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入学試験当日を迎えても、小晴はあえて験担ぎのような最終手段には及ばず、枯れた冬の道を寒いだの滑るだの罵る世間の言葉も笑って流し、いつも通りの朝食を済ませて家を出た。お抱え運転手はやや緊張したような、いつもより気を張り詰めているような様子でハンドルを握っていたが、小晴はあえてそれにも触れなかった。
日常と違うのは、母親が突然「お弁当を作るわ」と出所の分からない気合いを見せたことだった。いつもは厨房勤めのお抱え料理人が作っているし、小晴の気が向けばコンビニを嗜むために「明日はいらない」と事前に断っておくこともあるのだが、厨房に母が立つことなどついぞ無い出来事だ。母の弁に依れば、
「折角の小晴の受験なんだもの。母親の愛情をたっぷり込めたお昼で元気をつけてもらいたいじゃない?」
とのことであったが、小晴も、侍従長も、料理長も、そして珍しく父親までもが全力で引き止めた。母親の家事能力がいかほどにせよ、普段やり慣れないことをして怪我でもされたら困るし、火の通りが悪いとか下処理が甘いとかで小春の胃腸に不調を来すことがあってもならないからだ。母親はさも残念そうにーーというよりも恨めしそうに、目尻を拭いながら「じゃあ、入学式まで特訓ね……」と言い残して引き下がった。
何はともあれ本調子を取り戻した小晴は、受験会場でもある学園に到着すると、運転手に礼を言って正門をくぐった。
正門から正面玄関に向かう並木道には、小晴と同じく受験生であろう何人かの学生や、その親や教師と見える大人たち、そして既に学園の制服に身を包んで校舎案内に立っている在校生らしき人々がばらばらと立っていた。在校生は『自治会』という腕章を付けており、生徒会のような組織があるのだなと、横目に通り過ぎながら小晴は思った。
受験生たちは学校が特定できないほど様々な制服に身を包んでいて、中には私服のような学生もいる。今時、指定制服の無い学校も珍しくは無いが、私服はやはり浮く印象があった。
見たところ知り合いはいない。小晴は奇妙な安堵と寂しさの綯交ぜになった感情を胸に宿らせながら、正面玄関をくぐって、受験会場の案内板に向かう。あらかじめ郵送されていた受験番号と照らし合わせて教室を確認し、さっさと会場に移動することにした。
校舎は外装を石壁造りに、内装を木目調の落ち着いた雰囲気に統一しており、壁材の裏には一種の魔力抑制の術式が刻まれているようだった。魔力が暴発したり、悪い目的に魔術が行使された際、それを抑えるための対応策だろう。安全面にもかなり気を遣っているようだ。これにいち早く気づいた受験生は私だけだろうな、と小晴は廊下を進みながら考える。六条という家柄で育ったためか、つい設備の仕組みやメーカーを確かめてしまう癖があった。六条エレクトロニクスの製品であればその安全性に安堵できるし、他社製品であればその性能を評価してやろうという気になる。もちろん六条エレクトロニクスは建材分野にはまだ手を出していないので、当然他社の商品でこの校舎が成り立っているのであろうが、製造過程で六条エレクトロニクスが関わっている可能性は充分にあった。父親は、決してそんな話は家庭に持ち出さないが。
ーー美しい建物ですね。西洋風の造りでしょうか。
『姿隠し』で付き添っていたゆきえが、『伝信』を使って小晴に話しかけてくる。きっと他の受験生の何人かも、召喚術を得意とし、その従者を従わせているはずだった。小晴は周囲に気取られぬよう、同じく伝信の魔術でゆきえに返答する。
ーー最初は筆記試験だから、校内を見てきてもいいわよ。たぶん生徒とその従者が入れない結界もあると思うから、それには気をつけて。
もし召喚物の出入りが自由であれば、試験期間中などに問題を盗み放題だろう。貴重品の盗難もあるかもしれない。そのために、職員室や一部の部屋には入室者を制限する術式が掛けられているはずだった。
ーーでは、お言葉に甘えて。暫し偵察に行って参ります。
ゆきえの離れる感覚があって、ひとりになったと小晴は感じた。筆記試験は小晴自身の能力が試される、いわゆる孤独な戦いだ。受験会場となる教室に行き着いて、密かに深呼吸し、中に足を踏み入れた。
教室内は異様な静けさと張り詰めた空気で満たされていて、期末テストの時期よりも余程緊張感の漂う、まるで命のやり取りでも始まるような雰囲気だった。殆どの受験生が自分に当てがわれた席で魔術書やノートを舐めるように読み、人が出入りするたびに扉の前に視線を向ける。小晴もそんな衆目に晒され、にわかに怖気付いたが、持ち前の虚勢で歩みを止めることはしなかった。正面の電子黒板に番号と席の模式図があり、自分の位置を確認して、ゆっくりとした足取りで席に向かう。何者かに取って食われるようなただならぬ気配が教室中を満たしていた。
電子黒板に掲示された試験時間や試験中の注意事項に従って、まずは筆記具とノート代わりの手帳をカバンから取り出し、カバンそのものは椅子の下に立て掛ける。正直なところ、こんな土壇場で復習をしてもほとんど点数に影響はしないだろうが、かと言って試験時間まで暇そうにしているのも周囲の心証を悪くするだけだ。期末テスト時期の「全然勉強していない」と宣うような輩が、小晴は嫌いだった。本当に勉強をしていないならそれはそれで気の毒だが、必死な努力を自ら否定する姿勢が、どうにも気に食わなかった。
ゆきえは、何処まで出歩いているのだろうか。手帳に書き込まれた受験対策の記録を読み返しながら、ふと思い起こす。気配を辿ると半径一キロ以内には居るようだったが、あいにく小晴にはまだ、自分とゆきえの相対的な位置関係しか分からない。どっちが北で、南の校舎には何があるのか、そこまでは把握していなかった。用心深い彼女の事だから面倒ごとは起こさないだろうと信頼を再確認し、小晴は手帳のページを繰る。
「ねえ、ねえ」
不意に左の席から小声で呼びかけられ、小晴は思わず肩を跳ねさせた。振り向いてみると、何処かの公立校の制服を着た女生徒が、身を乗り出して小晴を見つめていた。
「な、何?」
「あなたの制服、ハクツルの制服よね?」
「そうだけど……」
