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 結局、ヨモギユキエと名乗る忍者は少女だった。懐から文字通りの筆入れと紙――懐紙と言うらしい――を取り出して記したところによれば名を「蓬靱負」と書き、ハグロシュウとは「羽黒衆」と書く。歳は数えで一六と言ったので、今年中学校を卒業する小晴とは同い年だった。  小晴は先の召喚術で荒れ狂った自室を片付けるために、ゆきえには散らばった物品を部屋の一角へ集めるよう指示し、自身は術式の後始末に取り掛かった。魔法陣を描いた大判用紙が血液をほとんど吸っているが、用紙をめくると床に流れ落ちる。フローリングの染みになるのも嫌なので、ちょうど捨てようと思っていた雑紙の束を引っ張り出してきた。  過去三年間分のプリントやテスト。それを小晴は律儀に残していたが、いよいよ卒業間近となり、過去の清算も兼ねてゴミとして分別していた。居並ぶ点数はどれも九〇点台。小学校の頃から小晴が掲げてきた成績上位の看板だ。それが今、得体の知れない少女の血を吸ってくしゃくしゃになっていく。  次の新たな三年間も、自分は優秀でいられるだろうか。  小晴は床を紙と備え付けのウェットティッシュでごしごし擦りながら考えていた。勉強は好きだ。魔術の基本も学んでいる。実技科目だって自信がある。そのための努力は惜しまない。ただ――ただ、そんな自分の使い魔がもし、死霊だったら?  ヒトは沢山の色眼鏡で小晴を見る。六条財閥の令嬢、優等生、高嶺の花、魔術師――そこに、死霊術師という言葉が加わったら――。  死は生者にとって忌避すべきものであり、同時に尊重すべき概念だ。死霊術師はそのふたつを踏みにじることができる。人智を超えた禁断の領域に踏み込み、永遠の安らぎを得た者に再生の苦痛を与える。そして何より、死に携わること自体、得体が知れない。  得体が知れないものは不気味だ。  小晴は幼い頃から、『得体が知れない』側にいた。普通の家庭で生まれ育った者たちから見ればそれも当然だった。小晴の『普通』は、世間一般の『普通』とはずれているらしかった。  得体の知れない私、得体の知れない忍者――ある意味、呼ぶべくして彼女を呼んだのかもしれない。 「小晴殿?」  名前を呼ばれて、小晴ははっと顔を上げた。ゆきえが神妙な面持ちでこちらを窺っていた。  彼女が死霊であるかどうか、正確なところはまだ分からないのだ。早合点するのはよそうと思った。小晴は拭いていたゴミをまとめて、笑顔を取り繕う。ヒトの上に立つ者は常に余裕を見せねばならない。 「こっちは片付けたわ。あなたも、手伝ってくれてありがとう。手を洗って――そうね、お茶を運ばせましょう」  召喚物は肉体を持たないので食事も睡眠も必要ないが、嗜む程度はできると聞く。今はとりあえず、座って腰を落ち着けたい。  小晴はゆきえを連れて自室を出た。階下の洗面室で手を洗う前に、廊下に居合わせた召使いの志桜里さんへ、応接室にお茶を運ぶよう言付ける。志桜里さんは六条家に長く仕えてきた家柄なので、屋敷の令嬢が不審人物を侍らせていても動揺ひとつ見せないだけの順応性があった。召喚後に部屋に駆け付けたのも彼女なので、ある程度は事情を察しているのだろう。だが、小晴が真っ先に公言すべき相手は父親なので、今は黙っておくことにした。  手を洗い終えて、小晴とゆきえは応接室に入った。屋敷の中でここのソファが最も座り心地が良い。小晴は、自分の正面に座るようゆきえを促した。  彼女は洗面室でも応接室でも、きょろきょろと調度品を眺めたり、時に慎重な手つきで触れようとする様子があり、古代人が現代にタイムスリップするコメディを見ているようで暫し小晴を笑わせた。歳は同じだが背格好はややゆきえの方が小さく、歳の近い妹を持った気分だった。 「南蛮の舶来品、ですか?」  ゆきえは座面を軽く押して、その触り心地に驚きながら、腰の刀を立て掛け、ゆっくり座る。本人の予想よりも座面が沈んだらしく、一瞬だけ背もたれにひっくり返った。 「現代日本はどこも和洋折衷よ。ねえ、あなたっていつの時代の人なの?」 