7人が本棚に入れています
本棚に追加
6
「皆さんの双肩には今、世界中からの大きな期待と憧れが乗せられており、そして皆さん自身には、それに応える力があると我々は考えていますーー」
フレイザー魔術学園ロンドン本部理事長からの映像に翻訳の魔術がかけられ、入学生徒全員にこの学園が島国の小さな支部に過ぎないのだと思い知らされている中、小晴はスカートの裾を直しながら、目線だけ動かして女子生徒のソックスをチェックしていた。小晴は黒のニーソックスを履いてきたが、人によってその長さはまちまちで、タイツの生徒もいれば、ふくらはぎ半分くらいの普通のソックスの生徒もいる。大して違和感は無いだろうと思い、今度は嘉納手律香の姿を探す。
登校した折、正面玄関にクラス分けのボードが置かれており、小晴は自分の名前を確認した後にすぐ律香の名前も探した。自分のクラスでは無いーーでは隣かーーと3周くらい眺め回したが、結局彼女の名前は見つからなかった。メッセにも連絡はない。とりあえず小晴は、自分の足元を写真に撮り、『久しぶり。魔術学園入学式です。嘉納手さんは元気?』とメッセージを添えて送った。入学式が始まる直前まで返信を待っていたが、未だ音沙汰は無い。もしかしたらこの二ヶ月間にスマホを壊したのかもしれないし、何かの弾みでデータが飛んでいるのかもしれないと自分を励まして、折を見てまた連絡しよう、と諦めた。
ひょっとしたら、もう忘れ去られたのかもしれないし。
「孤独を感じる日は、友人と話し、心の支えとして下さい」
嫌味な言葉が壇上から振ってきて、見上げるとひとりの男子生徒が演説していた。そういえば、本部理事長の挨拶が終わって自治会長の番に移ったのだったっけ。爽やかな顔つきの男子生徒は、原稿も見ずに慣れた様子で弁舌を奮っていた。
「我々自治会は、皆さんを従える支配的存在ではなく、共にルールを作り、共に失敗から学び、新しい時代にふさわしい新しい良心を育んでいくためにあります。世間は未だ魔術を恐れており、それは時として皆さん個人に向かうこともあります。そのような時、決してひとりで抱え込まず、誰かに相談して下さい。我々自治会も、いつでも協力します」
自治会長ーー確かときさわ銀行頭取の息子だったか。朱鷺沢一族は政界にも親しい家柄であり、学生時代から生徒会長や自治会長といったトップに立ってその下地を築いているという。彼も、自ら望んで自治会長になったのだろうか。それとも、家に推されてーー。
他家の事情を慮るなど馬鹿馬鹿しいと思い、小晴は話の続きを半分に聞くことにした。
ゆきえは、例によって『姿隠し』をしてあちこち探索している。探検が好きなのかと思ったが、そうではなく、何かあった時のために地理を頭に入れておくのだという。何かとは何なのか、そこまで追及する気にはなれなかった。恐らく職業病のようなものだろう。
やがて自治会長の話も終わり、式は閉会に近づいていた。思ったよりコンパクトな内容に収まっていた。来賓列席者も慣れた様子で、そろそろ退場の頃合いかとそわそわし始めている。中には魔術と科学の橋渡しを進めている部署の政府関係者や、多額の寄付をしているというインフラ企業会長の代理人も列席しており、テロでも起これば事だなと考え、ゆきえの探索癖にも納得がいった。小晴や自治会長といった名家の子息もいる以上、狙う価値が無いわけでは無い。まあ通常の武装で押し込み強盗をしても、教員たちの魔術で一掃されるのがオチだろうが。
そんな下らないことを考えている間に閉会と来賓の退場があり、小晴は周囲に合わせて無感動に手を叩いた。生徒と教員だけになった会場で、進行を務めていた教員が再びマイクを取る。
「新入生の皆さんはそれぞれ教室に戻って下さい。十一時半から各教室でオリエンテーションを実施します。それでは解散です」
ばらばらとホール出口に人の波ができて、小晴もそれに乗る。構内は全て上履きで歩けるため、高等科一年の教室は中庭を斜めに横切っていくのが近道だった。他の生徒もそれに気づいているらしく、人波は自然と中庭への扉に流れていく。廊下という狭まった空間から一気に開けた場所に出て、足取りも間隔もまばらになった中を、小晴はひとりで歩いて行った。
ーー式典が終わったのですね。
ーーあら、お帰りなさい。あなた、今、屋上から降りてきたわね?
