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小晴はこの瞬間を迎えるために約三ヶ月もの準備期間を費やしていた。生きるのに必要最低限の分だけを残して魔力結晶を生成し、二畳分の大判用紙へ不慣れな大型魔術式を何度も書き直し、呼び水となる書物や骨董品を掻き集め、口上を述べるイメージトレーニングを重ねた。何の抜かりもなかった。抜かりは許されなかった。たったこの一瞬で、最低でも小晴の先三年間の人生が決まるのだ。
乳白色の石英のような魔力結晶を、大型魔術式の円陣に沿って均等に並べ、小晴自身は大判用紙から退く。腹の底まで行き届くような深い呼吸をしてから、足元の魔法陣に向かって両手を差し伸べた。
「召喚術式詠唱開始――」
魔法陣の一角がぼんやりと光を放った。一手目は順調。
魔術式はその名の通り、魔法の術式――医師が定められた形式に則ってメスを走らせるような手法だ。ある意味では数学の解法やプログラミング言語に似ている。まず初めに何を施行するのか定め、どんな手順や方法をもって解に迫るかを展開していき、その段階を繰り返して『望んだ答え』に辿り着く。
二手目、三手目――小晴が術式を詠唱するのに応じて魔法陣が光を迸らせていく。部屋中に魔力が溢れ、締め切ったカーテンや壁掛けのカレンダーが耐え切れずにばたばたと騒ぐ。今朝ハーフアップに編んだ小晴の髪が激しく乱れる。『解』へ迫るごとにひとつずつ魔力結晶が割れて空気に溶け込んでいく。
「我は望む。我は呼びかける。魔力を捧げ手を延ばす」
小さな部屋に閉じ込められた魔力はそのエネルギーを運動エネルギーに変換し、闇雲に、部屋中の物という物を掻き乱した。もはや召喚の呼び水として用意していた古い史書や最新の情報端末機も、『マナ』と呼ばれ重宝される魔力の原石も、荒れ狂う嵐の一介と化している。
己の魔力が変じた姿とはいえ、猛威を振るう魔術式に小晴は今更ながら恐れを覚えた。同時に興奮もあった――これは確実に『当たり』を引いた。小晴は召喚術式の最後の文句を放った。
「我が手を掴め、ここに応じよ!」
解は成立した――瞬間、強烈な閃光が魔術式をなぞり、一本の柱となって天井まで突き刺さった。小晴はあまりの眩しさに瞼をきつく閉じるとともに、魔力が一転に収束し物体に変じたエネルギーの反動で、床へとよろめき倒れる。
宙を舞っていた物という物が、突如、空間に投げ出されてばさばさと落下した。
召喚術は成功した、その結果は――小晴は慌てて魔法陣を見やる。
そこには人型が立っていた。二本の脚があり二本の腕があり、頭からは長くて真っ直ぐなポニーテールが垂れている。翼や角などの異形のしるしは無い。光を失いながら収束する魔力を背に、人型の鋭い双眸が小晴のそれとかち合った。
ぞっとするような視線。それに小晴は射抜かれた。尻もちをついたまま、少しでも呼び出したモノを理解しようと小晴は目を走らせる。
両手が右腹部の前に添えられている。そこから液体が滴っている。人型は「うう」と低く呻いて両膝をつく。黒く美しいポニーテールが弧を描き、その人型は横倒しに床へ突っ伏す。
小晴はどれくらいそうしていたのか、放心してへたり込んでいた。嵐が通過したかのように物が散乱する室内、磨滅して跡形もなくなった魔法陣、その上に広がる赤黒い液体、その中心で倒れている人型のモノ――。
呼び出した従者は、今しがた切腹したばかりの忍者だった。小晴にはそうとしか思えなかった。
「お嬢様、お嬢様? 何かございましたか?」
コンコンと強いノック音が小晴の意識を現実に引き戻した。かなりの騒音と振動を立てたことに、さすがの召使いも訝しんだのだろう。呼び入れるべきか否か、瞬時に悩んだ。が、召使いは魔術に関して素人だ。それに主のひとりとして、うろたえた姿を晒したくはなかった。
「大丈夫……」
思ったより声はかすれていた。
「ちょっと、魔術でうるさくしただけ。ごめんね、仕事に戻って」