ハクツルとは、小晴が通っている小中高一貫校の『私立白鶴学院』の通称だ。それなりの名門校で、都内では制服のデザインとともに名が知れていた。無論、六条家の令嬢が通うだけあり、世に言う『金持ちのための学校』という側面もあるが、一方では成績優秀者に入学費・学費無料で通わせるなどの高偏差値校としての側面も持っていたーー小晴はその資格を満たしながら辞去していたが。
隣の席の少女はぱあっと顔を輝かせ、無遠慮に小晴の上着やスカートを見回した。
「わあ、やっぱり可愛いなあ、ハクツルの制服……私もお金があったら絶対に通いたかったんだ。推薦じゃ絶対入れないからさ。……あ、ごめんね、勉強中で邪魔だったよね」
「え、いや、別に……あなたはどこの学校? その制服も、シックで可愛いと思うわ」
小晴はとりあえずの礼儀として、簡単に会話を繋いだ。
少女は照れたように眼前で手を横に振り、
「こんなのダサいだけだよ、よくあるデザインの色違い。しかも名前が、県立第三中学校だよ? サンチューって呼ばれてるの」
何が面白いのか小晴にはピンとこなかったが、少女に合わせてくすくす笑ってみせた。うるさそうに前の席の男子生徒が振り返ったので、即座に声を潜め、互いに顔を見合わせる。
「ねえ。試験、頑張ろうね」
「……そうね。お互い頑張りましょう」
実のところ入学という席を争うライバルには違いないが、秘密の友情のようなものを感じて、思わず小晴もそんな言葉を返した。来春、彼女と同じ制服を着て登校できたら、新しい学校生活も良いスタートを切れるのかも知れない。手帳をぱらぱらとめくり、来春四月の月間カレンダーを開く。メモ欄にはあの『高校生活の三大目標』が書かれている。そのひとつを、隣の席の少女と達成できればと思い描いた。
間も無く教員がにこやかな笑顔で入室してくると、教室の空気がより引き締まった。試験開始ぎりぎりまで復習に励もうとする者もいれば、小晴のように、早々に不必要物をカバンにしまって教員の説明を聞こうとする者もいた。
教員は電子黒板にある注意事項を朗々とした声で読み上げ、試験時間を確認し、正面の壁掛け時計を見ながら問題と解答用紙を配る。やがて秒針の音だけが響くようになった頃、受験生たちが今か今かと待ち構える中で、「始め!」と合図が下された。
試験問題は小晴が内心で拍子抜けするほど基礎的な内容ばかりで、一度は引っ掛け問題ではないかと疑った。科学と魔術の違い? 魔術倫理? 符術の定義? 召喚術と転移術の違い? 薬草の名称と効能? どれも小晴が「手始めに」と幼年期に習ったようなことばかりだった。そのため、問題へ真剣に取り組みつつも、余った時間は解答の字を綺麗に書き直すことに費やすはめになった。もともと小晴は字形が整っている方だが、問題の最初の方などは時間を巻こうとしてやや乱雑に書いたところもある。それを書き直したり、書き損じを跡形も無いように綺麗に消しゴムで消したりと、試験時間の半分くらいをそんな雑事で潰した。
やがて試験時間の終了が告げられ、無意味な労働が終わったと小晴は鉛筆を置いて解答の回収を待つ。周囲を窺う分には、それなりに歯応えのある問題だったらしく、既に頭を抱えている者や、顔色の冴えない者もいた。
午前の残った時間は、僅かな休憩時間を挟んで小論文の試験がある。それが終わると昼休憩、次いで実技と面接の試験が待っていた。山場が三つあるが、最初の筆記試験が予想以上に標高の低い山だったため、小論文のテーマや実技もたかが知れているだろうというのが目下の小晴の予測だった。
「筆記、どうだった?」
小休憩の折、隣の席の少女が不安げに訊ねてくる。そういえばまだ名前を知らないな、と思いつつも、お互いの合格が分かるまでは聞かない方が礼儀かも知れないと小晴は内心で思った。
「そうね、まあ、こんなもんかな、って感じ」
「ホント? あたし、ちょっと意外な問題が多くて手こずっちゃった。定義とか、書くの苦手なんだよね。体感では分かるんだけどさ、文章にするのが難しくて」
彼女が平均の代表例だとすると、他の受験生も同様の感想を抱いたのだろうか。そっか、と小晴は相槌を打ちながら考える。先程の問題でーーしかも定義の記述で苦戦するようであれば、小論文も危ういのではないかと思う。試験結果は筆記・実技・面接と三種類あるが、どの受験でも見られるように、その評価の割合が五分五分とは限らない。実技を重視するところもあれば、面接を重視するところもある。隣の席の少女は明るくハキハキしているし、きっと面接の印象は高評価だろうから、実技で頑張ってもらえれば、一緒の合格も夢ではない。
「まだ試験はあるから、その分、取り返したらいいのよ」
「そう、だよねっ。うわあ、ハクツルってそういうところも優等生って感じ、格好いいなあ」
彼女は悪びれた様子もなく小晴をそう評価して、小論文も頑張ろう、とひとり拳を握ると、カバンからよくある小論文対策の書籍を取り出して読み始めた。
小晴もようやく人心地ついて、手帳を読むふりをしながら僅かな思考の休息に耽った。
小論文試験は、筆記試験とは異なる教員のもとで実施された。前の教員とは異なり仏頂面のしかめ面をした教員であった。思えば試験官というのは、試験時間中にせいぜい消しゴムや鉛筆を拾う以外やる事のない、退屈な仕事である。それと同時に、試験中の不正や手違いが起こらないよう気を張っていなければならないのだから、つくづく割に合わない業務だと、小論文の構成を考えながら小晴は思った。
小論文のテーマは四本与えられ、そのうち二本を制限字数内で記述するという内容だった。科学や医学との融合、魔術における倫理、現代の魔術にまつわる政治的・法的問題、今後起こりうる魔術師と世間との衝突ーーこの中から小晴は前者二つを選んだ。いずれも家庭教師や父親が日頃教え込んできた課題点であり、どのテーマでも書き得たが、制限字数内で簡潔に語るには前者二つが適していると考えた。また、六条エレクトロニクスの人間として、科学と魔術の融合については一家言ある。問題用紙に構成を書いた後、小晴はすぐに文章に起こし始めた。
試験時間というのは不思議なもので、奇妙な静寂が空間を支配する。誰も大きな音を立ててはならない、ページを繰る音も細心であれ、咳やくしゃみは厳禁、ただ芯の先で机を叩く音だけは明朗に轟かせ周囲を威圧せよーー試験に悪魔がいるとすれば、きっとそんな呪詛を吐いているに違いない。やたらに鉛筆でカリカリうるさく音を立てる者もいる。そういう輩はきっと悪魔に憑かれているのだ。我ながら下らないと思いつつ、小論文が結論に至る頃にはそんなことを心半分に考えていた。