忍者には道無き道があるらしく、ゆきえは屋敷でも学園でも縦横無尽に駆けている。さすがに人目がある場合は遠慮しているが、逆に言えば、見られなければ良いという考えのようだった。
中庭の並木道に沿って、ゆきえと並んで歩いていく。春の風がぴゅうと吹き抜けていく。
ーー江戸の桜は、散るのが早いですね。まだ皐月では無いというのに。
ーーあなたの地元は、その頃に咲くの?
ーーええ。雪国ですから、春が遅いのです。
ーー卒業の桜もいいけど、入学の桜もいいわね。
そんな言葉を交わしながら歩いていると、まばらな人波が何かを避けるように蛇行して、余計にばらばらになる流れができていた。その流れに何となく乗りながら、脇を横切っていくと、一本の木の前で悄然と空を見上げている男子生徒の姿があった。
ーーどうしたのでしょうか。
ゆきえの立ち止まる気配があり、思わず小晴もつられる。
新入生たちは何事かと囁きながらも、面倒ごとを嫌ってか、真面目に集合時間を気にしてか、足を止める様子はない。男子生徒と、小晴と、ゆきえ。三人だけが流れに取り残された。
「ねえ、何してるの」
小晴は立ち止まったついでと、思い切って声をかけてみた。小柄だし制服もぱりっと糊がきいているので、恐らく同じ新入生だろう。
男子生徒は飛び上がって怖々と小晴を振り返った。
「あ、あの、いや……その」
「はっきり言いなさいよ。空に何か浮かんでるの?」
「……木に、大事な物が引っかかっちゃって」
「はあ?」
小晴は言われた通り木を見上げた。確かに、陽光に反射してきらりと何かが輝くが、梢に邪魔されてよく見えない。
「取ればいいじゃない」
「く、空間操作の術、苦手なんだ……」
「では私が木登りをしましょう」
ゆきえがいつの間にか姿を晒して、ひょいと木に飛び上がった。軽く身の丈三倍はある高さの枝にぶら下がり、遠心力で枝に足を乗せる。小晴も男子生徒も、様子を窺っていた周囲の生徒たちも驚いたーー多くの場合は、突然のゆきえの出現に、であろうが。
「これですか?」
ゆきえが木の枝の上から腕を差し出し、銀のアクセサリーを見せる。何かの紋様をあしらったタリスマンだった。
「あ、それ、それです!」
男子生徒が夢中になって叫んだ。ゆきえが飛び降りてきて、彼に手渡すと、彼は心底ほっとしたように吐息を漏らす。
「ありがとうございます……本当に、これ、大事なお守りで……」
「綺麗な首飾りですね。しかし、何故あのような所に?」
「カラスにでも持ってかれた?」
小晴は頼りのない男子生徒に半ば呆れつつ訊ねた。空間操作、風、枝の切断と再生など、方法は幾らでもあるのに、そのどれも実行せずに呆然と見上げていただけの彼が、同じ魔術学園の生徒とはとても思えなかった。
「……ええと、はは、いたずらで引っ掛けられちゃって」
「それってつまり、いじめってこと?」
「……う、うーん、そうなるかな」
尚も小晴は呆れた。入学式早々、大事なお守りをいたずらで取り上げられるとは、お守りの意味を成していないではないか。
「誰にやられたのよ?」
まさか同じ新入生ではあるまいかと思い、訊ねてみると、彼は弱々しく首を横に振った。
「上級生だよ。僕、中等科から此処にいるから、ずっと目をつけられてるんだ」
在籍期間が長いのは意外だった。学園生活上先輩であることにではなく、そんなに長くいるのにまともな空間操作の術もできないことに、である。小晴は溜め息をついた。
「身を守る術くらい、身につけておきなさいよね。あなた、一年生? クラスは何組?」
「一年、A組だよ」
「……一緒のクラスじゃない」
入学式前の教室集合で大体の顔ぶれは見ていたが、彼には全く記憶が無かった。現に顔を突き合わせて話している現在でも、風にさらわれて消え入りそうな雰囲気だ。決して目立たない方の人間なのだろう。
「いいわ、一緒に教室に行きましょう。集合時間に遅れたくないもの」
「あ、ありがとう」
彼は大事そうにお守りを首にかけると、ワイシャツの下にしまいながら、ぴょこぴょこついてきた。