「はあ……何かありましたら、お申し付けくださいね」
扉越しにゆっくりと召使いが去っていく。彼女はお父様にこの騒動を伝えるだろうか? いや、伝えるにしても、こちらが相応の『結果』を提示できれば無事にやり過ごせるはずだ――この召喚術式が相応の『結果』であることを提示できれば。
小晴は呼吸を意識しながら、召喚術式の『結果』である人型を見やった。それは人間、しかも小晴とさして歳の変わらぬ少女のように見えた。しかし召喚に際して一度ぶつかった視線は少年的で、獣のように鋭く、鬼のように冷たかった。静かに瞼を閉じている現在の風貌は獰猛さの欠片もなく、少年と少女の間を揺らいでいた。腹部から出血している割に顔色も良いような気がする。そこで、初めて小晴は『それ』に近づく勇気を得た。
小柄な背格好で、和服に身を包んでいる。首にはマフラーのように長い布が巻かれてある。帯には一振りの刀が差してある。小晴が瞬間的に忍者だと断じたのは、その服装が、幼い頃に培われたいわゆる典型的な忍者の姿と合致したからだ。
目前で床に横倒れになっているそれは、両手に小刀を握り、その刃渡りの大部分は右腹部に収められていた。腹部の反対側から真一文字に衣服が引き裂かれ、その線に沿って赤黒く濡れている。だが、もう体中から抜け切っているのか、新たに流れ落ちる血液は無かった。
ヒトの血液は成人男性でおよそ五リットル強と聞く。二リットルペットボトル二、三本分を部屋中にまいたとして、この程度の量で済むだろうか――小晴は忍者の下にこぢんまりと広がる赤黒い液体を見て考えた。そもそも何故、切腹を? 召喚の瞬間に鉢合わせたのも間が悪すぎる。この忍者は生きているのではないか。
召喚術で呼び出せるものには、現在のところ限りがある。竜や天使といった幻想種、英雄など実在した人物の思念体、そして死霊のたぐい。すっかり気が動転していたが、被召喚物が失血死などの肉体的な死を迎えることは有り得なかった。何故なら生体を持たないのだから。仮に生きた人間を呼び出すとしたら、それは召喚術ではなく転送術である。小晴は自身に落ち度がないことをひとつずつ確認していった。
では次の問題点――この忍者は何者なのか? 次点に持ってきてはいるが、実際にはこれが一番の問題であった。
小晴が呼び出そうとしていたのは電子媒体に介在できる能力を有した幻想種であった。これは父親が従える召喚物に類するものと言って良い。そのために小晴は呼び水として、数学・電子工学にまつわる史書や最新の情報端末機を用意していた――最終的には魔力の嵐で部屋中の物が散乱したが、術式にも幻想種召喚の因子を加えていたので、大きく狙いが外れてはいないだろう。
ではこの忍者は思念体か? はたまた、死霊のたぐいか? 後者だけは絶対に御免だった。召喚術の中でも死霊にまつわるものは特別に『死霊術』として分類され、その評判の悪さは小晴の耳にも届いている。概して、死にまつわるものはいつの時代も忌避すべきことだった。
かくなる上は、この忍者が何者なのか直接問いただす必要があった。小晴は意を決した。
小刀を握りこんだ忍者の手の上に、小晴は自分の手を重ねる。ぞっとするほど冷えた手は傷と泥と血にまみれていたのに、白魚のような小晴の指よりも、細くしなやかで不気味な美しさを有していた。
「死んで――ないわよ、ねっ」
小晴は弾みをつけて一気に、忍者の手ごと小刀を引き抜いた。引き抜いた拍子に小刀が吹っ飛んで、小晴の顔の真横を通り抜け、壁にぶつかって落下した。血飛沫は無く、抜いた小刀の跡から血が溢れ出る様子もなかった。
脈をとろう――そう思った時、小晴の手の中で忍者の両手が微かに動いた。反射的に小晴は手を放した。
「う……うぅ……」
低くかすれたうめき声。小刀が離れて手持無沙汰な指が僅かな屈伸を見せる。探るような手つきで己の腹部に両手を運び、まさぐって、忍者は切れ長の両目を開いた。
