言撤回してきましたね」  呆れる後輩に対して得意げに胸を張る先輩。 「ふふふ、君子は豹変し小人は面を(あらた)めるものだよ」 「これ他人から見ると君子なのか小人なのかわからないところがミソですね」 「何を言ってるんだい。君子だろう?」 「クンシデスネー」 「よろしい。すなおは美徳だよ」 「まあ名前も(すなお)ですしね」  文芸部二年生、不二直(ふじ すなお)。 「…」  新田は笑いを堪えるような歯の奥に何か挟まったような複雑な顔で沈黙している。 「ちなみに兄さんは(まこと)です」 「カフェで働いてるっていう、偏屈と評判の」 「はい」 「ははあ…名は体を表すということわざがあるけれど」 「おっと僕は今先輩にすなおさを褒められたばっかりですよ」 「ソウダネー」  顔を見合わせてお互い温い笑みを浮かべる。 「まあともあれ」 「はいともあれ」 「夏休みにわざわざ予定を立てる予定はない。強いて言うなら家から極力出ない予定だよ」  改めて具体的に切り捨てる新田。 「もしかして幼い頃からずっとそんな乾いた夏を送ってきたんですか」 「そうだよ」  即答だった。 「先輩…いくらボッチだからってそこまで拗らせてるとこれから先が心配です。僕が遊んであげますからどこか行きましょう」 「最近流行りのウザ絡みする後輩漫画みたいな言い方は止めるんだ。私はボッチじゃない」 「そんなこと言って先輩の口から友達の話とか聞いたことないですけど。友達居ないんでしょ」 「失敬な、私にだって友達くらい…」  指折り数える。 「1…2…3…4…いや、3…やっぱり4かな?…いや…うーん、2、1ということも…」 「それ先輩が友達だと思っているだけだという可能性は」 「そういうことを言うのはやめるんだ不安になる」 「どっちにせよ自分でもひとりしか居ないかも知れないと思ってしまうレベルなのはなかなか深刻なんじゃないですか?」 「いいんだよ、孤独が一番自由なのさ」 「わあ、開き直った」 「ふふふ、自分を偽ってまで見栄を張っても仕方がないからね」 「いいこと言った風に聞こえますね」 「そうだろうそうだろう。崇め奉りたまえ、私が神だ」 「いいえ、部長です」 「部長なんて神みたいなものだろう」 「活動してる部員僕しか居ませんけど」  その言葉に何か返そうと口を開きかけて閉じ、ひと呼吸置いて妙に得意げな笑みを浮かべて立ち上がった。 「くくく、ひとり居れば十分さ。…むしろ好都合だよ。ちょっとこっちに来たまえ」 「え、はあ。なんです急に」 「いいからいいから」  新田は文芸部室の後ろにある本棚の一番奥へ向かっていき、本棚の一番奥の一角を指さす。 「…冷蔵…庫?」  言われるままついていった不二が示された先、本棚の一番下の段の一部には、本ではなく小さな冷蔵庫が収まっていた。 「驚くのはまだ早い。なんと冷凍室付きだ」 「そこは驚くところじゃないような。どうしたんですかこれ」 「部費で買った」 「ええ…いいんですかそれ」 「いいんだよ、部員が部活動に専念するための必要な設備投資なんだから」  彼女は困惑する後輩に構わず冷蔵庫を開くと、中からパステルカラーの棒を一本取り出す。真ん中でくびれたポリエチレン製の容器に入ったそれは、家でもよく見かけるおなじみのシャーベットだった。 「ほら、神の奢りだぞ。ありがたく受け取りたまえ」  よく冷えたそれをポキンとふたつに折ると、片方を不二に差し出す。 「あっはい、ありがとう、ございます?」  彼女は未だに状況がよく飲み込めていない後輩に構わず床に直接座り込むと切断面からシャーベットを齧り始め、不二もなんとなくそれに倣って隣に腰を下ろす。 「どうだい、キミひとりで良かっただろう」 「あー、なるほど確かに」  三人ではわけられない、という。 「そういうこと」  そう言ってシャーベットを齧る新田は、齧るというか、歯を立てて噛み砕くようなちょっと荒々しい食べ方で。 「こっわ」  ちょっと引く。 「なにか言ったかい」  彼女はそう言ってまたガリっと乱暴に、むしろわざと見せつけるようにシャーベットを齧り取って笑みを浮かべた。不敵で、冷笑的な。 「いーえなんにも」  彼はにこーっと笑み作って返す。 「キミは…最近悪い笑い方するようになったね」 「まさか、もしそうだとしてもきっと先輩の影響ですよ」 「ええ、私かい」  虚を突かれたようにきょとんとする新田に感慨深い面持ちで頷く不二。 「そりゃそうですよ。鏡見たことないんです?」  嬉しいような気まずいような半笑いを浮かべた後、ふと何か思い付いたように黙る。 