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10
送迎車が六条邸の玄関前に着き、小晴を降ろした後、車庫へと向かっていく。小晴は少し見送ってから、玄関へのアプローチを登った。膝ががくんと折れて階段を踏み外しかけると、横からゆきえが支えてくれた。ふたり、黙って階段を踏みしめ、玄関の扉を開ける。
「あ、お嬢様、ゆきえさん」
志桜里さんが玄関の靴箱にある花瓶の手入れをしていた。お帰りなさいませ、と口が動きかけて、
「……どうなさったんですか。おふたりとも、子どもみたいな顔をして」
穏やかに問うてきた。
「そう、見える?」
「見えますね。いつもは大人顔負けの凛々しいお顔立ちなのに」
小晴の手からカバンが滑り落ちた。クッション材に挟まれて、電子タブレットのコトンという音が玄関に響く。靴を脱ぎ捨てて駆け上がると、がむしゃらに志桜里さんの腰に抱きついた。何故だかぽろぽろと涙が出てきた。何年ぶりに泣いたのだろうかというほど、久し振りの感覚だった。
志桜里さんは何も言わずに、小晴の背中を撫でながら一緒に床へ腰を下ろした。そうして何分も、何分も、小晴が泣き縋るのを黙って見ていた。
「あら、あら、まあ、どうしたの」
そのうち、母親の声とぱたぱたと駆け寄る音がして、小晴は泣き顔を召使いに晒すはめになった。志桜里さんなら構わないという気持ちもあった。
「ただいま、お母様」
予想以上に掠れて情けない声だった。
「お帰りなさい。小晴ったら、まあ……。志桜里さんにお茶でも淹れてもらいましょう? 志桜里さん、リビングへお願いね」
「かしこまりました、奥様」
小晴の背中は志桜里さんの手から母の手へと渡され、ゆきえと一緒にリビングへ連れて行かれる。いつの間にかゆきえがカバンを拾っていた。きっと靴も揃えてくれたのだろう。泣かずに黙ってついてきてくれるゆきえが、羨ましくもあり、頼もしくもあった。
久し振りに、小晴は母と並んでソファに座った。いつもは対面ばかりだったので、母の隣にいる感覚が奇妙だった。いつの間にか母の背丈と同じくらいになっていたのだ、自分は……そう気づくまで、向かい合うことばかりしてきたのだ、自分は。
「小晴、理由を聞いてもいいのかしら? 言いたくなかったら、言わないでも良いのよ」
肩を抱きながら母が訊ねた。理由を言っても母には分からないことが容易に知れたが、聞いてくれたことは何故だか嬉しかった。小晴は申し訳なく首を横に振った。
「たぶん、お母様には理解が難しい話だわ……魔術のことなの」
「そう、それは確かに難しいわね。お父様にはお話できる?」
「どう……かしら」
あの厳格な父に話すことを想像して、小晴はにわかに弱気になった。芯が弱いと言われるかもしれない。勘当を言い渡されるかもしれない。逆に、学園側に怒鳴りつけに行きでもしたらどうしよう。娘の立場に無関心を示すことも有り得る。程よい塩梅で心配してくれる父親の姿が、小晴には想像できなかったーー程よい塩梅そのものさえ、よく分からないが。
そのうち志桜里さんがお茶を運んできてくれた。小晴の好きなロイヤルミルクティーだった。志桜里さんはお茶を手配した後、部屋の隅に控えるようにして立つ。
母と小晴と、そして対面に座すゆきえ、三人が無言でロイヤルミルクティーをすすった。小晴はカップを両手で抱えたまま、暫し黙して揺れる水面を眺めた。
「小晴が話すのが難しいなら……そうね、お母さんが話しても良いかしら?」
「それは……もちろん」
少し意外だった。母は、いつも話したい時に自由に話す。こんな風に改まって予告するのは珍しいことだった。
カップの縁を撫でて、懐かしそうに母親は話し始める。
「お母さんね、六条家に嫁いだ時、ひとりぼっちだったのよ。他家からお嫁に来たんだもの、それは当然なんだけど、良くしてもらっていた侍従も連れてこられなくてね。それに嫁いだばかりの頃はおじいちゃまとおばあちゃまもいたから、六条家に仕える人は、そりゃあみんな六条家の味方よね」
今現在、祖父母は隠居と称して軽井沢に邸宅を持ち、そこで余生を過ごしている。現役の頃はそれは厳しく、父・黎明も逆らうことが難しいほどだったと聞いている。さすがの孫である小晴には、猫可愛がりする甘い姿しか見せなかったが。
「お母様、ご実家に電話とかはされなかったの?」
「そりゃあ、何度もしようと思ったけれど、ばれたら事だと思って、できなかったわよ」
母はおかしそうに笑った。
「お父さんはまだ若くておじいちゃまに弱かったし、表立って私を庇うことも難しかったから……お母さん、本当にひとりぼっちだった。みんなから嫌われてると思ってたわ。大学までずうっと蝶よ花よと愛でられてきた娘が、いきなり他家に放り込まれて、孤独じゃないわけ無いじゃない」
「御母堂は苦労されたのですね」
ゆきえが同情したような面持ちで言う。
