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「ええっと……あっちにドームが見えるから」  小晴は遠くに見えるガラス張りの丸天井目指して校舎をぐるりと一周するが、先程からちっとも目的地に近づく気配はなかった。校舎への出入口は幾つか確認したが、一番近い入り口が他にあるはずなのだ。こういう肝心な時に、ゆきえからの『伝信』の返答はない。此方から送る『伝信』が途中で途絶されているような感覚が小晴にはあった。全く、我が従者は何処で油を売っているのだか。  一旦、中庭に出て、そこから入り直そうかと考えていると、 「君、もしかして迷っている?」  中央棟の二階の窓から声が降ってきて、小晴は顔を上げた。窓からは男子生徒が顔を出して気遣わしげに小晴を見下ろしている。あの顔は、と小晴は記憶を手繰ったーー朱鷺沢栄之助、銀行家の息子にして学園の自治会長だ。姿を見せている場所は自治会室だろうか。放課後なのに何をやっているのだろうと訝しんだが、こうして校舎周りをぐるぐる周回している小晴自身も、なかなかに不審人物であった。 「ええっと……迷ってはいるんです、けど」 「ちょっと待って、そっちに行くよ」  朱鷺沢はそう言うなり窓枠に足をかけ、ふわりと空中に飛び出した。あっと小晴が声を上げる間も無く、彼は早々に着地する。彼の身体能力がゆきえなみにずば抜けているのではなく、靴に魔術を仕込んでいるのが魔力の流れから感じ取れた。 「すみません、来てもらって」 「いや、僕も暇してたし。それより、何処に行く予定だったの?」  朱鷺沢は背が高く、頭ひとつ分は見上げなければならなかった。小晴のよく接しているメンツがゆきえや朝戸なので、慣れと言うのは恐ろしいものだ。爽やかに笑う姿もまさに好青年と言わんばかりで、自治会長の地位を支える理由がひとつ見えたような気がした。  小晴が探している人物は、この朱鷺沢とは真逆のような人物だ。影の中に潜み、道化に身をやつし、誠実とは対極にいるような人物ーー三頭鎮。  しかしはっきりと彼に会いに行くとは言いずらかったので、彼が居を構えているはずのあの地下の近辺までなんとか辿り着けないかと思った。 「ええと、図書館まで行きたいんですけど」 「え、図書館? すぐそこじゃないか」  朱鷺沢は驚き半分、笑い半分に答えて、「おいで」と小晴に先立って歩き出した。 「あの、ドームの天井は見えてるんですよ。何処にあるかは分かるんですけど」 「はは。確かに、図書館前の廊下はちょっと入り組んでいるからね」  明らかな同情じみたフォローであった。小晴と同じく方向に疎い学生は、例年少なからず居るのだろう。 「ドームを目指すだけだと危ないよ。近くの景色が見えなくなってしまうからね。遠くを目指す時こそ、近くをよく見ないと」 「なんか、含蓄のある言葉って感じですね」 「そう? ちょっと名言っぽいかなあ」  照れたように朱鷺沢が笑う。演壇で弁舌を振るっていた時とは随分雰囲気が違うと思ったーー誰かに似ているのだ。例えばそう、人懐こそうな雰囲気が特に、三頭にーー。  朱鷺沢は三頭を知っているのだろうか。小晴はちょっと考えた。学年的には、朱鷺沢が三年生で三頭がその二つ上であることが確かならば、高等科から通い始めたとしても一年程度は被っている。まして自治会長ともなれば学園内の事情には大抵通じているだろう。知らないはずはない。 「あの……朱鷺沢先輩、ですよね?」 「うん? そうだよ」 「私、一年生の六条です」 「知ってる、知ってる。六エレの子だろ?」  一瞬、死霊術に関する噂がもう知れ渡っているのかと思ったが、そうでは無いらしい。小晴は気を取り直して会話を続ける。 「朱鷺沢先輩って、高等科から通ってるんですか?」 「そうだよ。兄貴が海外の方に行っちゃったからさ、僕は国内」 「お兄さんがいるんですね」 「腹違いのね」  えっ、と驚きを声に出してしまったが、二の句を継ぐべきかについては迷った。朱鷺沢が意外そうに目を瞬かせて小晴を見てきたからだ。 