欲求

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欲求

「今日は外食しよう。奢ってやるから。」  若い恋人は狭いシングルベッドで大の字になり、気怠げにTシャツの中に手を突っ込み、俺の背中を擦っている。俺はそそくさとステテコを履いて、緑茶を体に流し込み、座布団に座っていた。  ***************************  狭いシングルベッドで男二人横になると結構きつい。晴生が部屋に来るようになってから、ベッドを買い換えよう、と思い立ったこともあった。しかしワンルームをほとんどベッドが占めることとなり、平日も一人広いベッドで寝るのが嫌だな、とかいつ別れるか分からないのに重すぎるんじゃないか、とか玄関が狭いから中で組み立てるにしてもこの部屋に人を入れたくないな、とか恋人のためにベッドを買い換えるアラフォーの男が気持ち悪くないだろうか、とか…マイナス思考を総動員して考えあぐねた結果、買わないことに決めたのだった。  晴生は窮屈なシングルベッドで密着する。そのまま放心状態の男に抱きつき、まるで大事なものでも扱っているように頭を撫で、背中を擦ったりして話もせずじっとする。それが好きだ、と言った。最中はよく喋るのに、その後は話さず、じっとするのが好きらしい。俺ももちろんこの歳までは男として普通に生きてきて、今まで抱く側だったわけだが、女の子達は割と事後に話す子が多かったので、話さない恋人の対応の仕方が今でもあまり分かっていない。  まだ冷めない熱が肌から肌へ直に伝わり、お互いの臑の毛の感触まで伝わり、ああ、男に抱かれたんだな、とふと実感したりすることもあった。  晴生のにおいがより濃くなっていて、そのにおいで目眩のような、バターのように溶けてしまいそうな錯覚に陥り、そのままドロドロになって、眠ってしまいたくなる。しかし眠りに落ちるまでに理性が働き、俺はベッドから離れる。晴生は毎回俺が離れるのを名残惜しそうに唸ったり、引っ張ったりして止めようとするが、言い訳を放ち足早に離れる。離れがたい気持ちと離れたい気持ちが同時に押し寄せる感覚だ。  晴生はだいたいそのまま微睡み、その間に換気扇の下で煙草を吸って、気分を落ち着かせる。一応、律儀に歯を磨いてからベッド前の座布団に戻り、テレビをつける。晴生は俺が戻ると、無言で二の腕やら背中を黙ったまま触りだして、またベッドに戻されるか、起き出してシャワーに誘導される。  自分から二回目に誘える訳もなく、断る理由もなく、それは恋人の都合に全て任せていた。  **********************  気分を落ち着かせるため、一服したい衝動が沸いたが、晴生がどう思うか分からず、意味もなくテレビをつけた。今日はいつもよりも自己嫌悪が激しい。恋人の真っ直ぐな熱い視線と甘い言葉を一身に受け、今日一日の興奮も相まって、自分が今まで発したことのない言葉が勝手に飛び出し、激しく求めてしまった。  晴生を振り返らず、何気なさを装って呟いた。普段は黙ってベッドで事後の余韻を少しの間楽しむ余裕があるが、今日は違った。自分がつい先程言ったこと、したことの生々しさがどっと雪崩れ込んだ。宇宙空間でぷかぷかと何も考えず浮遊して気持ちよくなっていたところ、突然地球に押し戻され、地面にめり込むほどの重力に耐えられなくなったようだ。  微睡みの時間が皆無だった分、何か話さないと、と思って口から飛び出したのがという突拍子もない言葉だった。脳と口が連動していなかった。事後の高揚感からかまだ無重力感覚が抜けきっておらず、何でも出来る気になっているのかもしれない。それかただの疲労で腹が減っているのかもしれない。  晴生の背中を擦る手が止まった。晴生は何も発しない。これでベッドに引き込まれたら、もっとひどい醜態を晒してしまうと咄嗟に思い、勢いに任せて立ち上がったが、少しフラついてしまった。  晴生がこっちを見てるかどうかも分からないが、早足で換気扇の下へ行った。