「いやまあそれなりに笑顔には自信があるけれども…ふむ」 「あ、やっぱりわざとやってるんですね。って、なにかありました?」  新田はシャーベットの大半をガリガリと齧りつくしてしまい、容器に残った欠片を握って溶かしながらひとり納得したように唸っている。 「ふむ…ふむ」 「引っ張りますね」 「ああすまない。なんというかだね、わざわざ暑いところに出向かなくても、だよ」  程よく溶けたシャーベットの欠片を行儀悪くずずーっと音を立てて余すことなく啜ると、赤い舌がちろりとくちびるを舐める。 「こういうのも、立派な夏の思い出じゃないかと思ってね。…どうだい?」  新田の仕草をじっと見ていた不二は、同意を求められて暫し思案に耽る。  窓に近付いてしまったので少しばかり暑く  外では蝉の鳴き声がうるさく  隠れるように並んで座る先輩の肩が近く  運動部の喧騒が遠く  だからそれらを合わせたぶんだけ  シャーベットが冷たく感じて 「うーん、なるほど。確かにこれも夏の思い出ですねえ」 「そうだろうそうだろう」  自画自賛するように頷く彼女に水を差すように彼は続ける。 「でも夏休みに出かけないのはやり過ぎですよ。プールくらい行きましょうよ。冷たくて気持ちいいですよ」 「ええ…」 「なんなら水着買いに付き合いましょうか?どうせ持ってないでしょ」 「どうせって言うな。ちゃんと学校指定のやつがあるよ」  むっとした顔でされた反論になまぬるい声と視線を向ける。 「まさか夏休みにスクール水着でプールに行こうって言うんじゃないでしょうね」 「言ったわけだが」 「これはひどい」  微塵の悪気も感じさせない即答に呆れた声を上げるが、彼女は気にした様子もない。 「そして当然現地までは制服で行く。学生だからね」  気にしなさもここに極まれり。ショックを隠し切れずにがっくりと項垂れる不二。 「そこまで僕に私服を見せたくないとは。さすがにちょっと傷つくなあ」  その様子にさすがに突き放し過ぎたと思ったのか狼狽する新田。 「いやそういうわけではないんだけれど…」 「あ、もしかして私服のセンスがヤバいとか」  じとりとした目を向けられ気まずそうに頬を掻く。 「割とそうかな、たぶん。そういう方面にはリソースを割いてないからね」 「髪や肌のケアはかなり細かいのに」 「それはそれ」 「これはこれですか」  妙な間があって、顔を見合わせたふたりが揃ってくすりと笑った。 「服と違って髪や肌は自分の一部だからねえ」 「いやいや、いくら取り換えが利くっていっても服だって自分の一部みたいなもんですよ。服に対する評価が余りにも低い…」 「そもそも自分で言うのもなんだが、制服凄く似合うと思ってる」 「まあ否定はしませんけど」 「そうだろうそうだろう」  自画自賛するように頷く彼女に水を差すように彼は続ける。 「でも先輩進学でしたよね。どこの大学だって制服なんか無いですし、そんなことじゃ来年度早々恥ずかしい思いをしますよ」 「ぐっ…」 「まさかとは思いますけど、セーラー服で大学に通うつもりじゃないでしょうね」 「いやさすがにそれは…ない…けれども…」 「今から鍛えておいたほうがいいんじゃないかなーって思いますけどねー」  ニヤニヤと笑う後輩の顔にイラっとして反射的に額をデコピンで弾く。 「あいたっ」 「ご忠告どうも」 「いえいえ…」  新田の浮かべた薄ら笑みに不機嫌を感じ取って愛想笑いを浮かべる不二。  その顔をたっぷり一秒見つめて、呟くように続ける。 「けれどもプールについては、そうだね。一応、そう一応心の片隅くらいには留めておこうかな」  後輩の表情がきらりと輝いた。 「ほんとですか」 「まだ行くとは言ってない」 「あっはい」  景気よく食いついてきた後輩を制して溜息を吐く。 「まったく。だいたいそこまで言うならだよ。キミのほうは既にそれなりに夏休みの予定が詰まっているんじゃないのかい」 「それはもちろんそれなりに」  しれっと即答する不二。 「ふむ…なるほど」  それなりに夏休みの予定が詰まっている後輩の、本日ここまでの言動を改めて振り返ってみる。  室温が上がった気がするのは、陽の光が近いからだろうか。 「暑いね」  視線を向けることなく彼女が言う。 「夏ですからね」  視線を外しながら彼が答える。 「もう一本食べないかい」 「いいですね」  お互い目を合わせることなくシャーベットを分け合う。  部室は暫く静かだった。  今年の夏は、まだ始まったばかりだ。
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