「君の家には、そういうの、無いの?」 「な、無いです」  遥か大昔にならあったかもしれないが、現代には現代の倫理がある。妾だの囲いだのという時代では無いのだ。 「そうかあ。じゃあ、うちが変わってるんだなあ。いや、君って僕と家庭環境が似てるし、そういう部分も同じかなって思ったんだけど」 「……私、ひとりっ子なので。あの、今の話、内緒にしてますから」 「あはは。助かるよ。……さあ、着いたよ」  いつの間にか、図書館の入り口前まで辿り着いていた。道をしっかり覚えようと思っていたのに、朱鷺沢のカミングアウトのせいで順路などすっ飛んでしまっている。  小晴は動揺を隠すように言葉を継いだ。 「あ、ああ、此処からなら、ひとりで大丈夫そうです」 「あれ、図書館に用事じゃなかったんだ?」 「あ、ごめんなさい。図書館からの道のりは覚えてるんです」  行き先は告げずに断る。 「なるほどね。まあ、道が分かるなら良かったよ」  ここまでだね、と朱鷺沢は手を振って踵を返した。迷う生徒を見かけて、ただ道案内するためだけに降りてきたにしては、人が良すぎた。六条の令嬢と話してみたかったという下心でもあったのだろうか。とにかく、と朱鷺沢の背中を見送った後で、小晴は図書館の扉から一歩離れる。向かうべきは此処から棟の反対側、そこにある階段だ。  幸い、放課後な上に実習棟であるため廊下にひとけは無く、小晴は堂々と廊下を歩いて行った。この学園には部活動が無いし、放課後に無駄話をするためだけに居残るような人間もいない。何処で誰に聞かれているか分からないという警戒心もあるのだろう。居残りをするならば教室棟か図書館、正面玄関のロビー、或いは話すためだけに中庭に出ていく方が多い。そういう点は、今までの学校とは違う文化で、小晴は好いていた。  やがて例の階段に辿り着くーー上階には理科室やその他実習室が、そしてチェーンで閉ざされた地下には、三頭鎮の部屋があるはずだ。  小晴は埃を被ったチェーンに触れ、当然に揺れる物理的現象に驚いて、指を引っ込める。触れた指を鼻先に持ってくると、冷たさと錆臭さに生理的嫌悪を覚えた。チェーンが年月を帯びて劣化し、西日の陰になって冷え切り、触れられて揺れることが、何故だか恐ろしいことに思えた。 「普通よ……普通、普通」  言葉を繰り返し、脚を上げてチェーンを一歩だけ跨ぐ。二本の脚の間でチャリチャリとチェーンが揺れる。ニーソックス越しに触れた金属の輪っかはやはり冷たい。もう一歩跨ぎ越して、とうとうチェーンで囲われた領域に入ってしまった。  気を落ち着けようと深呼吸しかけて、立ち昇る埃くささに、呼吸を止めた。積もった埃に足跡が残っているようなことも無い。本当に人がーー三頭鎮本人さえーー出入りしているかどうかがもはや怪しいところだ。実は、誰も使っていない忘れ去られた倉庫がありましたとか、過去に造られた地下道が繋いでありますとか、そういうオチさえ想像してしまう。寧ろそうであってほしいとさえ、小晴は思う。  意を決して階段を一段ずつ降りていった。コツコツと虚しく足音が響き、下へ、下へ、吸い込まれていく。無駄に段数を数えて、一三段だと分かり、踊り場に辿り着くと、また一三段の階段が待ち構えている。踊り場に鏡が備え付けられていたらきっと発狂していただろうなと思った。いわゆる学校の怪談の定番だ。三頭鎮なら、存在そのものが怪談に成り得るだろうーーあいにく、この学園にそんな下らないオカルトは通用しないだろうが。  踊り場から下を見下ろすと、一三段きっかり降りた先にコの字型に曲がって廊下があり、その先が存在しているようであった。半分まで来てしまったが、否、まだ上に引き返せる。  仮に三頭の部屋があったとしてーーこの仮説については完全に朝戸に拠るところではあるがーー彼がどんな風に居を構えているのか、小晴には想像もつかなかった。まさか表札があるわけでもなし、ウェルカムな雰囲気に出入り口を飾っているとも思えない。斥候するために、魔術で鏡面を作って行く手を映すとか、少なくとも魔力を走査させて罠が施されていないか調べることもできるが、そうすることで三頭に来客を予感させるのも癪だ。  