1 八方睨みの男

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1 八方睨みの男

 野村(のむら)は、男が書類に目を通している間中体を強張らせていた。  嫌な汗が背中を伝っているのがわかった。  ワールドカップの勝敗を決めるPK戦に出場しているゴールキーパーや、1点差で最終回の抑えに登板するリリーフピッチャーの心理に共感できるような気がしていた。  漲る緊張感、というやつだ。  心臓が頭の中いっぱいに拡大したかのように、大きく鼓動を打っている。  目の前の男は、黙って野村が提出した紙の束を検分している。  男が時折紙を捲る音以外は何も耳に入らない。  何を考えているのか、男の顔からは窺い知れない。  というよりも、およそ好意的な感情は読み取れない。  何しろ、顔が怖すぎるのだ。  何かに似ている、と野村は思った。  歴史の教科書に載っていた屏風の、番の生き物の顔がこんなふうではなかったか。  いや、高校の修学旅行で京都に行ったとき、寺の天井いっぱいに龍の絵が描かれていた。あれが一番似ているかもしれない。  部屋のどこにいても、その龍の目がこちらを睨んでいるように見えるのだ。  この男も、そんな顔をしている。  突き出た眉骨と濃く太い眉が目元に『ゴッド・ファーザー』のワンシーンのような陰影を造り、その下にはあの迫力のある龍の絵にそっくりな、ぎょろりと大きな三白眼がある。  体格も、イタリアマフィアと言われても納得するくらいがっちりしている。  上司である男――合田(ごうだ)は、最後のページに目を通し終えると、その三白眼を上向けて野村を見た。  野村は竦み上がる。  部屋のどこにいてもこの男に睨まれる。決して逃げられない。  そんな心持ちだった。 「……野村」  名前を呼ばれただけで、寿命が二十年ほど縮みそうだった。  3回くらいでその場で息絶えるかもしれない。  声も、地獄の底から甦ってきたかのように怖い。 「は、はィ?」  声が裏返ってしまった。  しかし、合田は一切表情を変えず、それについては無視して、ぶっきらぼうに言った。 「……お前の能力はこんなものか?」  鳩尾に重い一発を食らったように声が出なくなる。  昨晩必死で作った顧客プレゼンテーション用の資料だったが、合田の手の中のそれはもはや紙屑のように感じられ、引ったくってゴミ箱に捨てたくなった。 「す、すみません……! すぐ作り直します!」  バネ仕掛けのように勢いよく頭を下げた野村に、合田は短く尋ねる。 「どこをだ?」 「えっ?」 「この資料のどこがだめか、ちゃんとわかって言ってるのか?」 「……あの、そ、それは――」 「とりあえず言っただけか?」 「……う、あの」 「そんなことで、作り直せるのか?」 「……」  返事もできなくなった野村の前に資料を放り出し、男は椅子ごと背を向けた。 「次はこんなものは出してくるな」 「……はい」  蚊の鳴くような声でかろうじて返事をして、野村は上司のデスク上の「こんなもの」を手に取り、のろのろと自分の席に戻った。  周囲の社員達が気を遣って沈黙しているのが空気感でわかった。
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