小論文の時間が終わり昼休憩の説明が始まる頃には、試験の悪魔も暫しの休息を得たようになりを潜めた。昼休憩は各自、午後の試験時間が始まるまで自由に過ごして良いことになっている。午後は実技と面接なので、筆記と異なり予習や復習に勤しむ術が少ない。コンビニのパンをかじりながら必死にノートに食い入っている人は何をしているのだろう、と小晴は横目で訝しみながら、隣の席の少女と一緒に、廊下のベンチスペースで昼食を広げることになった。
そこでようやく、少女は名前を教えてほしいと口にした。
「まだお互いに名乗ってないのに、すごい話しかけまくっちゃってごめんね。あたしはカナデリツカって言うの」
「六条小晴よ」
「え、なんかオシャレな苗字だね!」
「カナデさんも綺麗な苗字だと思うけど……漢字でどう書くの?」
そう言いながら、お互いに受験票の氏名欄を見せる。彼女の氏名欄には『嘉納手律香』と記されていた。
「珍しい字を書くのね。由緒ある家なのかしら」
「うち、神社なんだ。習字の時とかすごい面倒くさいんだよ。字画も多いしバランスも悪いし、姓名どっちも名前みたいだし」
「でも素敵な音よ。それに神社の家柄なんて、格式があるじゃない。陰陽術を使うの?」
魔術師の家系には神道仏教の家柄もあると聞く。魔術はあくまで総称で、具体的に分類すると陰陽術・神道術・仏道術なども含まれていた。小晴には、陰陽術と神道術の違いがいまいち分からない。
律香は照れ隠しするように持参のおにぎりをかじってみせ、
「うちは神道術メイン。でもあたしの得意分野はしょぼくてさ、神道術の中でも拘束術くらいしか使えないんだ。お札とかサトリとかを使えたら格好いいんだけどね。……六条さんは何が得意?」
「私? ……は、召喚術かしら」
最大の成果は現在のところゆきえだが、それ以外にも、小手調べに幻想種である妖精や小さな火噴き竜などを召喚したこともあった。魔術全般を得意とするが、熱意と関心をもって取り組みやすいのが召喚術であった。
召喚術、と律香はおにぎりを飲み下してから呟き、
「それって、すごい格好いいね? 神道術だと式神行使に近いんだけどさ、あたし、からっきしダメなんだよ、自分の手から離れて動くモノを制御するの。まあ式神は術式記述も苦手なんだけど……自分の手から離れて動くのって、怖くない?」
「うーん、どうかしら。ある程度の信頼関係と、最低限制御する術があれば、怖いと感じることは少ないかも」
現に、ゆきえについて現在は放ったらかし状態だが、特に心配はしていなかった。ゆきえ自身の理性や行動原理を信頼しているし、何かあればすぐ術者にも異常を知らせるように符の束まで用意しているのだ。そろそろ午後の試験に向けて呼び出さなければならないが。それに召喚術の主従関係は、ほぼそのまま、主人と屋敷の侍従の関係にも似ていた。そういう育ち柄がーー人の使い方というものが、小晴の召喚術を確かなものにしているのかもしれなかった。
「やっぱり六条さんって、優等生って感じするなあ」
ラップに包んだおにぎりの形を整えながら、律香は嘆息している。こんな短時間しか知り合っていない人でも、優等生という分類をしてしまうのだな、と弁当の卵焼きをつつきながら、黙って聞き流した。
「ねえ。六条さんって併願?」
おもむろに律香が訊ねてくる。話題がポンポン飛び出すあたり、おしゃべりが好きなようだ。小晴は静かに首を横に振る。
「専願よ。ここしか受けないわ」
「わあ、すごい! ハクツルの高等科も蹴ってるってこと? あたしチキンだから保険かけてるんだ。もう一個、神道系の学校なんだけどね、親からも高校浪人は今時やめなさいって」
「あら、でも神道系の学校なのね。ちゃんと将来のためになるんじゃないの?」
「お父さんの出身校なの。まああたしは神主じゃなくて巫女なんだけど……金さえ出せばなんとかバカでも入れてもらえるからって」
「そんな言い方は無いわ。大事なのは、入学してからどれくらい勉強するかよ」
「うう、頭の良い人ってやっぱり発想が違うね……」
どこまで自分を卑下するのだろう、と小晴は辟易し始めたが、しかし彼女の口振りにはどこか楽天的な印象もあって、はっきり嫌うほどにはなれなかった。現に励ますような言葉を掛けてしまっているのも、幾らか彼女に情が湧いているのだろうか。
六条さん、とまだラップにおにぎりを包んだまま、律香が頼りない声を出す。
「あたし、この魔術学園に受かるように頑張るよ……もう面接と実技でしか勝率上げられないけどさ。神道の学校、男子が多いし、こっちの学校はサンチューの子ひとりもいないけど……もしここにふたりで受かって、同じクラスになれたらさ……」
この文脈は、と小晴の胸が一瞬跳ねた。
正直なところ律香という人物は、小晴とは真逆の性格だ。それでも家督を継ぐことを期待され、友人がひとりもいない高校に進路を定めていることは同じ。何より、楽天的で底抜けに明るそうな彼女に、気を許し始めている自分がいた。小晴はおにぎりを包む彼女の手の上に、ぎこちなく自身の手を重ねる。
「クラスが違っても良いわ。……ううん、学校が違っても良い。お友だちになりましょう」
「ほ、ほんと? あたしがここを落ちても友だちでいてくれる? 住んでるところが違っても?」
「もちろんよ。此処で会えたのもきっと縁だわ。学校が違ったら、どんなことを学んでいるか教えて? 興味があるの。私も魔術を教える。一緒に受かったら、クラスが違っても、お昼とか合同授業とか……。それに、一緒に色んな所で遊びましょうよ。ショッピングに行ったり、映画を観たり……」
饒舌に『友だち』を語ることに、小晴自身が驚いていた。ずっと長い間、孤独な時間、友だちがいたらこんなことをしよう、と考えていたことだ。何もかも、周囲の人間には当たり前にできていて、自分にはできなかったこと。
いつの間にか、重ねた小晴の手を、ぎゅっと律香の掌が挟み込んでいた。
「うん、うん! 友だちだよ、あたしたち! 六条さんの言葉を聞いたら、俄然受かる気になってきたよ! 午後もめちゃくちゃ頑張る、一二〇パーセントの力で頑張る! メッセのID交換しよ? いつでもメッセ送って良い?」
「も、もちろん、大歓迎よ」