ええいままよ。小晴は意気込んで階下に歩を進めることにした。十三段きっかり降り、両脚を廊下に揃えて立つと、体をくるりと九〇度回転させて、更に首を三〇度ほど回旋させ、廊下の行く手を見る。  廊下の先は薄暗く、上階から差し込んでくる西日の名残りが辛うじて物の輪郭を浮き立たせていた。ちょうどコの字に曲がった先が突き当たりになっており、そこに扉が見えるーー小晴が想像もつかないような面持ちで、客を待ち侘びるように扉が佇んでいた。  まず、扉に至るまでの床や壁に種々の毒草のプランターが置かれていた。中には食虫植物と思しき袋を持った草もある。そして壁には円形や四角形に形取られた銅鏡と絵が飾られ、その間を縫うように植物の蔦が這っていた。蔦の先には、扉の上に提げられたアジサイの花籠がある。蔦は更に伸びて扉に巻き付き、扉の上には、トウガラシの束やよく分からない石のネックレス、六芒星のチャーム、猫のしっぽ、逆さまの乾燥ヤモリ、トーテムポール、エトセトラエトセトラ、あらゆる魔術的道具が飾られている。ここまで来れば、もはやエスニック系雑貨点の様相を呈していると言っても良い。  小晴は手で呪術的道具の類を払い除けながら、なんとか扉の前に辿り着いた。扉そのものは、アジサイの蔦が絡まっている以外、特に変わった点は見られない。強いて言うなら、ドアノブに錆びたドアノックがぶら下がっている程度のただの木製の扉、という印象だった。ドアノックを手に取り、コツコツコツと三回ノックする。 「はあい、どうぞ」  予想より八割減も気の抜けた声が返ってきた。間違いなく三頭の声であり、警戒を知らないような返事である。  小晴はゆっくり扉を押し開いた。途端、むわりと複雑に入り混じったにおいが我先にと廊下へ漏れ出てくるーー植物の青くささーーコーヒーの鼻腔をくすぐる芳醇な香りーーそして何より、知らない人間の生活臭ーー。 「やあやあ、君か! 待っていたよ、入りたまえ」  三頭鎮が机の向こう側から、腕にかけたストールをひらめかせて駆けてくる。何故かその手にはキズのついた試験官が握られていた。何年も使い込んだように年季が入っているが、実験器具としてそれは如何なものかと冷静な思考が判断する。  小晴の腕を取った三頭の手は、大きく冷たく、また平たかった。思えば小晴は、異性の部屋に入ったのは初めてだった。生活臭が異様に思えたのは決して、部屋に魔術道具がひしめいているせいだけではないのだろう。  天井からは白熱電球と一緒にドライフラワーやタペストリー、ただの大きな布切れなどが下がっていた。一部は仕切りの役割も果たしているのだろう。一枚の麻をくぐり抜けた先に、生木のダイニングテーブルがあり、そこに見知った顔があった。 「ゆきえ!」 「こ、小晴殿?」  ゆきえはコーヒーカップを両手に捧げて瞠目していた。テーブルにはソーサーやシュガーポットなどの一切が揃えられ、湯気を立てた大きなビーカーにはコーヒーが入っている。明らかに、彼女は三頭鎮の部屋でコーヒータイムを楽しんでいるようにしか見えなかった。 「『伝信』に全然答えないと思ったら……こんな所で油売ってたのね? コーヒーに釣られた?」 「つ、釣られたなど……そのう、無碍に断る理由もないかと思い、お話をするのも一つの手かと……」  コーヒーカップの上に組まれた指が、申し開きの言葉を探すようにして蠢く。 「ああ、誘ったのは僕だよ? あと、此処は『伝信』の類が出来ないように施術してあるからね、内緒話は普通にやってもらっていいかい?」  三頭は小晴の腕をゆきえの隣に導きながら説明した。椅子はベンチのように横長で、ゆきえは奥に座していた。 「ふふ、こんなに来客がある日は何時ぶりだろう! コーヒーソムリエの腕が鳴るものさ」 「そんな資格あるんですか?」 「勝手に名乗ってるだけだよ。暇だから、物事の追究には余念が無くてね」  小晴は呆れて息を吐く。よくそうもスルスルと嘘が出てくるものだ。