瞬間。小晴にとってはその程度の時間だった。視界がぐるりと水平に巡り、不格好な操り人形のような姿勢に体が固定された。
「誰だ」
耳元で囁く声があった。顎をがっちりと指で掴まれ、両腕は後ろ手に回されている。
恐怖と怒りが同時に小晴の胸に沸き上がった――呼び出した召喚者は主、呼び出された召喚物は従者、これが召喚術における絶対のルールである。つまり背中に回って小晴を捕らえている忍者は、本来であれば従者として小晴に傅かなければならない存在だった。少なくとも小晴が手荒に扱われる所以は無い。
「あんたこそ、誰よ」
声を震わせながらも、小晴は気丈に振る舞った。
「私に呼ばれたのを覚えてないの? 切腹しながら登場なんて、前代未聞よ」
「切腹……」
忍者の声に僅かな迷いが混じった。その隙をついて逃れようとしたが、両腕はきつく背中で縛られていた。唯一、掴まれていた顎が離された。
「……切腹」
忍者は耳元で何度も反芻させる。やがて小晴の腕を放し、互いによろめいた。小晴は這うように前方へ逃げ、忍者は壁際へと下がりながら首元の布を鼻までたくし上げた。
「私は――死んだ」
小晴の最も聞きたくない言葉だった。
「何度も死を繰り返した。幾度もこの腹を裂いた。でも……」
腹の真一文字の傷を撫でていた忍者は、ついと小晴を見上げ、
「……あなたの声が聞こえ、あなたの手が延びてきた」
「……そうよ。私があなたを呼んだ」
この忍者が何者にせよ、まずは互いに冷静さを得ることが必定だと小晴は考えた。互いの状況を整理し、今後を考えることが。小晴も召喚から今まで場当たり的に反応していたが、ここにきて漸く、ものを考える余裕が出てきていた。
「無礼を働きました」
唐突に忍者が片膝をついた。
「突然のことで、無体を……。あなたは、その、名のある方なのでしょうか?」
「名って、六条小晴、だけど……」
六条、と幾度か繰り返して、忍者は首を傾いだ。切れ長の鋭い眼が惑ったように泳ぐ。
「京のお公家でしょうか?」
「あ、違う、そんなんじゃなくて」
馬鹿正直に名前を答えたが、忍者が聞いたのは身分らしかった。小晴に膝を屈しているのは、召喚術の本来のルールがそうさせているのか、或いは忍者の気質がそうさせているのか、計りかねた。
六条家の名は、ある意味で過去の貴族たちのような力を持っているが、現代日本において正式な身分制は敷かれていない。『六条財閥』と評されることは多々あっても、法的には一般市民と同様だ。
「私はあなたを召喚術で呼んだの。私にはあなたを使役する権利があります」
「まやかしのたぐい……ですか?」
「まあ、古風に言うならそうかもだけど……」
使役と言っても、召喚物が術者に反抗したり身体を害したところで何らかの罰則が加えられることはない。ただ存在するための魔力源を失うだけだ。言わば術者という権威をもって召喚物を従えるのが召喚術のメソッドだった。
「それで、あなたの名前は?」
「はあ……ヨモギユキエと申します」
「どんな字を書くの?」
「草のヨモギに、ウツボをオうと書いて、ユキエです」
そう、と返事をしたが漢字が浮かばなかった。ただ語感からして、日本人であるようだ。そして英霊の思念体といったたぐいでも無い。その名に覚えは無かった。
「あなた、格好は忍者みたいだけど、そうなの?」
「はい。ハグロシュウの者です」
小晴は首をひねった。忍者と言えば伊賀・甲賀、もしくは今思いつかないとしても聞けば「ああ」と思い当たるような名は知っているつもりだが、それではない。
「じゃあ……最後に」
他にも聞きたいことは山ほどあったが――切腹の理由とか正確な漢字とかいつの時代の者なのかとか――妙な疲労感も押し寄せていた。聞きたいことは追々リストに書き出すとして、取り急ぎ確認したいことだけを訊ねることにした。
「あなた、男の子?」
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