ふと思う、徒然日記

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「哲学への導入そして絶対」  絶対というものがあるだろうか? そんなことをふと早朝に思う。絶対的に絶対がない、しかし、絶対が存在するとすれば、その文章は意味をなさなくなる。  文章という不完全さを少し思う。ヴィトゲンシュタインは一喝した。結局、今までの哲学は言語ゲーム、すなわち、ただの言葉遊びに過ぎなかったと、語りえぬものに対して、人間は沈黙するしかないと。しかし、人間は語りたくなる。神、世界、不可解性、そういったものに。  我々は、人が思っているほど、莫迦ではないと感じる。教育を受け、自分の考えを表明している。それで、十分に思考が備わっている。思考の表明はいい響きだ。言語は自分が思っていることを示す。それが不可解なやり取りになろうとも。  絶対というのは、ありそうでない、と思われる。また真理というものも、なかなか分からないものである。結局、人間は人間の尺度、また、自分は自分という尺度でしか、物事を考えることが出来ない。それもまた宿命なのだ。己の細胞の働き、精神作用、そういったものは、各自が所持していて、決して、個々が他者を完全に理解できるとは限らない。汝自身を知れとはよく言ったものである。自分すら、人は完全に理解できない。  そこから哲学が始まる。哲学なぞ難しそうな学問をやるとは奇異な人種だ、そう思う大衆もあるかと思う、しかし、人は人知れず哲学をしている。何で私は生きているのだろう? どうして私は恋をするのだろう? そんなことも、全て哲学に繋がる。  近代にデカルトが登場し、精神と物質を分けるまで、物理学といった学問も全て、哲学であった。皆が遵守する法律、これもまた、古代より受け継がれる哲学によって根幹をなすものである。果たして万人は哲学をして、また欲しているように思える。いや、俺はそんな偏屈な学問より、博奕が好きだ、そういった人間もまた、己の欲望の原理に従い行動し、勝っただの、負けただの、どうして勝てない? そういったところから全ては哲学が始まる。無意識に人は哲学を欲している。  ところで、絶対を思う。ふと思う、例えば博奕、勝てば絶対的に良いことか? そうとは限らない。チェスのトッププレイヤーは、勝負の結果より勝負の質を求める。ベストな手を指せたと感じれば、彼はそれで満足する。だから、絶対こうだ、と思うことが必ずしも絶対ではなく、異例があるように、絶対を探索すると、なかなかないことに気が付く。十円と五百円、どっちにより価値があるというのだろうか? 大抵五百円、である。しかし、ある子供は十円、と答える。何故か? 十円あればお母さんに公衆電話で電話することが出来るから。こういった具合で、人の価値観は違うのである。だから絶対というものを探索する時、厳密な論理に従って、思考することが必要とされるから、哲学はややこしい文体で書かれるのである。  少し難しい話をすると、哲学者というのは両義性を備えている。環境というものに束縛されながら、自己形成は己の自由から発露するものである。こういったことを言ったのがサルトルである。こういった概念を持ち合わせること、これは高次の概念である。  さて、歴史の話でもしよう。古代ギリシャから哲学が始まり、ソクラテスが真理を探究した。そしてアリストテレスに受け継がれ、それがイスラーム世界へ渡り、アリストテレスの哲学がイブン・ルシュドによって紹介された。そこから、我々が普段使う、ゼロの概念が生まれた。これは画期的な発明だと思う。脈々と哲学は歴史を伝わっているのだ。  哲学を莫迦にして結構。哲学に憑りつかれるものは千人に一人である。哲学ははっきり金にならないし、どうでもよい。しかし、哲学は同時にまた必要なのである。何故なら、人は皆生きていくうえで、絶えず疑問と苦悩を持ち、無意識に各々の哲学を持っているのだから。哲学は下らないものでありながら、同時に必要、こう考えた人は、概念の両義性を持ち合わせる、哲学者への一歩なのだ。  今回はざっと哲学への導入を綴ってみた。また思うところがあれば、書きたいと思う。
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