ところが母は、違うのよ、と笑って手を振った。
「苦労することを知らなかったのよ。分かってもらおう、私の居場所を作ろう、っていう苦労を、知らなかったの。いつも用意してもらっていたから。だからおばあちゃまとじっくり話すことも、おじいちゃまの仕事を見学して厳しくあらねばならない理由を知ることも、なあんにも思いつかなくて、深窓の令嬢みたいに毎日勘違いしていたの。侍従のみんながどれくらいのお給金を貰って、普段はどんな家族と暮らしているかも、全然、何にも知らなかった。私、それに気づいた時、とっても恥ずかしかったし情けなかった。……それからお母さんね、ちょっとずつ反撃するようになった」
「……反撃?」
思ってもみない単語を、小晴はつい反芻した。
「そう、反撃よ。世間知らずな箱入り娘の反撃。おばあちゃまに文句を言われたらその理由を聞いたし、納得できる理由だったら納得した。納得できなかったらとことんお話しした。おじいちゃまがダメだと頭ごなしに否定したことにもそう。六条家のやり方だから、と諫めてきた侍従にもそう。私には私の考えがあって、大事なものがあって、やりたいことがちゃんとあることを伝えるようにしたの。そうしたら、まあ、呆れられたってこともあるかもしれないけれど、前より日々が楽しくなったわ。仕えてくれる人たちの中には、だんだん私を分かってくれる人も増えて、味方が増えた。何より、あなたが産まれて、それが一番の味方だったわ」
「私が?」
「だって娘のためなら頑張れるのが母親よ? それに、おじいちゃまもおばあちゃまも、あなたには弱かったからね」
最後の方は、冗談めかして言うのだった。涼しく笑った後にお茶を飲む仕草には、さすがの貫禄がある。小晴は想像ができないほど逞しい母の姿を、初めて知った。
「御母堂のお話をお伺いして……つと考えたことがあるのですが」
「なあに?」
「理解者を増やすのはどうか、と」
ゆきえは風呂上がりの小晴の髪をタオルで丁寧に拭きながら、ぽつぽつ話した。
「理解者って……私の方から頼み込むわけ?」
「いえ。死霊術とはそもそも得体の知れないもの、故に人々が恐れるのでしょう。そして唯一知れ渡っている死霊術師があの三頭殿。三頭殿の言動を鑑みるに、あの方ご自身の影響もあって誤解が生まれているのではないでしょうか」
それは、と小晴も意見に傾く。あの三頭鎮という軽薄を塑像にしたような男が、死霊を従えて傍若無人に振る舞っているのであれば、死霊術が恐ろしいと思うのも当然だ。人のイメージにモノのイメージは付随する。いわゆる広告モデルと商品の関係にも似ている。
「死霊と忍びは、似ております。影の世に生き、理解されぬこともある。しかし、小晴殿は忍びの私を受け入れて下さいました。それと同じように、小晴殿が周囲に受け入れられればと思うのです」
ゆきえは優しく小晴の髪をタオルで撫で付けながら言う。タオルドライの手技も随分慣れたものだなと思う。しかし一方では、死霊術そのものへの恐ろしさはやはり拭い切れない、という不安が立ち昇っていた。
「……死体があったとして……私はどうするのかしら」
ゆきえを召喚した折、無論、死体など用意していなかった。そして三頭が学園正門から幻術をかけた時、道に転がっていた蝶の死骸を、どうにかしようとも思わなかった。方法を知っていたら、私は『何か』していたのだろうかーー。
「小晴殿が、死霊術を知ってみるのはいかがでしょうか」
不意に、ゆきえがそんなことを言う。タオルドライの手が止まっていた。
どういうことよ、と小晴は思わずゆきえを振り仰ぐ。
「刀は使い方を知らねば恐ろしい武器です。しかし、鞘への納め方や振るい方を身につければ怖くはありません。それと同じように、死霊術の使い方を知れば、恐るることも無くなるのではないでしょうか?」
「それは……そうかもしれないけど」
「小晴殿が死霊術を理解し、またそんな小晴殿を、皆に知って頂きましょう」
「私が死霊術を……でも、それはどうやって」
「……三頭殿に頼る、ことになるとは思うのですが……」
それはちょっとーー小晴は口を尖らせる。確かに彼は真っ先に思いつく身近な先駆者だが、同時に小晴をこんな境遇に陥れた戦犯でもある。彼が、こうなることを予測してあんな行動を取ったのだろうか。それに、三頭と関わりを増やせば周囲の生徒が余計な噂を立てるかもしれない。
三頭と交流することで死霊術を理解し、かつゆきえが死霊術に依るのではない召喚であることが確かめるのは、重要だ。それと同じくらい、自分は三頭とは違ってまともな魔術師であることを周囲に理解してもらうことも、重要だった。右を立てれば左が立たず、左を立てれば右が立たずーー小晴が濡れそぼった頭髪を掻き乱すと、困ったような笑顔でゆきえが手櫛を当てるのだった。
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