隣に律香がいないことが悔やまれた。彼女ならきっとこの男子生徒を笑わせるような冗談のひとつくらい言えただろうし、会話の潤滑剤のように話題を振れただろう。律香は何処に居るのだろう。何処で、何をしているのかな。
ゆきえはいつの間にか再び『姿隠し』をしており、実質、小晴はこの男子生徒と連れ立って歩くはめになった。
ーー私の姿はやはり、人目を引きますようで。
ーーそりゃあ、いきなり出てきて木に飛び乗ればね。
和服に帯刀というのも目を引く要素だ。時々、彼女が本当に忍びなのか分からなくなるくらい注目されることがあるが、それも現代社会ゆえだろう。
「さっきの人、何処かに行っちゃった?」
男子生徒がきょろきょろ辺りを見回しながら訊ねてくるので、
「姿を見せてないだけよ。すぐ傍にいるわ」
「そうなんだ。あの人、君の友だち?」
「召喚した従者よ。……あなたはクラスに友だちいるの?」
「え? 今のクラス?」
少年と呼ぶにふさわしい小柄で頼りなさげな彼は、ぱちくりと目を瞬いた。それから困ったように頭を掻いて、声を潜める。
「いないんだ。友だち。学園に入ってからずーっとね。僕、こんなだから」
まあ、分からなくもない。失礼ながら小晴は納得する。
これまでの人生経験で、友だちができない人間の特徴というのをその身をもって痛感してきた小晴にとって、彼もまた同様の存在であることはひしひしと伝わってきていた。小晴のように自信がありすぎるか、彼のように無さすぎるか、である。過ぎたるは及ばざるが如し、中庸の徳とはまさにふたりのことであった。小晴にとっては、分相応の自信を持って何が悪いのかさっぱり理解できずにいるが、自信がなさすぎる人間の妙にへりくだった態度には、周囲と同様の苛立ちを持っていた。
ーー小晴殿、ちょうど良いではありませんか。お友だちになれますよ。
ーー嫌よ、こんなへっぴり腰。私にも選ぶ権利があるわ。誰彼構わずってわけじゃないの。
ーーそうですか。私は、優しそうで良い殿方だと思いますが。
戦国育ちのゆきえがそんなことを言うのは、ちょっと意外だった。もっと武骨で雄々しいタイプを推してくるかと思ったが、こんな優男の典型を勧めてくるとは。
少年とはほとんど会話を交わさずに、ただただ教室を目指してひたすらに歩いた。少年が黙って小晴の後をついてくるようで、妙な哀れみさえあった。周囲を歩く生徒たちも、まるで無いものを扱うかのように、自分たちの話題に興じていた。
そうやって教室に入り、最初の集合時と同じ席に戻ると、意外にも少年がすぐ近くの席に座っていたことに気がついた。小晴よりも左三つの位置である。席順は名前順でも受験番号順でも無いのでーーそんな話をクラスメイトがしていたーーそのうち背丈を考慮した席替えがあるかもしれないが、ほとんど中央に位置するこの席では、そんな配慮もなされないような気がした。
じきに担任が入ってきて、室内のざわめきが収まる。担任は薬草学専門の匣田(はこた)という若い女性教師だった。彼女は電子黒板にスタイラスペンで大きく自身の名を書き、
「じゃあ改めまして、一年A組担任の匣田紗英です。皆さんの担任と、それから薬草学の授業で担当になるから、宜しくね。趣味はトレッキング、薬草採取と薬草栽培。得意な魔術はもちろん薬草を使った治療術。こんな感じで自己紹介しましょう。それじゃあ、そっちの前の席、えーと古宮さんから」
一番に当てられた女子生徒は「えっ、どうしよう」と戸惑いながらも立ち上がり、無難な挨拶をしてみせた。既に近隣の女子生徒と交流を図っていたらしく、「やばい、びびったあ」と大義を果たして緊張を分かち合おうとしている。
ひとりが挨拶するたびに拍手が起こる。匣田がその間にわざわざ生徒の名前を電子黒板に書き出していく。
誰もが穏当な自己紹介を行なった。趣味、特技、好きな教科、中学の部活。少し気をてらおうとすると、好きなアイドルや漫画、出身地の紹介などで小さな笑いが起きる。匣田もそういう空気を許すように一緒に笑ったり、「有名よね」と合いの手を入れたりした。
例の男子生徒の番が来る。彼はかたかた震える手で椅子から立ち上がり、机に椅子を収めようとして派手にぶつけた。