立つと尻と腰が重い。太ももは少しプルプルと筋肉が疲労を訴えている。  後先考えずに欲望のまま動くといけない歳だ。これは明日、明後日にはもっとひどくなっているはずだ。きっとその度に今日のことを反芻してしまう。何気ない日常の中で。自己嫌悪と性的興奮、そして尻が疼くだろうな、と考えるだけで胸が掴まれたように痛んだ。歳を取ると傷の治りは遅い。深入りしてはいけない、誰かが俺に訴えているが、その声はだんだん弱まるばかりだ。  煙草をテーブルから持ってくるのを忘れ、つけっぱなしの換気扇がゴーーーと鳴っている。煙草を取りに行ってもいいが、晴生がこちらを見ている気配がして、そちらを振り向けず、そのままトイレに向かった。  少し落ち着いてからトイレを出ると、晴生が換気扇の下で煙草を燻らせていた。真っ裸で煙草を吸う男の引き締まった体を見ると、先程のことが生々しく思い出され、直視出来ない。  冷めた体が一瞬で熱を帯びた。狭い廊下を通るためには、晴生に触れるしかないが、どうするのが正解か分からない。身動きが取れずにいると、晴生がゆっくり近づいてきて、俺に軽く口づけた。煙草のにおいがする。 「吸いたかったんでしょ」  吸いかけの煙草を唇に挟まれた。目が合うとギラリと瞳が光り、色っぽい男がにっと微笑んだ。ドキリと心臓が跳ねる。 「俺もトイレー」  と無邪気にトイレに向かう。  俺はもらった煙草を深く吸いこんだ。頭がクラクラする。これは煙草のせいなのか、晴生のせいなのか分からない。  雨が止んだのか、うるさいくらいだった雨音が聞こえなくなっていることに気づいた。いつ頃から止んだのかも覚えていない。そういえば蚊取り線香をベランダに出したままだった、とどうでもいいことを思い出した。きっと激しい雨でドロドロになってもう使い物にならなくなっているだろう。  晴生がトイレから出てきて、ぼーっと煙草を持ったまま突っ立っている俺に近づいてきた。目を逸らしてしまい、煙草を見やると灰が今にも落ちそうなことに気づき、急いで灰皿に灰を落とし、もう短くなった煙草を押しつけた。晴生が通れるように換気扇に近づいたが、後ろに回られて優しく抱きしめられた。 「ね、外食するなら、もう一回」  耳元で甘く囁かれる。それだけで俺の体温は一気に上昇し、後ろで晴生のものがもう既に堅くなっているのを感じた。水で洗った手が少し冷えていて気持ちが良い。顔を撫でられ、微かに石けんの香りがした。首筋や耳に熱い吐息がかかり、蛇のような熱い舌が伝う。 「西瓜は?」  喘ぐような声が出てしまったが、こうなったら仕方がない。晴生は俺が断らないことを知っている。そして気づいているに違いない。俺が求めてしまっていることを。  快感が上から下へぞわぞわと血を巡って蠢き、下半身がビリビリと再び快楽を求めて、押しつけられた晴生のものにさらに強く尻を押し当てた。 「西瓜よりこっち」  晴生は耳朶を甘噛みしながら、ステテコに手を突っ込み俺の尻を鷲掴んだ。  ベッドまで誘導され、Tシャツとステテコを手早く剝がれた。上に跨がる男は豹のように美しく、獲物を追い詰める鋭い眼差しで俺を見る。  キスを待つように目を瞑り、背中に手を回したが、予想に反して、額や頬、瞼、顔中に優しいキスが降ってきた。俺が目を少し開け様子を伺うと、ずっと見ていたのだろうか、目が合う。そしてゆっくり試すように近づき、軽く唇と唇を(かす)らせた。煙草のにおいが微かにする。焦れったく、くすぐったい。まるで俺からそれを欲するのを待っているように顎や頬にキスを降らせる。煙草を吸ってから歯を磨いていないな、と思ったがそれよりも目の前の瑞々しい唇にキスされたいという欲求を我慢出来ない。  俺は晴生の両頬に手を添えて、自分のものに近づけた。唇と唇が重なり合い、深くなり、無我夢中で貪り合った。晴生が豹なら俺は子鹿にでもなってサバンナの真ん中で生き血を吸われて食われてもいい、と思った。
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