メッセとは無料の通信アプリで、年代を問わず日本中で使われている交流サービスであった。小晴のアドレス一覧には、両親を除くと、これまでの学校のクラス長や、クラス全体向けのグループなど、事務連絡に使っていたIDしか載っていない。アドレスのことを白々しく『友だち』と称したり、ID交換を『友だち追加』とのたまうこのアプリが忌々しかったが、現在はようやく名ばかりの役名を終えられるのだった。
互いにスマホを向かい合わせ、ID交換画面の機能を使用すると、『かなでりつかさんが友だちに追加されました』と画面に表示された。彼女のアイコンには少女ふたりが海に浮かんでいる写真が使われており、片方は律香だと分かる。もうひとりの少女は地元の友人だろうか。写真のアングルからいって、第三者が撮影したもののようだった。
「あ、六条さんのアイコン、誕生日ケーキ? すごいこれ、高そう! キレイ!」
律香が小晴のアイコン画像を拡大表示させ、感動したように画面に食い入っている。
「う、うん。年ごとの誕生日ケーキの写真に変えてるの。それは今年の……」
小晴の誕生日は毎年、料理長をはじめ厨房が一丸となって腕を振るっていた。いつもは食後のデザートという端役でしか登場しない専属パティシエが、陽の目を浴びる日でもある。そして今年度のテーマは『宝石』と題し、ゼラチンや着色した氷砂糖をふんだんに使用した、ライティングまで完璧に計算し尽くされた豪奢なケーキとなった。これはパティシエから小晴への、受験合格祈願も兼ねていたようだ。着想は小晴の魔力結晶から得た、と恥ずかしそうに壮年のパティシエが打ち明けたのを思い出す。
「うわあ、毎年の誕生日に写真を変えるって、ロマンチックだなあ。すごく良いね、アイコン変わったら誕生日なんだーって分かるし、こんなにすごいケーキだったら見る方も楽しみだよ!」
「そ……そう? なんだか照れるけど、嬉しいわ」
「友だちに見せても良い?」
それは地元の友だちのことを言っているのだろう。もちろん、と小晴は頷く。律香のアイコンに写っている少女や、アイコンの写真を撮った人物も、きっとこのケーキの写真を見るのだ。見せる相手がいるのだ、という事実が一瞬だけ小晴の胸中に去来した。
スマホの画面を消して、律香は食事を続けながら、
「うーん、午後は面接と実技かあ。面接はとにかく笑顔、だよね。あー、でも、扉を静かに開け閉めするとか、お辞儀とか、忘れちゃいそう。変な言葉使っちゃいそう」
「面接はリラックスするのが一番よ。笑顔なら、あなたはきっと大丈夫」
「ほんと? あたしの番号が呼ばれたら、笑顔チェックしてね! 引きつってるよとか、教えてね?」
「いいわよ、分かったわ」
「実技は何するのかなあ。簡単なやつだと良いんだけど。何が出るか分かる?」
「当たっているかは分からないけど、午前の筆記試験から考えても、基礎的な魔術じゃないかしら? 物の移動とか、浮遊とか、符術とか?」
「あー、符術がきたら自信なくす! いや、でも一二〇パーセントなら閃くかも!」
「良かったら、実技練習に付き合いましょうか?」
「えっ、いいの?」
律香は心底驚いたように目を丸くした。小晴は午前の試験内容から、午後の試験への警戒心をすっかり無くしていたし、面接に関しては普段の社交界での振る舞いで鍛え上げられていたので、正直なところ心の余裕があった。隣に座る、一生涯に渡るかもしれない友だちの方に、むしろ老婆心が芽生えるほどである。小晴は腕時計の盤面と試験開始時間を照らし合わせ、
「試験官が来るのが五分前だとして……そうね、二十分前に始めたら良いかしら」
「助かるよ、六条さん! もう無敵、怖いもの無しって感じ! じゃああたし、急いで食べちゃうね!」
会話量を比べると小晴よりも律香の方が多かったので、小晴はほとんど食べ終えてしまっていた。料理人たちが、午後も眠くならないように気を利かせて量を抑えてくれたのだろう。試験終了後向けの簡単な菓子も持たされていたので、厨房も小晴の受験をかなり応援してくれているようだった。帰ったらしっかり労ってやろう、と箸を箸入れに納めながら小晴は思った。
そして、とうとう午後の試験が始まった。試験会場は五人ずつ別室に呼ばれる形式で、午前に使った教室はそのための待合室となる。実技の直後に面接に移行するようだった。番号順で呼ばれるため、後半の受験生ほど暇を弄ぶはめになる。小晴はちょうど中間あたり、律香はそれよりも十人ほど早く呼ばれた。呼ばれた受験生は試験内容漏洩防止のためか待合室に戻らず、そのまま帰宅となる。律香が呼ばれると、笑顔チェックを求められた後、「終わったら校門にいるね」と囁かれた。
小晴はさして緊張も怖気付いてもいなかったが、同じ受験生が待ち合わせてくれるというのは不思議な心強さがあった。こんな問題が出たね、あれは難しかったね、あの先生は怖かったね、などという共通の会話ができるのだ。小晴がずっとずっと夢見て、そして現実には成し得ないことだった。
難しくはなかった。
基本をおさえていれば大丈夫。
小難しい顔をして脅かしているだけよ。
応用を落としても、基本問題で補えば良いわ。
小晴が口にするのと、他の人間が口にするのとで、一体何が違うのだろう。好かれる生徒が言えば、賛同や羨望があり、小晴が言えば、嫉妬の的になった。その理由を、答えを、律香は教えてくれるだろうか。本当の友人ならば、間違っていることを指摘してくれるだろうか。
ーー小晴殿。緊張しておられますか?
顔が強張っていたのか、待機させていたゆきえが『伝信』で慮ってきた。
ゆきえの姿はまだ律香にも見せていない。恐らく召喚物を既に用意しているであろう受験生もいるはずだが、大抵は姿を隠していた。気配が漏れ出ているものもある。逆に、隠すことができないのか見せつけているのか、すぐ傍に幻想種のピクシーを侍らせている者もいた。
ーー緊張してないわ。あなたの姿をいつ見せたらいいか、考えていただけ。
ーー試験官殿から指示があるのでは?
ーーまあ、たぶんそうだけど。それより、午前中はどこ行ってたの?
小晴は話題を逸らした。律香がいないと、嫌な記憶ばかり連想してしまう自分に気づいたからだ。
ーー四方を探索しておりました。幾つか、我々が立ち入れない場所も確認して参りましたが。しかし広いですね、まるで城のようです。二の丸や三の丸など、呼び方はあるのでしょうか?