「あっ、あ、アサトユウです。中等科から、います。ええと……道に迷ったら、聞いてください」
何とも珍妙な自己紹介だった。頼りないあなたに誰が聞くかしら、と小晴が思うと同時に、お情けのような笑い声が起こった。黒板に朝戸夕と書かれた。字面は綺麗じゃない、と名前だけは評価する。
やがて小晴の番が回ってきた。得意な魔術を言って済まそうと思っていた。匣田に「次」と促され、スマートに椅子から立ち上がる。
あれ、六エレのーーえっ、あの六エレのーー。
そんな囁きが耳に届いた瞬間、小晴の胸が陰った。ええと、何を言うんだっけ。名前。名前と、それから。思考が「六エレの」という短いワードのさざなみに乱されていく。
「……六条小晴です。宜しくお願いします」
私のこと、紹介しなくたって、知ってるじゃない。
ささくれだった心が現れて、小晴は思わずつっけんどんな挨拶で済ませた。一瞬だけ場が静まり、ぱらぱらと拍手が起きる。後ろの生徒がやりにくそうにおずおずと立ち上がっていた。
クラスメイト全員の自己紹介が終わり、匣田は学校生活の説明を始めた。とは言っても、入学案内のパンフレットに書いてあることを、実物をもって再度説明するだけだ。まず教科書代わりの電子タブレットとスタイラスペンが全員に配られた。中には一年間で使用する教科書の電子データが全て入っており、学年が上がる際にアップデートして新規の教科書を入れていくのだと言う。またノートの代わりにもなり、提出する際は教科ごとの専用のアドレスに送信するらしい。詳しい使い方は同梱されているヘルプアプリを読むよう伝えられた。
「これは高価な物だから大事に扱ってね。故障や紛失の補償は、割引されるとは言え結構な値段になるわよ。スタイラスペンは消耗品だから、購買でも扱ってるわ。ペン先だけ交換するのよ。購買が何処にあるかも、学校内の地図がアプリとして入っているから、各自色々といじってみるように。機械音痴の人は得意そうな人と一緒に操作してね」
一瞬だけ笑いが起こった。トラブルシューティングもあるようだが、苦手な人間はそれすら見つけることが困難だろう。ペーパーレスの弊害も色々あるものだな、と小晴は適当に操作しながら思う。家に帰ったらこのタブレット用のキーボード付きケースでも買おう、とも。
「じゃあ次。構内における魔術行使についての注意事項だから、よーく聞いてね」
匣田は若さ特有のはきはきとした語り口調でクラスメイトの意識を引いた。電子黒板を鮮やかに操作して注意事項のページをめくっていく手付きは、慣れた様子だ。教員になってどれくらいなのだろうと疑問が浮かんだ。
「この学校には私のような魔術師である先生と、魔術とは無縁で一般教科だけを教える先生がいます。こうした先生たちの身を守るために、校内中に魔力抑制の施術と警報装置が備えられています。それから、先生個人にもタリスマン、つまりお守りが配布されています。数学が難しいからって先生に悪戯してやろうとか、そんなことはしないように。そういう生徒には厳しい罰則が待ってるわよ」
過去にそんな生徒がいたのだろうか。人間というのはいつでも下らない悪意を持っているものだ。
そういえば朝戸のタリスマンを木の枝に引っ掛けたとき、いじめている連中は魔術を使ったのだろうか。それとも、投げて見事に引っ掛けたのだろうか。前者であれば、簡単な魔術であれば使えるということだ。現に、小晴もゆきえを従えることができていた。どこまで魔術が許されるのか、試してみたい気分もにわかに沸き起こったが、そのうち誰かが馬鹿をやるだろうと思い、小晴は好奇心を胸の内に収めておく。
匣田からはその他、学園生活における注意事項をいくつか伝えられた。飲食禁止の場所、学生寮への無闇な立ち入り、部外者の扱い等々……。やがて昼休憩のチャイムが鳴り、各自解散となる。午後から早速始まる授業もオリエンテーションのレベルらしい。今日の予定はほとんど気楽なものだった。