生木の家具なんて清潔なのかしらと訝しみつつ、ゆきえ、机の上、それから部屋全体に目を移していく。  ゆきえは相変わらずの忍び装束だが、ベンチ型の椅子の左端に座しているせいか、刀は腰に佩いたままだった。警戒心の現れなのか、単に座れたから外していないのかは、分からない。少なくとも大事そうにコーヒーカップを抱えている辺り、戦をしにきたのでは無いことは確かである。  机の上には例のコーヒー入りビーカーと、散らかっていたのを横にまとめてどかしたように積まれた本、ノートやペンなどの文房具が置かれていた。積まれた本の脇には、通路を挟んで本棚がある。壁に埋め込んであるのか、それとも壁を本棚の形に掘ったのかは分からないが、とにかく大量の書籍が縦横に詰め込まれていた。棚から溢れて床に積まれたものもある。  くぐってきた麻布の仕切りの向こうは簡素なキッチンになっているらしく、くつくつと何かを煮る音が聞こえてくる。後ろを振り返ると、少し距離を置いてハンモックが引っ掛けられていて、サイドテーブルと思しきチェストの上にはデジタル時計と、これまた小さな本の山が積まれていた。ハンモックには布団のような分厚い布が幾つも乗っているので、恐らくそこが三頭の寝所なのだろう。  とにかく部屋全体が雑然としていて、生活感があるにも程があった。  小晴は暫し麻布の向こうに目を凝らして、三頭が何やら煮立てている様子を確認した後、ゆきえの脇腹を小突いて背を向けさせた。耳打ちのように手を当て、声は低める。『伝信』の類が一切防止されている以上、こういう伝統的な方法でしか内密な話をすることができなかった。 「どうして此処にいるのよ、ゆきえは?」 「そのう……校内を歩いておりましたら、声を掛けられまして……敵意は無いように思えましたので、偵察も兼ね……」 「コーヒーに釣られただけじゃないの?」 「め、滅相もない。小晴殿こそ、如何されたのです?」  言い返されて、小晴は少しむっとした。 「昨日のあなたの話を聞いて、考えたのよ。あの人を理解するのはどうかな、って」 「三頭殿を理解する……ですか?」 「別に、あの人自身がどうってわけじゃないのよ? ただ死霊術全体のことを考えた時に、私たちが勝手に誤解していたところとか、あるんじゃないかしらって」 「確かに、死霊という言葉そのものが持つ印象は、影響するでしょうね。三頭殿が死霊術を変えたのでは無く、死霊術に三頭殿が変えられた。そういうことですね?」 「そう。だからこうして、来たわけ。私はね? コーヒーなんていつでも飲めるから」 「……も、申し訳ありません」  とうとう、ゆきえはコーヒーに釣られたと白状した。一体どんな誘い文句でたらし込んだのだろうと小晴は両者に呆れる。ため息が堪えきれない。 「怒っちゃいないわよ。『伝信』が使えなくて心配しただけ。こういう風に、特定の術を防止した部屋が学園には沢山あると思うから、対策を考えないといけないわね」 「連絡手段であれば、矢文なら得意です。それに鳶や烏を使った伝達もしておりました」  一転、ゆきえの目が輝いたが、それでは魔術師ではなく鳥獣使いだ。スマホを持たせた方が楽である。そろそろ、本格的な導入を検討すべきかもしれない。ゆきえは結構適応的な方だしーー現にコーヒー目当てで来ているしーー現代技術もコツを覚えればすぐに使いこなせるだろう。 「そのうちキャリアショップね」 「きゃり……?」 「おやおや、女子ふたりが内緒話に花を咲かせているね」  麻布をめくって三頭が顔を出した。手には試験管立てに入れた乳白色の試験管を二本と、コーヒーカップを手にしている。テーブルにセッティングすると、ふわりとミルクの香りが漂った。何処からともなくソーサーとティースプーンも取り出して、コーヒー入りビーカーをカップの中に傾け始める。 「あの……それって本当に大丈夫なんですか?」  小晴は実験器具をじと目で窺う。外側はややキズがついており、年代に伴う使用感を漂わせている。  三頭は笑って応じた。 「うん? 実験器具は最高の調理器具さ。使い古してきた分、試薬が薄れて雑味も減ってきたんだ」 「雑味って……」 「大丈夫、大丈夫。