ーーそんな呼び方は無いわよ。確か教室棟とか実習棟とか、棟ごとに呼び方があったはずよ。校舎案内板に書いてあったわ。
なるほど、と感心する声が聞こえた。
ーー屋根の上を駆けてもみましたが、やはり石は足裏にきますね。こちらの道は石だらけですので、早く慣れねば。
石、とはトタンやコンクリート、アスファルトなど舗装された堅い路面を示すのだろう。ゆきえの生きていた時代は砂利道が一般的だったはずだ。ゆきえの履き物は、土の路面には適しているだろうが舗装道路には適していないようだ。スポーツシューズを履かせたらどんな反応をするのだろうと想像して、にわかに小晴の心は穏やかになった。
ーーゆきえ、試験の間、宜しくね。
そろそろ呼ばれる頃合いだと様子見して、カバンに荷物をしまいながら、小晴は声をかける。
ーー試験に限らず、いつでもお役に立ててみせます。
ゆきえがかしずいたのが、見えずとも分かった。
実技試験の部屋に案内された。道中、面接していると思しき先のグループの面々は見当たらず、静まり返った廊下を、案内係の教員を先頭に、小晴を含めた五名の受験生がただ緊張した足取りで歩いていった。案内係の教員が扉を開けて「どうぞ」と中に促す。小晴は念のため、「失礼します」と一礼してから入室する。後に続く四人もそれに倣って入室したが、声の掠れた者、いやに声を大きく張った者、言葉を噛んだ者と、小晴までもが恥ずかしくなるような挨拶が続いて、最後に入室した男子生徒の落ち着いた声だけが、先陣を切った小晴の羞恥を拭ってくれた。
試験会場は筆記試験の会場と同じくらいの広さだったが、不必要な机や椅子が片付けられているので、がらんとして見えた。室内のほぼ中央に五つの机が一定間隔を保って並べられ、椅子はない。控えている試験官は三名。電子黒板前の教卓に立つひとりが取り仕切り、他二名は補佐のようだった。二名とも電子タブレットにスタイラスペンを走らせて何やら書き記している。
教卓の試験官から「若い番号順に奥の机から並んで下さい」と指示があり、小晴は一番奥の机の前についた。机上には番号が振られた定型郵便サイズの茶封筒が三つと、鉛筆とメモ用紙の束がある。メモ用紙の束は、糊付けされていたものをわざわざ剥がしたような痕があった。教卓の上には水差しと十個の小さなボウル。実技試験に必要なものはこれだけのようだった。
「それでは、今から実技試験を開始します。机に置かれた封筒が三つ、鉛筆一本、メモ用紙が五枚あることを確認してください。封筒は指示があるまで開けないでください」
教卓の試験官が穏やかに伝え、目礼で行動して良い合図を示す。ガサガサと確認する音が部屋の壁に吸収されるようだった。
「では次に、試験時間中における注意事項です。試験問題は一問ずつ一斉に開始します。試験官の指示について質問がある場合は左手を、解答が完了できる場合は右手を挙げて下さい。試験官が順番に向かいます。解答は試験官の目視をもって行ないます。合否についてはお伝えできません。解答終了後は、試験官の指示に従って片付け、次の指示を待って下さい。ここまで質問のある人は? ……いませんね。それでは試験を開始します。まずは一番の封筒の中身を出して下さい」
全員が一斉に封筒に手を伸ばした。中に入っていたのはドーム型に捏ねられた小さな粘土とマッチ棒だけだ。小晴は中身を掌で受け止めたが、焦った誰かがマッチ棒をカランと落とす音が聞こえた。試験官が即座に拾う動きを見せた。
ーー奇怪な物が入っていますね。他の封筒も同様でしょうか?
傍でゆきえが呟く。彼女の言を受けて小晴も他の封筒の中身を気にしたが、透視の魔術を使う気にはなれない。小晴はゆきえの独り言として聞くに留めた。
「粘土にマッチ棒を立てて机に置いて下さい。準備が完了した方は右手を挙げて待機して下さい」
指示に従って粘土にマッチ棒を刺し、それがなるべく垂直になるように調整した後、右手を挙げた。傍にいた試験官がすぐに「はい、右手を下げて」と指示した。まるで器械体操のようだと小晴は頭の片隅で笑う。
全員が準備を終えたことが確認された後、教卓の試験官が、
「ではこれより第一問を開始します。マッチに火をつけて下さい。完了した方は右手を挙げて待機して下さい」
一瞬、室内の空気が無言のざわめきを呈したが、やがてそれぞれに問題を理解したようだった。小晴も問題を提示された瞬間は戸惑ったが、その意図を理解し、さてどうしたものかと思案する。
ーー火打石を御入用ですか?
ーーあなた、そんな物持ってるの?
ーー忍びゆえ、いついかなる時でも用意は周到です。
随分と便利な言葉だが、果たして戦国時代の着物に四次元ポケットでもついているのだろうかと小晴は呆れた。
試験官からは、召喚術の禁止は伝えられていない。よってゆきえの道具に頼ることや、マッチ箱をどこからか転送させて着火させることも許容範囲内だろう。しかしここは、と小晴の魔術師としての矜持が提案を却下させた。燃焼反応を魔術的に起こした方が、実技試験への解答としては適しているはずだ。
物を燃やすというのは、パイロキネシスという言葉があるように一種の特別な能力として括られており、魔術の世界でもそれは同様だった。その燃焼規模にもよるが、化学的な燃焼反応の理論に基づいた方法、物理学的なエネルギー理論に基づいた方法、ソクラテスや仏陀など哲学あるいは宗教論に基づいた方法と、様々ある。その中から小晴は、最も簡単で魔力消費の少ない方法ーー梵字による術式を選んだ。梵字は基本的に複雑な字形であるため小晴もあまり得意ではないが、地・水・火・風・空という基礎は覚えている。メモ用紙と鉛筆を手繰り寄せ、術式を書いた後、即座にそのメモ用紙をマッチ棒に近づけて術式を詠唱した。
符となったメモ用紙はマッチ棒との接触面から途端に燃え始め、燐の独特なにおいが立つ。
ーーおお、これは見事!