「最後に覚えているのは、慶長五年です」  旧暦とはいえあまりに有名な年だ。西暦一六〇〇年、関ケ原の戦いが起きた年である。現代から数えておよそ五〇〇年ほど前。 「その年、何をしていたの?」 「我々羽黒衆はお館様の命でご家臣と共に行軍を。各地の忍び衆も動いておりましたので、何隊かに分かれ応戦しておりました」 「それで……あなたは?」 「そこで命を終えました。もとより羽黒衆頭領が斃れた際には後を追うつもりで戦っておりましたので」  ちょうどその時、ノックをして志桜里さんが入ってきた。いつも小晴が頼む時には紅茶と相場が決まっていたが、得体の知れぬ来客に気を遣ったのか、ティーポットから流れ出るお茶には日本茶の香りが混じっている。昨今はやりのフレーバーティーのようだった。 「白桃煎茶にございます」  志桜里さんは静々とカップをふたりに差し出し、軽く会釈をしてから退室する。  ゆきえはカップの水面を眺め、不意に化学薬品をあおぐようにして匂いをかいだ。 「番茶……ではないのですね」  次々と現れる高級品に目を白黒させているようだった。彼女が本当に戦国時代の生まれであれば、それも当然の話か。いつか歴史科の教師が、果物が高級品だったとか、砂糖は無かったとか話していたのを思い出す。そんな彼女に洋食や洋菓子を見せたら一体どんな反応を示すのだろう――小晴はそんな妄想をしながら、一方では次の話の切り口を探していた。  ところが、意外にもゆきえの方から話題が振られた。彼女は小晴の見よう見まねでティーカップからお茶をすすった後、一息つき、 「小晴殿。ここはいつの時代、どの地なのでしょうか。そして、私をあの無間地獄から救って下さったのは……」 「今はあなたが生きていた時代から約五〇〇年後、西暦に換算すると二一〇一年です。そして此処は東京、かつての江戸。外国との交流が当たり前の時代になって、武士も公家もいなくなりました」  そこで小晴は一呼吸おいた。ゆきえが胸中で言葉を反芻している様子だった。 「あなたを呼んだのは……有り体に言えば、私に協力してほしいから」 「……協力?」  水平に切り揃えられた前髪の下で、ゆきえの双眸が瞬いた。 「そう、協力。しかも、申し訳ないけれどあなたには一銭の得にもならない。向こう三年間、私が学を修めるためだけに付き添ってほしい」  言い切った後、さすがの小晴も後味の悪さを覚えた。言葉にしてみると、なんと一方的で身勝手な願いだろう。もっと言葉を繕えたはずだが、その器用さは生来小晴が持ち合わせ得ないものだった。  ゆきえは両膝に行儀良く手を重ねながら、テーブルの一点を見つめている。伏し目がちなその切れ長の目は、理知的な少女らしさと危うげな少年らしさの間で揺れていた。 「……少し、考える時間を頂いても宜しいでしょうか」  強張った声だった。小晴は静かに頷いて、 「外の空気、吸いましょうか」  応接室からバルコニーに続くガラス戸を開ける。途端に夕方の日差しと冷えた風が吹き込んできた。冬の終わり、まだ日は短い。  ゆきえはとぼとぼ小晴の後に続いて、バルコニーの手すりに手をかけた後、間もなくその上に飛び乗った。小晴が驚く間もなく、手すりと壁を蹴って器用に上階へ、屋根へと飛び移る。さすがの小晴も自分の屋敷の屋根に上ったことはない。そこから見える景色がどんなものか、想像するしかなかった。  ゆきえは屋根の上にどっかと胡坐を組んで座っていた。両目は真っ直ぐ遠くを見つめている。冷たい風に、首のマフラーが遊ばれていた。  小晴も暫しゆきえの黙考に付き合った。体が冷えたが、自分ひとりだけ室内で温まっているのは何だか筋違いのような気がしていた。  そして数分にも何十分にも数えられるような時間が過ぎ――屋敷の門から一台のセダンが乗り込んできたのを見て、小晴はにわかに動揺した。この屋敷の主もとい両親が帰ってきたのである。父母ともに用向きは別々だったが、帰りは一緒になると今朝聞かされていた。母親はともかく、魔術師である父ならば魔力の乱れに気づき、小晴が召喚術を行なったことがすぐにばれるだろう。  ゆきえの召喚は、未だ失敗とも成功とも言えない。とはいえ、三か月間も準備を費やしてきた結果を無下にはできないし、新たな召喚を行うことも難しい。