元理科教師から譲り受けた物だから、本格的なメーカー品だよ」 「そういう問題じゃないと思いますけど」  しかし、三頭に受け渡すとはその理科教師も何を考えていたのだろう。彼をよほど好いていたのか、彼に脅されたか。当の三頭本人は、涼しい顔で自分のカップにもコーヒーを注いでいた。 「ミルクと砂糖はいかがかな?」 「……どっちもお願いします」 「おお、主従揃って甘党だ。そのうちブラックの美味しさも分かるといいね」 「別に……いいじゃないですか、人の味覚なんて」 「人生の幅が広がるって話だよ」  コーヒーの準備を終えて、彼は真向かいのベンチに腰を下ろした。彼のカップでは黒い液体が湯気を立てている。すっと鼻で香りを確かめる動作を見せた後、二口ほどすすった。同じビーカーから注がれたコーヒーを彼も飲んでいるので、毒などは混じっていないのだろうーー理科の実験で使われた試薬以外は。小晴も慎重にカップからミルクコーヒーをすすった。 「……美味しい」  屋敷や招かれた先で頂いたどんなコーヒーとも異なる、独特の甘みがあった。まさか試薬が雑味となって味を利かせているのだろうか? それとも、珍しい豆を使っているのだろうか? 「あの、これの銘柄って」 「うん? インスタントだよ」 「インスタント!?」  思わず声が跳ね上がった。小晴が口にするものは常にレギュラーコーヒー。インスタントなどもっての外だ。大体、先ほどまで三頭はさもコーヒーの煎れ方に一家言あるような素振りで用意していたではないか。  三頭は、ははっと短く笑い、 「最近のインスタントはすごいよねえ。お嬢様の舌まで騙せちゃうんだからさ。大体、僕は一から豆を挽く趣味も、じっくりコーヒーフィルターに通す趣味もないよ。飲みたいときにすぐ飲めるのが良いのさ」 「小晴殿、小晴殿。いんすたんと、とは?」 「ゆきえはちょっと待って。コーヒーはレギュラーよ、レギュラーが美味しいっていうのが鉄板じゃない?」 「僕、あの薄〜い味が嫌いなんだよね。コクが足りないっていうか、カフェインが足りないっていうか。いかにもお上品で澄ました味をしている。だからインスタントで、粉を多めに入れるのが良いんだよ」 「三頭殿、こちらの珈琲も美味しゅうございます。小晴殿から頂くものとはまた違った旨味が……」 「貧乏舌になるわよ、ゆきえ!」 「まあまあ、庶民同士、気が合うんだよ」  へらへら笑って三頭が諫めてくる。庶民の味が小晴を唸らせるのは癪だが、事実は事実だ。社会勉強になったと腹を括るしかなかった。  それで、とコーヒーカップの縁を白い指で拭いながら三頭が口を開く。 「ふたりして僕のところに来るとは、何か用でもあるのかな?」 「私は……ゆきえを探しに」  特別な目的を持ってこの部屋を訪ったわけではない。ぼんやりと、彼のことを知りたいと思っただけだ。だがそれをはっきり言ってしまっては、何かを損なう気がしたーー己の矜恃、或いは六条としての威厳。 「私めは、三頭殿のことを知りたく」  ーー従者が見事に、損なってくれたが。小晴は思わず額に手を当てた。  はっは、と三頭が愉快げに笑った。存外、よく笑う男らしい。 「僕のことを知りたいなんて、なんだか照れるなあ。趣味の話でもしたらいいかな?」 「それは」 「いや、そういうのは、いいんで」  ゆきえが余計な口を滑らせる前に遮った。彼女は良い意味でも悪い意味でも率直すぎるきらいがある。忍びとはもっと情報の駆け引きをするものではないかとお咎めの一言でも言ってやりたい気分だったが、三頭の前ではやめた。代わりに、小晴が気になっていたことを聞く。 「どうして先輩は、二留してるんですか?」 「おっとお、いきなりナイフで刺してきたね」 「だって……先輩、魔術演習の時ーー」  見事な魔術の使い手に見えた。そんな言葉を発しかけて、他に言い方はないものかと躊躇った。まともな魔術を使ったから、私と見事に競り合ったから、エトセトラ、エトセトラ。だが言葉を続けること自体、彼への賞賛になることが、何となく小晴には口惜しかった。  