ゆきえも感心しているようだった。完全にマッチが単独で燃え始めたことを確認してから、小晴は右手を挙げる。試験官が来るまでの僅かな時間を他の受験生の観察に傾けたが、召喚したサラマンダーに火を貰い受けた者、小晴と同じく符術を使った者、マッチ箱やライターを取り寄せて着火した者、と様々いるようだった。
「はい、確認しました。マッチと粘土台を元の封筒に戻して下さい」
試験官はそう言いながらタブレットに手早く何かを書き込んだ後、ふいと手を払うような動作で火を消してみせた。小晴がなんとか視認できたのは、一瞬でマッチ棒の周囲から酸素を除いたことだけだ。見えない気体を、しかも特定の元素を狙って操作するのはかなりの熟練を必要とされる。それを瞬間的に、何気ない動作でやってのけたあたり、さすがは教員と言えた。
じきに全員が第一問を終え、第二問が開始された。二番の封筒の中身を開けずに、中に何が書かれているかを答えよというものだった。単純な透視だ。全員、封筒の中身は異なるらしく、それぞれが別々の解答をした。小晴の封筒の中にはウサギの絵が描かれていた。試験官は封筒を開けずに、解答だけを聞いてタブレットに書き込んだ後、「次の問題まで待機して下さい」と指示し去っていく。
第三問は準備にやや手間取った。まず試験官がガラスボウルを二つずつ配り、片方に一定量の水を入れる。その後、いつの間にか床の後方に引かれていた赤い線まで受験生全員を下がらせる。その位置から、ボウルの水をできる限り全て移し替えろとの指示だった。
小晴は問題の意図を考えた。単純に捉えれば物体の空間操作だ。液体の入ったガラスボウルは重量があり、少し気を抜けばボウルが傾くか、力加減を間違えてガラスごと砕いてしまう可能性もある。そしてもう一方のボウルに移すというのが厄介だった。まず前後左右の位置を正確に把握して真上に移動させ、徐々に傾けて水を注ぐ必要がある。ボウルに差し口は無く、縁を伝ってあらぬ方向へ流れ出てしまったり、勢い余って外に溢してしまう可能性がある。無論、ボウルを操作せずに中身の液体だけを移すことも可能だが、それはより難易度を上げるだけだ。できる限り全て移し替えるーーこの試験の肝は、そういうところにあるのだろう。
物体を空間操作することは不得手では無いが、この独特な緊張感の中でミスなく行なえるかと言えば、さしもの小晴にも抵抗があった。試験官は油断なく受験生全員を観察しており、その視線は、装っている可能性があるとは言え険しい。
水のびちゃびちゃと跳ねる音がして、そっと視線を向けると、男子学生が果敢にもガラスボウルを傾けて注ぎ移していた。しかし小晴の予想通り、ボウルの外にも飛び散って机を濡らしている。
「あっ」
今度はガチャンという派手な音がした。見ずとも分かるが、人の本能的な反応として顔を向けてしまう。隣の女子学生がガラスボウルを砕いて床を水浸しにしていた。暫く受験生全員が呆然としていたが、当の女子学生が怖々と左手を挙げる、
「もう一度……やってもいいですか」
悲痛なほど声が震えていたが、近づいた試験官は無情にも首を横に振った。片手を水浸しの床に向かってかざし、天井の蛍光灯がきらきら反射して、ガラスの破片と水が宙に浮かぶ。そのまま、空っぽのガラスボウルに収められた。
解答の猶予を残された三人が奇妙な緊張感に包まれたのが、小晴は当事者として身にしみた。失敗の好例を先んじて示され、無言のプレッシャーがのしかかる。同じ轍を歩んで成功するか、それとも異なる方法を取るか、選択するのは今だった。
「……ゆきえ」
小晴は『呼出』を行なってゆきえの姿を露わにさせる。今から召喚術を利用するという無言の宣言であった。試験官たちは何も言わない。反則では無いはずーー小晴は祈るように胸中で繰り返し、
ーーゆきえ。あの水を零さずに移し替えて。
ーー……私で宜しいのですか?
戸惑う表情が小晴に向けられた。小晴はそれに対して無言の頷きで返した。
ゆきえは堂々とした足取りで机に向かった後、小晴に見えるよう、机の向こう側に立つ。両手でガラスボウルを捧げ持ち、ゆっくりと空のボウルに傾けた。水は一滴も無駄にされることなく新しい器に居を住み替えていく。全てが何の滞りもなく行なわれた。殆ど移し終わり、水滴だけが残った時、
ーーゆきえ、止まって。残りは私が。
ゆきえは言葉の通りに、ボウルを傾けたまま動きを止めた。
小晴は片手を掲げてボウルに一点集中する。イメージしたのはパティシエがお菓子作りに使っていたスケッパーという器具だ。直線と曲線を両縁に備えたヘラのような器具。それで湯煎したチョコレートを銀ボウルから鮮やかにホイップ袋へ移し入れてみせた光景を、小晴は胸中に思い描いた。私の指先は曲線ーー道具のようにガラスボウルの内面を撫でるーー冷たいーー濡れているーーゆっくりと縁へ導いていく。
完全にとは言えないが、小晴自身が納得できるレベルには水滴を拭い移すことができた。ひと段落つき、右手を挙げて試験官に知らせると、水浸しの床を始末した試験官が確認に来た。ゆきえが一歩下がって場所を譲り、試験官の「確認しました」の声で小晴を見やる。
ーーありがとう。戻っていいわ。
ーーお役に立てて何よりです。
ゆきえは笑って姿を隠す。
他の受験生もなんとか成し遂げたようで、その成果は如何にせよ、全員が第三問を終了した。ガラスボウルは水と一緒に元の場所に片付けられ、もう一度机に戻るよう指示される。
「では、次が最後の実技試験です。三番の封筒の中身を出して下さい」
もう最後か、と小晴は腕時計を見やって、ほんの十五分程度しか経過していないことに驚いた。かなりの集中と緊張を要されたせいで、てっきり一時間くらいかかったような心地だ。しかし残すところ一問となり、あとは面接だけだと安堵感が去来して、三番目の封筒に手を入れる。中には三つ折りの紙が入っており、広げると十字形に術式が記されていた。
「最後の問題は符術の発動です。配られた術式を起動させて下さい。質問がある方は左手を、解答する方は右手を挙げて下さい。それでは始めて下さい」
三つ折りの折り目を伸ばしながら、小晴は何の術だろうかと解読にかかった。十字形、円形、点対称など、シンメトリーをもった術式は美しく、洗練された術であることの象徴だ。この術式を記した人物は、少なくとも符術においてかなりの腕前に違いなかった。使われている言語はルーン文字とラテン語。術式の開始地点は十字の交差する場所にあり、そこから上下左右に展開しているようだった。式の内容は簡潔、明快であるが、一方で量が多い。書き込まれている量から察するに詠唱は長くなるだろうし、術そのものも複雑な作用があるのだろう。