父はゆきえが死霊であるか否かを見抜くだろうか。娘のもたらした結果に落胆を覚えないだろうか。  屋根を振り仰ぐと、ゆきえも車に目をやっていた。大方、動く鉄の塊に仰天しているのだろう――だがその顔つきは真面目で、何事かを深く思案しているようであった。  間もなく、ゆきえは軽々と小晴の傍へ飛び降りてきた。 「覚悟が決まりました。小晴殿、あなたの御身を守りましょう」  ゆきえは片膝をつき、首を垂れた。 「……いいの?」 「二言はありません。あなたにお仕えする、そう肚を決めました」  上向いた顔つきは頼もしい微笑をたたえていた。それがあまりに凛々しく、小晴は不覚にもどきりと胸を弾ませる。自分と同い年の少女にしては、生きた時代や育った環境があまりにも違うのだろう。男女の別なく、ゆきえは信頼できる人間だと、小晴は本能で悟った。  今晩の夕食の後、ゆきえを両親へ紹介する――それだけ約束して、それまでは合図があるまで姿を隠すようゆきえに段取りを説明した。小晴が、姿を隠すための符術を用意するまでもなく、彼女は「はっ」と返事をして天井裏に身を潜めてしまう。この時初めて、この屋敷にも天井裏があるのだなと小晴は妙に感心してしまった。  刻々と夕食の時間が近づいている。ゆきえの気配はすぐ近くに察知できており、これは主従関係に基づく魔力回路<パス>を辿って分かるものだった。志桜里さんに茶器を片付けさせながら、どう話を切り出そうか考えているうちに、侍従長から夕食の支度が済んだと連絡がきた。  食堂は十人程度が不便なく座って食事できる程度に広い。これを、いつもは小晴と両親の三人で奇妙な距離感を保ちながら使用している。相応に花瓶や食器類も並ぶので、むしろ小晴にとっては、学校の机の方が狭くて不便だと思うほどだった。  長方形の長い机の短辺に、主人である六条黎明が座る。三脚程度の間隔を開けて、長辺に小晴とその母が向かい合う。互いに適度な声量で会話できるほどには、食器の音も召使いたちの動きも静かで厳かだった。今の小晴にとっては、それがやや窮屈でもあるが。 「そういえば、小晴。学園から入学試験の案内は来たの?」  にこやかに話題を持ち出したのは母だった。前菜を慎ましく口へ運びつつも、その声には興味と期待が滲んでいる。  学園――フレイザー魔術学園日本支部高等科というのが、小晴の進学予定先だった。 「ええと、まだ。やっと私立受験の人たちに案内が来たくらいらしいから」 「あらそう、結構ゆっくりなのね。もう一月だもの、色々準備があるでしょう?」 「ええ。でも、特別手間のかかる準備は少ないみたいだし」 「済んだのか?」  父・黎明が会話に加わった。短い言葉の裏に幾つもの意味を小晴は感じ取る。 「はい。大体、済みました」  まだゆきえのことは口にすべきではないと考えて、曖昧に返答する。  小晴はいつも、黎明の言動に圧を感じていた。六条エレクトロニクスという大企業グループの恩恵も、魔術師という才能も、六条家歴々の当主が培い、受け継がせてきたものだからだ。いつかは小晴も黎明からそのバトンを受け継ぐが、黎明が小晴の才能を認めなければ、そのバトンはきっと違う人間に託されるのだろう。小晴にとってそれは幼い頃からの、あってはならぬ悪夢だった。  両親は、小晴がどんなに優秀な成績を収めても褒めてくれることはなかった。それが六条家の人間にとって当然のことだからだろう。小晴は生まれながらに人の上に立つことを求められ、そのための努力も当然の代価として求められた。  他の夢を見ても良いのかもしれない。普通に生きる、普通に暮らす、並の生活を送る――そんな考えを抱ければ、どんなにか楽だったろう。 「同じ進学先の子はいるの?」  母がにこやかに訊ねる。 「いいえ」  この返答に、母は喜ぶのだろうか。  小晴が現在通っている中学校で、魔術師の才能があるのは小晴だけだった。多くは魔力を全く有していないか、有していても微々たるもので魔術学園で鍛えるほどでもない。類稀な人材――それが中学校における小晴の位置づけだった。 「お友達が一緒じゃなくて、寂しくない?」 