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真夏の夜
グラウンドの、土の匂い。夜になっても止まない、セミの声。ベンチに腰をかけて、ずっとずっと聞いていたい、夏の音……。
「もしもーし! 大丈夫ですか?」
その声に、ハッと目を見開く。バッチリと目が合うと、若者は「良かったー」と言った。若者よ。良くはないんや。オレの存在に気がつくやなんて。
「熱中症で倒れているのかと思った」
無邪気な笑顔を見せる若者。彼は、社会人野球の強豪チーム、春日園の野球部員だ。四月に入社したばかり。まだポジションも与えられていないが、毎晩、練習が終わった後もひとりでバットを振っていた。春日園は、社長が野球好きすぎて、有名無名を問わず、気に入った選手を自らがスカウトしてくる。彼もそのひとり。足の速さと守備のうまさが魅力だが、打撃に課題を残している。
「だ、大丈夫や」
恐る恐る、言葉を発する。
「そうですか。飲み物、いりますか? 部室にあるので」
彼は相変わらずのニコニコ顔で、話しかけてくる。会話が成立していることに、驚きを隠せない。
「それより、闇雲にバット振ってたって、上達せんよ?」
ベンチから立ち上がると、昔ならしたスイングを披露する。そう。昔は、このチームの最強の四番やった。
「すごい! あなた、経験者なんですね」
「『あなた』って気持ち悪いわ。タマや」
久しぶりの自己紹介。すると若者は一瞬、後退り、目を丸くした。
「タマって……」
おっ? もしかして、知ってる? 春日園伝説の四番、多摩明雄のこと……。
「小学生の頃に飼ってた、タマ?」
「は?」
「どことなく、タマに似てる! タマ、大人の男性に転生したんか?」
何? コイツ、本気で言ってんのか? 目を見ると、かなりの本気だ。
「そんなわけ、あらへんやろ。多摩明雄、春日園野球部のOBや」
「なんや……」
そんなにがっかりせんでも。なんか悪いことした気分……。
「タマやなくて悪かったな。おわびに、アンタのスイング、指導したる」
「ホンマですか? ありがとうございます! 申し遅れました! 僕は……」
「ああ、知ってる」
若者は、目を丸くした。知ってるよ。ずっとここで頑張ってる姿、見ていたから。
「さぁ、早よ!」
「はい!」
真夏の夜。春日園野球部元四番は、未来の四番候補を連れてグラウンドに降り立った。若者よ、ついてこい。今日から鬼コーチになったるから。
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