だがーーここまで解読を進めて、小晴はつい眉をひそめる。こんなにも洗練され、かつ高度な魔術が、『入学試験』として提示するにはいささか不釣り合いな気がした。今までの筆記試験や、先ほどまでの実技試験の内容を鑑みても、レベルが段違いに高い。この問題に解答できるレベルの学生を振り分けるためかーー或いは、振り分けた上で……。
嫌な想像が頭を巡ると同時に、小晴は反射的に左手を挙げていた。どら声の男子生徒と、入室時に殿を勤めた五番目の男子生徒も同時に挙げたーーどら声の男子生徒は右手を、五番目の男子生徒は左手を。小春の視線は、思わず五番目の男子生徒の視線がぶつかった。その表情を見て、互いに考えていることは同じだと、何故だか悟った。
「まず解答を先に確認します」
教卓の試験官がにこやかに指示した。そんな、と小晴は冷や汗を垂らす。それと同時にいつでもゆきえを呼び出せる準備を取った。
どら声の男子生徒のもとに試験官のひとりが歩み寄る。「解答を」と促され、男子生徒の拙くも正確な詠唱が開始された。
魔力の流れが始まってしまったーーそれ以上に空気がひりつくーー小晴はたまらず「ゆきえ!」と名を呼び、彼女が姿を現したのと、視界が光に覆われたのは時を同じくしてだった。
爆発ーー膨大なエネルギーの爆発ーーその始まりを告げる光エネルギーの走りーーそれを追いかける音エネルギーーー。
小晴は気がつくとゆきえの腕の中にいた。眼前には隣の席の女子生徒の姿もあった。ゆきえは呼ばれたと同時に危険を察知して、ふたりの少女を抱き抱え、どら声の男子生徒とは正反対の窓側に飛び退いていたのだ。小晴はゆきえに抱えられながら、彼女の肩越しに爆発の起こりを見やった。
どら声の男子生徒は腰を抜かして床に転がっており、試験官が掲げた手には光球が宿っていた。爆発の起こりと同時にエネルギーを一点に収束させて球体に固めたのだと分かった。反対側の壁際で五番目の男子生徒が四番目の男子生徒を抱えながらへたり込んでいた。
「はい、お見事です」
教卓から、この惨状に似つかわしくない明朗な声が届く。解答を先んじさせた試験官だった。詠唱への賛辞か、咄嗟の危険を察知した受験生への賛辞か、はたまた爆発を瞬間的に留めた身内への賛辞か、その意図は計りかねたが、この結果を予想しての一言であることは容易に窺い知れた。
光に変えられた爆発のエネルギー球は、試験官の手の中で見る見る萎んでいき、ぽんっという気の抜けた音を断末魔に消える。その一部始終を、受験生全員が息を呑んで見守っていた。
ーー差し出がましいことを、したでしょうか。
小晴ともうひとりの女子生徒を立ち上がらせながら、ゆきえが問うてきた。小晴はゆきえを呼んだだけで何をすべきかは伝えていないし、そんな暇もなかったが、結果として彼女の取った行動は小晴の希望と一致していた。ゆきえも、魔術について門外漢とは言え、爆発の危険は即座に察知できたようだった。
ーーいいえ、充分よ。助けてくれてありがとう。
ーーであれば、良かったです。
ゆきえは微笑んで、再び姿を隠す。一緒に助け出された女子生徒が「あっ」と慌てて振り返り、
「ありがとう」
怖々とその言葉だけを絞り出した。ガラスボウルを砕いた一件もあり、すっかり精神が参ってしまっているのだろう。小晴はゆきえと同様に微笑みで彼女の言葉を受け入れた。
「さて、質問者がいましたね」
教卓からの声にはっとして、急いで自分の机の前に戻り左手を挙げる。五番目の男子生徒も同様だった。受験生徒全員がばらばらと机に戻ってきたところで、試験官ふたりがそれぞれ、小晴と男子生徒のもとにやって来た。
「質問をどうぞ」
今更だ、と小晴は内心で歯噛みしながらも、爆発前に浮かべていた言葉を繋ぎ合わせ、合理的な文章に組み立て直した。
「この符術はあまりに複雑で高度です。恐らく詠唱とともに起爆すると思います。室内で実行するには危険すぎます」
男子生徒も概ね同じことを質問調に述べたように思う。符術を解読し、その危険性を知らせることが、この試験に隠されたもうひとつの解答であることを見抜いたのは、小晴と彼ということだ。
試験官はゆっくり頷き、「分かりました」とだけ答えて教卓前に戻っていく。小晴と男子生徒が言ったようなことを教卓の試験官に繰り返して伝えると、
「はい。質問を受け付けました。それではこれにて、実技試験を中止します。次の面接会場へ移動して下さい」
いささか拍子抜けし、男子生徒と再び視線を合わせるはめになったが、小晴は後悔していなかった。この会場が入室時からやけに静かなのも、待合室で一切爆音が聞こえなかったのも、この部屋に防音を施してあるからだ。試験官側は万一爆発が起きても対応できるようにしており、危険性を指摘する生徒がいれば『中止』と称して次の面接に移れば良い。ふたりの試験官が急いでタブレットに何かを書き込んでいるが、恐らく危険性を指摘した小晴と男子生徒について記述しているのだろう。
教室後方の扉が開いて案内係が顔を出した。「こちらに、番号が若い順から並んでください。次の面接試験の会場に移ります」と声がかかる。
小晴を先頭に、再び廊下を移動する。不気味なほど静まり返っている。防音対策の施術は試験期間中だけなのか、それとも常日頃からなのかは、小晴にも分からなかった。
面接会場は筆記試験や実技試験と同じような造りの教室だった。ただし実技試験との時間調整のためか、上階まで歩かされる。筆記試験の会場から、階をまたいでぐるりと一周して正面玄関に戻される仕組みのようだ。
廊下には四脚の椅子と一台の長机が並べられ、小晴以外が椅子に座らせられた。荷物は全員が長机に置いた。小晴がこのグループでの面接のトップバッターのようだ。集団面接かと思ってもいたが、それでは実技に失敗した生徒が居た堪れないか、と小晴は想像して己を納得させた。
「では、どうぞ」
面接会場への扉に促され、小晴はその押し戸の前に立つ。細いガラスが覗き窓としてはめ込まれていたが、中の様子を探るには視界が狭すぎた。偵察は諦めてノックすると、「どうぞ」と室内から返事が返ってくる。小晴は戸を押し開けて中に体を差し込むと、「失礼します」と一礼しながら、その挨拶すべき対象を探した。