「そんなに親しい人、いないから」 「そうね、思春期って難しいものね」  本気とも冗談ともつかないコメントに、小晴は胸中で面食らう。母は、本当にそんな理由で、娘に友達ができないと思っているのだろうか……。  夕食の時間は刻々と過ぎ、テーブルのメニューも行儀良く差し替えられていった。そして最後の皿が下げられる頃、 「お父様、お話宜しいですか」  小晴は幾つか考えていた話を切り出すためのフレーズのひとつを口にした。  黎明は言葉を発さず、目だけで続けるよう促す。 「今日、魔術学園受験、ならびに入学のための召喚術を実行しました。私はこの子と共に勉学に励もうと思います――来て、ゆきえ」  名を呼ぶと、ゆきえは音もなく小晴の背後に降りてきた。黎明に向かって片膝をつき、首を垂れている。 「名は蓬靱負、私と同い年ですが、彼女は戦国時代の生まれです」 「歴史上、聞いたことのない名前だな」 「僭越ながら、忍びゆえ、名が広まるのは憚られます」  ゆきえの言だった。それに対して黎明は、意外にも低く笑ってみせた。 「忍者か、これはまた……。伊賀や甲賀、服部半蔵、私が知っているのはこれくらいかな」  それで、と黎明は言葉を継ぐ。 「仮にも小晴は六条グループの次世代を担う人間だ。その使い魔ともなれば、電気工学や情報工学にある程度の理解がなくては困る。技術革新という戦争を勝ち上がらなければならないのだよ。君は、どれほど貢献できるかな?」  これは小晴にとっても痛い質問だった。現代テクノロジーと忍者など、まるで此岸と彼岸だ。そして現代技術の粋たる例さえ、まだゆきえに教えることができていない。  ところがゆきえは顔を上げ――その顔貌はしたり顔にさえ見えた――まっすぐ黎明を視線にとらえて言った。 「不習いゆえ、この時代の絡繰についてはとんと分かりませぬ。しかし、戦の手習いは心得ております。戦とは何を取ってもまずは情報です。忍びはこれを集め、読み解き、次の一手、いや二手、三手先を読むのが領分です。必ず小晴殿のお役に立ってみせます」  そう言い切ったゆきえに、黎明も、小晴自身も、思わずたじろいだ。言っている言葉の説得力もさることながら、齢一五にして大の大人の男に啖呵を切ってみせる姿は、どんな口上よりも雄弁だった。  そうか、と黎明は短い息をつく。眉間に深く寄せたしわを見ると、私が婿候補を連れてきてもこんな風なのかな、と下らない考えが小晴の脳裏をよぎった。 「まあ、小晴に任せよう。相性というものは時間を経て分かってくるものだ」  それきり黎明は手を挙げて、離席する旨を侍従長に伝え、執務室に下がった。  残された小晴とゆきえは目を合わせ、一難乗り越えたことを互いに確認した。 「まるで弟か妹ができたみたいねえ」  父親と娘の会話を無言で見守っていた母は、出し抜けにそんなことを言う。どこか世間ズレしたコメントに小春は暫し閉口したが、拒絶されないだけましかと思った。  それから小晴は、侍従に食後のコーヒーを二人分用意するよう言いつけて、ゆきえを連れて自室に戻った。母親を世間ズレしているなどと捉えたが、正直なところ、小晴もゆきえに様々な現代文化を楽しませてやりたいという姉心のようなものが芽生えていたのであったーー夕方に出てきた白桃煎茶は気に入っていたようであるし。  小晴は自室の学習デスクの椅子に座り、脇に下げたカバンから手帳を出した。その中のあるページに、『召喚したら確認すること』というリストがある。これは、召喚術の準備とともに試行錯誤していた、従者への伝達事項のリストであった。既にゆきえと確認を終えたこととして、 ・時代の認識のすり合わせ ・従者としての契約意思(期間が最低三年間に及ぶこと) ・お互いの名前や年齢(人外は推測)  以上三点の項目に横線を引いてリストから除外した。他に残っているものについて、割り振られた優先度の数字を辿りつつ確認していこうとゆきえを振り返る。  ゆきえはすぐ後ろに正座して控えていた。刀はやはり差したままだと引っかかるようで、右手に置かれている。カーペットとの釣り合わせがあまりに不可解で、小晴はやや困惑を覚えた。こんな年端もいかぬ少女が、刀を腰に差し、父親に面と向かって啖呵を切ってみせたことは、やはりちぐはぐなことに思えた。 