言いたいことは分かるよ、とでも言いたげに、三頭は鼻を鳴らして答える。左肩に三つ編みでまとめられた髪が、さらりと彼の服の上を滑った。 「我ながら優秀の部類でね、卒業に必要な単位は全部持っているよ」 「じゃあ、どうして」 「僕が働きたくないから」 「小晴殿。三頭殿ははぐらかしてます」 「ええっ。裏切りだよ、ゆきえさん」  ゆきえにはもう事情を話しているのだろうか。そう思ってゆきえを見やったが、彼女は三頭をしっかと見つめて、子どもを叱るように口を尖らせていた。 「三頭殿は嘘をつく時、相手をじっと見ます。まさに先程がそうでした」  確かに、三頭は視線を逸らしたり合わせてきたり、くるくると眼球を動かす男だ。てっきり人馴れしていないせいかと思っていたが、よもや嘘と本音のサインだったとは。小晴は呆れて三頭を見つめた。そこには真を突かれてしょげている青年の姿があった。 「働きたくないのは事実さ、誰かのために労働するなんて願い下げだよ」 「そんな理由で学園には住めないでしょう」  うーん、と腕を組んで唸る三頭。何を吟味しているのか、額にトントンとリズム良く指を打ちつけている。それからちらりと小晴に目をやった。真っ直ぐではない、窺うような視線。 「君に言うべきか迷っているんだよ」 「何をですか?」 「僕が此処にーー学園に閉じ込められている理由」  閉じ込められているーー教育機関が生徒を閉じ込めるなど、小晴は聞いたことがない。 「親は何にも言わないんですか?」 「親は死んだよ」  左腕をトントンと叩いて彼が言うーー梵字の術式がひしめいた左腕を叩きながら。  殺したんですか。  そんなこと、聞けるわけがない。 「僕は行き場がないのさ」  青白い肌に色素の薄い唇を横に引いて、 「社会が僕を受け入れる器を持たない。だから僕は此処にいる」  トントントン、とリズム良く左腕を叩く。叩く。叩く。  呪いの中に吸い込まれてしまいそうな、呪詛が体に染み込んでくるような、不気味な気分が小晴を襲った。それは小晴の妄想かもしれないし、実際に三頭が招いたものかもしれない。だが、小晴も、ゆきえも、にべもなくただじっと三頭を見ることしかできなかった。 「もし僕を追い出したければ、五月川さんに楯突いてごらんよ」  パチン、と左腕を掌で打って、ようやく小晴は意識が解き放たれたような心地になった。  五月川とは、理事長の名であったはずである。学園に長く留め置く以上、理事長が事情を知っている、或いは理事長がそのような指示を出したと考えるのは理に適っている。親もなく、帰る場所もなく、行くべき場所もなく、ただこの地に縛られ続けている気分とはいかなるものか、小晴には想像が及ばない。 「君はどうだろうね」 「私が……なんですか?」 「六条の人、君を受け入れるのかな」  小晴への興味を失ったと言わんばかりに、三頭は頭も視線も、自室の本棚に向けていた。興味が転動しやすいのか、声音や顔つきがころころ変わるためか、三頭が何を考えて意思決定しているのか、常に計りかねた。今や三頭はベンチから立ち上がり、棚から何冊かの本を手に取っては戻す動作を繰り返している。  突然、本棚を整理したくなる衝動は、小晴にも分からなくはない。ただ、彼の行動は整理というよりも吟味したパズルに近いように見えた。何かを選んでいるーーかと思うと、全ての本を元に戻して、くるりと小晴を振り返る。 「君におすすめの本があった気がしたんだけど、あれは図書館かもしれない。良かったら201.82.S.1を見てごらんよ」  そう言いながら、彼は手近な本を引っ手繰るように取り出して、中の遊び紙をびりっと破り、何処からともなく取り出したペンで、先ほど口早に言った数字の羅列を書き留める。  201.82.S.1。一見すると訳の分からない記号だが、図書館と言った以上、十進分類法に従って探せと言うことなのだろう。小晴は差し出された切れ端を受け取った。
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