さよなら珈琲

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何かのきっかけで人を思い出すことがある。 例えばテレビで有名人を見たとき。例えば音楽を聴いたとき。例えば何か口にしたとき。 例えば何かの匂いがしたとき。 珈琲とタバコの匂いがする度に思い出す。 君のことを思い出してしまう。 夢を追って都会に出てきた私を待っていたのは人混みと喧騒、夜中でも明るいネオンと、慣れることのない特有の雰囲気だった。 田舎者の私は、今までとはまるで違う環境に中々慣れることも出来ず、すり減らすように毎日を過ごしていた。友と呼べる人は幾らかは居たが、考えすぎと人間不信を併発していた私はそれらに対して幾許かの信頼と、それと同量の疑心を消すことが出来ず心は疲労を重ねていくだけだった。 そんな中偶然知り合った彼女は驚くほどに違和感無く、まるで幼い頃からの知り合いであるかのように私の心へと入り込んできた。 同じように田舎から出てきたはずでありながらまるで自分とは違う、言うなれば都会慣れをしているように思えた。 しかし実際はそうでも無かったらしく、彼女もまた私と同じで心をすり減らしながら過ごしていたのだ。 同じように心をすり減らして日々を送る2人がお互いを求めるようになるのにそう時間はかからなかった。 彼女について語るのなら“不安定”という言葉が一番適切ではないかと思う。 普段は明るく社交的でよく居る良い人と称される存在だった。だが一度その皮を捲れば人一倍の暗さと切なさと飢えを心の内に抱えていた。少し目を離すと次の瞬間には何処か手の届かない場所に消えていってしまいそうな、そんな彼女を知れば知るほどに私の心は彼女を欲し、惹かれていった。 交際を始め、ある程度もするとお互いの家を行き来するようにもなった。狭いワンルームの中に内に暗さを抱えた2人がいた。重苦しい心とは裏腹に、その狭い空間は私にとって居心地のよい場所となっていったのだった。 「人ってなんで生きるのか考えたことある?」 「生物学的には子孫繁栄だな」 「じゃあ貴方自身は何のために生きてる? 」 「俺は………」 「私はさ、生きてるわけじゃないんだよ。ただ、死ねないから結果的に生きてるだけ、精神論で考えるなら死んでるんだよ」 「…………詭弁だな」 そんな彼女と言葉を交わすことが私はただ楽しかった。人間不信や疑心を忘れ、ただ会話に集中することができた。ただ、彼女のことが好きだった。 彼女はいつも珈琲を飲んでいた。学校にいるときも、どこかにデートに行ったときも、お互いの家にいるときも、決まってブラック珈琲だけを飲んでいた。 「ブラックだと苦くないか? よく飲めるな」 「そうかな? 結構美味しいし好きだけどな」 「俺はブラックはどうも無理だ、理解できない」 「そっか。まあ仕方ないよ、人と人とが分かり合えることなんて有り得ないもの」 そう言って彼女は少し寂しそうに笑って、黒黒とした液体の入ったカップに口を付けた。その動作から、何故か目を離せなくていつも見惚れてしまっていた。 「あ、タバコいい? 」 彼女は珈琲を飲むと、決まってタバコに火をつけていた。タバコの匂いは嫌いだったが、私はただ頷くだけだった。これがいつものパターン。お約束だった。 タバコを吸っている彼女はいつも何処か遠くを見つめていて、私から視線が離れていくのが少し嫌だった。 「なんかさ、嫌なこと忘れたくてタバコ吸い始めたの。でも今じゃ、これのせいで思い出しちゃうんだよね。ほんと馬鹿みたい」 彼女はタバコを吸うといつも自嘲気味に笑いながらそう言ってきた。何も言えなかった私はただ愛想笑いを浮かべ頷くことしかできなかった。 時が経ち、君との関係は終わりを告げた。 何か大きなきっかけがあった訳では無かったが自然消滅という訳でもなかった。 別れの言葉は君からのたった一言 「んー、ねえ、もう、終わりにしよっか」 ただそれだけだった。 それからのことは知らない。ひょっとしたら別の男とよろしくやってるのかもしれない。案外夢を叶えて楽しく過ごしているのかもしれない。いつの間にか地元へ帰ってのんびり暮らしているのかもしれない。 私は特に代わり映えも無く、普通に就職して普通に仕事をこなして、普通に交際して、普通に別れて。ただのそれだけでしかない。 今思うと求めていたのは私の方だけなのかもしれない。彼女はきっと私じゃなくても良かったのだ、ただ不安定な自分をそこにつなぎ止めていてくれる存在が欲しかっただけなのではないかと。 それでも今でも思い出してしまう。タバコの匂いが、珈琲の匂いがすると、不安定で自称死んでいる彼女のことを。そんな彼女のことが大好きだったことを。もう恋心などは残っていないし未練や後悔などが残っている訳でもない。ただ、記憶の奥底にある彼女の寂しそうな自嘲気味な笑顔だけがいつも頭を過ぎるのだ。 そんな時私は決まって、彼女の吸っていたのと同じタバコに火をつけ、彼女の飲んでいたのと同じ珈琲を口にするのだった。
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