「……ねえ。よくお父様にあんな啖呵を切れたわね。私、場違いなことを言い出さないかはらはらしたわ」  思い出しただけで、今でもじっとり掌に汗をかく。父親が心変わりをして文句を言いにきたらどうしようかとも想像する。  しかし当のゆきえは溌剌と笑ってみせた。 「なに、呼ばれてからこれまでのことを考えれば、お父上が仰ろうとしていたことも分かります。デンシ……なんたらなど、そういう言葉は分かりませんが、人は手を変え品を変え、常に相争ってきた歴史があり、情報を持つことがまた勝利への定石であることも変わりませんから」 「勝利への定石、ね。そうよね、あなたは……」  戦国時代を生きていたんだものね。その言葉に込めるべき色々な感情があったが、世間知らずの箱入り娘がどんな感情を込めようと、場当たり的な同情に思えて、止めた。きっと彼女はその刀を振るっていたのだろうし、人を殺したのだろうし、殺されようとしたこともあっただろうし、実際に自刃にまで至ったのだから、今は新しい主としてその事実だけを受け入れることしかできなかった。  ーー無論、彼女の召喚が死霊術を持ってしてのものなのか、通常の召喚であるかは、別として。  小晴は手帳のページを、インデックスを頼りに月間カレンダーの欄に移した。その中から四月を見つけ出す。右下のメモ欄には、新しい高校生活に備えた二つの目標を書き記していた。  友だちをつくる。  成績上位を維持する。  いささか文面は幼稚だが、目標はストレートな方が良いと思っていた。そして殊前者の目標に関しては、幼稚なわりに案外難しいのが、小晴にとって長年のネックであった。  二つの目標の上に、『ネクロマンサーとばれない』とさり気なく書き足す。それから、今よ今、と小晴は頭を振る。 「ええと……これからの予定なんだけど。まず、約一ヶ月後に私の入学試験があります。この時あなたにお願いしたいのは、付き従ってもらうことと、もしかしたら口頭試問があるかもしれないので、それに答えてもらうことです」  卓上カレンダーの該当日に印をつけていたので、今日の日付と合わせてゆきえに示した。カレンダーにはちょうど、何月であるかを英名と和名で併記してある。ゆきえは和名を見て、今は睦月ですか、と呟いた。 「小晴殿が仰る入学と言うのは、具体的にどのようなことでしょうか?」 「学校……つまり、魔術について学ぶ場所に春から通うため、その資格があるか、あらかじめ試験を受けるの。それに合格すれば、私は最低でも向こう三年間、その場所に通って勉強することができるわ。試験は筆記と実技があるけど、ほとんどは私個人の能力が試されるだけだから、あなたに大きな負担は無いはずよ」 「学問を教わる場所……ですか。小晴殿のような方がたくさんいらっしゃるのですか?」  小晴はこの問いに少々窮した。人口比で語れば魔術師は僅かだし、わざわざ専門的に学ぼうと全国で一か所しか無い学園に通うような人数はたかが知れている。しかし学園には政府の特別室が配属されていて政府職員が学園と政府との間を執り成していたり、いわゆる大学としての機能を内包した学士・修士・博士課程を置いて全国各地の魔術師と日夜魔術の研究を行なっていたりと、なかなか複雑な縦横の繋がりがあり、正確な生徒数や関係者数はまだ把握し切れていないのだ。だが、そこまでゆきえに詳細に説明する必要があるとは思えない。不慣れな時代の知識で余計に混乱させるつもりはないし、これから自ずと知っていくこともあるはずだからだ。そこで小晴は非常にざっくりとした回答で問いを締めることにした。 「人数としてはたくさんいると思うけど、魔術の才能がある人しか通わないから、国中の誰もがってわけじゃないのよ」 「なるほど。それはある意味、武家や公家や農民に似ていますね。しかし、身分ではなく才能ですか。面白き時代になったものですね」  良い時代、と形容しないことに価値観の違いを覚えるとともに、身分制は別の形で残っているかな、と小晴は思った。六条家がまさに好例だ。とりあえず今は、ゆきえの得心する形で説明を進めていく。