室内は実技試験よりもさらにがらんとしていて、中央に椅子がひとつあり、覗き窓から見えない奥の方に長机を挟んで女性が待機していた。豊かな黒髪を緩く束ねてブルージャケットの前身頃に預けている。細いフレームの眼鏡が理知的な印象を与えた。長机の前板が上手く女性の足元を隠しているが、パンツスーツに高いヒールを履いているのでは無いかと、己でもかなりどうでも良い予測を立てた。
「さあ、どうぞ、椅子にかけて」
ぽつんと置かれた椅子に案内され、小晴は静々とそこまで向かう。もう一度「失礼します」と断ってから椅子に腰掛けた。
「受験番号十六番、六条小晴です」
「六条さんね。私は当学園の理事長、五月川京子です。宜しく」
「宜しくお願い致します」
ああ、この人がトップかーー公式サイトの紹介写真をなんとなく思い出して、小晴はその印象を合致させる。公式サイトの写真では髪をアップに束ねて、縁の太い眼鏡をかけ、ダークスーツの上にいかにも魔術師らしいコートを重ねていた。現在の格好と比べると、保守派と改革派くらいの印象の差があった。
「まずは筆記試験、実技試験、ともにご苦労様でした。手応えはどうでした?」
「そうですね、自分なりによく出来た方だと思います」
口が裂けても「簡単すぎました」とは言えない。恐らく結果の速報は、理事長が今手にしている二つ折りの書類バインダーの中に納められているのだろう。
「失礼ですが、六条さん、あなたってもしかして、六条エレクトロニクスのお嬢さんかしら?」
「えっ……はあ、はい、そうですけど」
「ごめんなさいね。昔、祝賀会や企業パーティーなんかでお見かけしたかと思って。間違いじゃなくて良かったわ」
確かに小晴もそのようなパーティーに連れて行かれることはよくあったが、直接話した記憶はなかった。失礼の無いように顔くらいは覚えているはずだが……小晴は口に手を当てて戸惑った素振りを示す。
「こちらこそ申し訳ありません、実は人を覚えるのが苦手で。まさか以前ご一緒したことがあったなんて」
「あら、私の方こそ急に関係ない話を振ってしまったわ。こういう仕事ーーつまり学園理事なんだけどーーやっているものだから、社交界ではなるべく浅く広くのお付き合いをしているの。特にあなたくらいのお子さんがいらっしゃる方にはね。不平等があってはいけないから。だから六条さんと直接お話したことはまだないのよ。ーー小論文に、科学技術と魔術に関することを書いてくれたわね。軽く読ませてもらったけど、さすが六条エレクトロニクスのお嬢さんだと思ったわ。我が校の良い就職先になってくれたら幸いよ」
「あ、はは……父も魔術師なので、入学先を決める際は考えるまでもなくこちらでした。父からはよく、魔術の進歩について聞かされておりましたので」
小晴はとりあえず当たり障りのない返答を選んだ。自分の家柄を誇張するつもりはさらさら無いが、実績を淡々と挙げるだけでも相手によっては嫌味に捉えられてしまう。
「それから、実技試験。実はこのタブレットでリアルタイムに見れるんだけれどーー」
そう言いながら、書類バインダーを掲げてみせる。どうやらタブレット二枚をバインダー状にくっつけているらしい。
「第四問目の符術の問題、『いい質問』をしてくれたわね」
五月川理事長は口元に白い歯を覗かせる。思惑通りと言わんばかりの表情だった。
小晴は謙遜を意識しながら小さく頷いて、
「符術は得意なのですが、読み解いた後に、これはちょっと危ないかな、と思ったんです。それで、本当に発動させて良いのか確認するつもりで、左手を挙げました」
「あなたの従者もファインプレーよ。あの一瞬で主人ともうひとりを守ってみせたわね。良ければ、私によくその姿を見せてもらえないかしら?」
一瞬、直接姿を見せることにどきりとした。相手は魔術学園の理事長、事実上のトップだ。そんな人材は、ゆきえがただの召喚物であるか、それとも死霊のたぐいであるか、見分けられるのだろうか? ーーいっそ、今ここでそれを断じてもらったら、良いのだろうか?
小晴は意を決して、ゆきえの名を呼び姿を見せるよう促した。途端に、小晴の左後方から片膝をついて姿を現す。首を垂れているのは、理事長が社会的に身分の高い者だと思ってのことだろう。
「あら、礼儀正しいのね。顔を見せてもらえる?」
促されて、顔を上げる。その面持ちは穏やかさを保ちつつも眼だけは鋭く理事長に向けられている。実技試験の一件で警戒心を持ったのだろうか。
「素敵な顔立ちね。きりっとしていて。忍者かしら?」
「はっ。羽黒衆の蓬靱負と申します」
「女の子? ボーイッシュね。とても素敵だわ。主従関係は長いの?」
今度は小晴に話題が振られた。小晴は小首を傾げ、
「受験のために召喚したので……大体、一ヶ月くらいです」
サバを読むつもりは毛頭無かった。嘘はすぐにバレる。確かにこんな従者が幼い頃からいれば、それはそれでロマンチックだったかもしれないが、別の息苦しさもあっただろう。
そうなの、と五月川理事長は少し残念そうに笑ったが、失望したというわけではなさそうだった。
「あなたたち、何だかとても良い関係を築けているみたいね。良い従者は良い召喚術師につくのが道理よ。六条さん、あなたの能力をこれからも大事になさって」
「……はい、ありがとうございます」
何だか不合格をその場で宣言されたような、いわゆる『お祈りメール』のような言葉だったが、あえてプラスに捉えることにした。『死霊術』と断ぜられたわけでもない。しかと『召喚術』と言った。つまり彼女は、この召喚術の能力を当学園でも発揮してね、という意味で言ったに違いない。そんなふうに小晴は自身を勇気づけた。
「……さて、そろそろ面接の最後ですが。なんだか私ばかり話してしまってごめんなさいね。最後なんだけれど、質問はあるかしら?」
確かに、ほとんど五月川理事長のペースで会話が進められていた。これではもっと小晴のことを知りたいというより、充分に合格に値するから世間話でもして時間を潰しましょう、と言わんばかりだ。小春は用意していた質問のほとんどを既に理解してしまった事項として消去しながら、片隅では奇妙な安堵感を抱く。考えてきた質問の中で、この会話の流れに一番適切で、かつ当たり障りのないものを選んだ。
「仮に私が合格したとして、召喚の従者であるゆきえを、どれくらい自由に散策させて良いですか?」
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