全ては合格前提で語ったし、小晴はその未来しか描いていないーーというよりも、その未来しか許されなかった。魔術師の才能は幼年期の頃より確実にその片鱗を見せていたが、家の方針で、世間の教養を身につけるべく中学までの義務教育は通常の学校に通い、それとは別に家庭教師という形式で魔術の教養を修めてきた。学問としての魔術も実用に耐えうるものとしての魔術も、どちらの面も厳しく教え込まれてきた。故に、小晴にとってのこれからの高等教育課程は家庭教師の延長であり、拡大であり、道のりの一途でしかなかった。その一途にゆきえが投げ出さんとするは光か陰か、今すぐにでも見極め対処したいところではあるが……。父がその点について何も言わなかった以上、少なくとも父には、死霊ではない召喚物として映ったようだが。  コーヒーを待ちながら、現代の『国』という名称が日本全体を指していることや、幕府に代わって政府があることや、戦国時代末期からのおおまかな歴史について語ったりした。そのうちコーヒーが運ばれてきて、折角なので世界地図を広げながら舶来品もとい交易についてもそのうんちくを披露した。 「砂糖……、そんな高級品を、今やこんなにも……」  シュガーポットを開いて見せると、その純白の粉末にゆきえは目を白黒させた。次いで、豆から作る飲み物が茶だけに留まらないことや、牛の乳を主成分とする液体の味にも感嘆し、全てを小晴の完璧な配分で合成したミルクコーヒーに関しては、いよいよ舌鼓を打った。ゆきえはブラックコーヒーもいけるようだったが、ミルクを入れた方がより美味しく感じるとのことだ。  死霊かどうか確かめることが急務であるのに、呑気に現代文明を楽しませている自分を、小晴自身さえ奇妙に感じた。 「ねえ。ゆきえの時代って、甘い味付けはどうしてたの? 砂糖って貴重だったんでしょ?」  小晴は、ゆきえよりも更に砂糖を足したミルクコーヒーを味わいながら、そんなことを訊ねてみた。歴史の教科書には無い生活感というものが、ゆきえには少なからずあった。  そうですね、とゆきえはコーヒーカップを両手に収めて天井を仰ぐ。 「甘葛<あまづら>や水飴を使っておりましたが、甘さは、この砂糖には到底及びません。幼い頃、京の土産に父上から頂いた金平糖が、私の人生でいっとう甘い菓子だったように思います」 「金平糖かあ。最近全然食べてないけど、たまにむしょうに食べたくなるのよね」  実のところ、ミルクコーヒーの件でも明らかな通り、小晴は大の甘党であった。常に頭を働かせているからとか、女性特有の味覚だからとか、そういった一般的な理由の範疇を大きく超えて甘味が好きなのである。金平糖を見かけたらゆきえに買ってやって、一緒に食べよう、と小晴は考えた。  雑談のような話も一息ついて、小晴は改めて手帳のリストを見る。話した項目に横線を引いていくと、大部分が削除された。残っているもののうち優先順位の高い事項に、『現代技術・六条エレクトロニクス』『符術』のふたつがあった。前者について、このリストを作成した当時は当然話すべきこととして書いたのだろうが、現在考えるには何から話すべきか、何を話すべきか、曖昧模糊としている。とりあえずスマホやパソコンなどの情報端末を見せたら良いかと思って、小春はポケットから机上に移していたスマホを取り上げた。 「話は変わるんだけど、現代技術もちょっと説明しておくわね。お父様が言ってた電子機器っていうのはこういうやつ」  パスコードでロックを解除した後、ホーム画面をスライドしたり、ブラウザを開いたりしてみせる。ゆきえは目で追うのがやっとと言った様子で、しかつめらしい顔を浮かべた。 「この絡繰は、何に使うのでしょうか? 小晴殿のご両親が帰られた際に乗っておられた、あれは移動用の絡繰ですよね?」 「そうそう、馬車とか牛車とか、人力車みたいな感じね。それを燃料の油と火の力で動かしているのよ。で、このスマホってやつは、本がいっぱい入っていたり、すぐに手紙のやり取りができたり、遠くの人と会話できたりするわけ。電気っていう燃料を使うんだけどね」  説明途中で、ゆきえはぴくりと眉を動かした。 「すぐとは、どれくらいでしょうか?」 「すぐよ、すぐ。こうしてあなたと会話するくらいの速さ」 「なんと、では、いかほどの距離でも、すぐなのですか?」 「そう。便利でしょ?」 「便利も何も、戦が変わります!」  ゆきえが前のめりに大声を出したので、さすがの小晴も驚いた。今や瞠目する立場が逆転していた。 「謀反の報せも、出陣の時刻も、戦況も何もかもがすぐに伝えられるとなれば、二手や三手先などすぐ読まれましょう。私、お父上に生意気な口を叩いてしまいました……! 今世に無知ゆえ、お恥ずかしい……申し訳ありません、小晴殿。従僕の恥は主君の恥、私、なんという失態を……かくなる上は、小晴殿に非は無く全ては私の厚顔無恥ゆえと申し開きを」 「ちょ、ちょっと、待って待って! そんなに恥ずかしいことじゃ無いし、大ごとじゃないわよ! 戦争のことはよく分からないけど、あなたの時代の戦争を父も知っているし……その上であの態度だったと思うから、謝ることはないわ。むしろ、スマホひとつでそこまで考えられる方がすごいと言うか……」  そう取り繕いながら、彼女は生まれ持っての武人なのだと小晴は内心でぞっとしていた。同い年の少女だが、元より根っこが違うのだ。ひょっとしたら小晴は根っからの魔術師かもしれないが、己の思考ロジックを比較するには対照が少なすぎた。しかし、生まれ持っての武人の思考が、己の魔術師としての新たな肥やしになるかもしれないという考えも同時に生まれていた。やはり、『引き』は良かったのかもしれない。  取り乱したゆきえを宥めた後、小晴は情報端末について嬉々として説明を加えた。インターネット、情報リテラシー、音声や写真・動画としての記録媒体、そしてそれらの技術の革新に六条エレクトロニクスという企業グループが関わっていることーー。ゆきえは新しい知識を受け入れることが得意らしく、興味深げに説明を聞いていた。さすがに操作までは自信が無いようだったが、慣れた頃に買い与えても良いかもしれないと小晴は思った。無論、こと通信技術においては電子機器よりも魔術の方が今のところ優れているが。  一通り現代の科学技術について説明を終えた後、最後にと『符術』について説明して今日は休むことにした。説明といっても実物を使ってみせれば良いだけで、体感で覚えられればそれで良い。もう時刻は二一時を過ぎており、風呂に入らねば志桜里さんに叱られる頃だった。小晴は学習デスクの抽斗から、あらかじめ用意しておいた符の束を取り出した。  一筆箋よりもひと回り小さな符には、一枚ずつ異なる術式が書かれ、それが何の魔術であるか分かるように『姿隠し』『呼出』『伝信』などの呼称が付記されている。すべて小晴の手作りであり、小晴の魔力が込められていた。 「これは私が使ってもあなたが使っても反応するんだけど、数に限りがあるから無駄撃ちはしないでね。まあ、そんなにすぐ摩耗しないと思うんだけど……例えば人から姿を隠したい時には『姿隠し』の符を使うの。『姿隠し』と口にすれば起動するわ。いちいち屋根裏に隠れなくてもいいからね」 「はあ……しかし、木の上でも人に気取られぬ自信はあります」 「魔術師には独特の……魔力っていう気配の探り方があるのよ。それから逃れる時にも使えるの。魔力を甘く見ない方がいいわよ」 「千里眼のようなものでしょうか?」 「それも能力の一部ね。とにかく、大事に扱って。服の中に入れておけば良いわ」 「賜ります。ありがとうございます」  ゆきえは丁重に符の束を受け取ると、前身頃の中に仕舞い込んだ。文字通り懐に入れる動作を目の前で見て、小晴は内心感動していたが、面には出さないように咳払いする。 「じゃあ、そろそろ私はお風呂に入ってくるから。適当にくつろいでてもいいし、人に見つからなければ少しくらい外を出歩いてもいいわよ。道に迷ったら、『転移』の符を使えば私の傍に戻ってこられるから」  かしこまりました、とゆきえは一礼する。小晴が風呂の支度をして部屋を出ていくまで、正座のままじっと待っていたのが気になったが、時代劇でもお殿様が移動する時そんなものだったかな、と小晴は思い返して納得した。
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