小晴は、母が厨房の料理人に手解きを受けながら作ったという弁当を持って、中庭で昼食を取ることにした。適当なベンチを見つけて居座る。弁当を食べながら電子タブレットをいじるつもりでいた。
ーーこれはまた、奇怪な巻物ですね。これが手習書ですか。
ゆきえが唐突に声をかけてきたので、小晴は危うく卵焼きを喉に詰まらせて死ぬところだった。死因が卵焼きでは些か雅に欠ける。
「姿を見せてもいいのよ。どうせ他の召喚術師も隠してないのだし」
言いながら指を鳴らすと、タブレットを横から覗き込むゆきえの姿があらわになった。買ってやった洋服ではなく、いつもの忍び装束だ。
「これは失礼しました。しかし、こんな薄い板に本当に一年分(ひととせぶん)かけて学ぶに足ることが収められているのですか?」
「それは当然よ。今じゃこういう端末を使う学校も少なくないんだから。それよりも、ゆきえ」
「はい」
「懐が膨らんでるけど、何入れてるの?」
ゆきえがかつて符の束を入れていた前身頃の重なり部分が、握り拳二つ分くらいの大きさに膨らんでいる。まさか獣を入れてきたのではないかと勘繰ったが、
「ああ、これは屋敷を発つ折、厨の方に『昼にどうぞ』と頂いてきたのです」
ゆきえは嬉しそうな顔で、懐中からハンカチの包みを取り出した。小晴の隣に座り、両膝を揃えた上に包みを置いて、大事そうに開いてみせる。
「あっ。これは、これは」
現れたのは二つのおにぎりだった。中身を聞いていなかったらしく、小晴よりもゆきえ当人が驚いている。ゆきえは二つのうちひとつを宝物のように掌に乗せると、胸の高さまで持ち上げ、珍しそうに右に左にと眺め回した。
「いやあね、おにぎりくらいで」
「この握り飯は白米ですか? それに海苔まで巻かれて……こんな大層な握り飯を、ゆきえは初めて頂きました」
白米が高級品だったことは小晴も何となく知っている。粟や稗の混ざった雑穀米を食べていた下層民より、白米ばかり食べていた上層民の方がビタミンBが不足しやすく、くる病という病気が蔓延していたとか何とか。しかし、海苔の歴史は知らない。
「海苔って高級品だったの?」
「それはもう、私の生きておりました時代ではお武家様や幕府への献上品とされるくらいに」
「献上品……まあ、今もお歳暮とかであったかしら」
ゆきえと一緒にいると、中世日本のうんちくが色々増えていくが、ゆきえがどんな物を食べていたか、洗濯はどうやっていたか、毎日何をしていたか等、ゆきえ自身の生活についてはついぞ知識が増えなかった。本当に知りたいことは、そちらなのに。しかし彼女の過去に触れるということは、彼女の戦と殺人の遍歴に触れることと同義だ。容易く聞けない理由が、そこにあった。
ゆきえは「頂きます」と丁寧に手を合わせてから、美味しそうにおにぎりを頬張り始めた。
「む、塩気がしっかり効いて……この海苔は食べたことのない食感です」
「焼きのりっていうのよ。パリパリしてるでしょ」
「米も甘いです! これは、本当に美味しいですね」
「おにぎりでそこまで喜んでるの、世界中であなたくらいよ」
まあ、運動会のお弁当とか、ハイキングの昼食に入っているおにぎりも美味しいが、ああいうものは思い出補正や肉体疲労による補正が入っている。ただ何の変哲もない日常の中で感涙するほどおにぎりを称賛する姿は、あまり他人には見せたくなかった。それとは別に、こんなゆきえの反応を知ったら、おにぎりを差し入れた厨房の者はさぞ喜ぶだろうが。小晴はスマホを取り出してさっとゆきえを撮影してみせた。突然のシャッター音に、今度はゆきえがむせる。
「い、今のは?」
「写真よ。ほら、よく撮れてるでしょ」
小晴はおにぎりにかぶりつくゆきえの写真を見せてやる。恥ずかしがるかと思ったが、写真そのものの珍しさの方が優先されてしまったので、小晴としては少々つまらない。ゆきえは召喚以来、やたら余裕のある態度で振る舞い、恥じらったり強がったりという年頃らしい姿は見せたことがなかった。
小晴はさっさと弁当を食べてしまって、タブレットをいじることにした。弁当は変わらず美味しい。変わらないので、ゆきえほど新鮮な反応もできない。そんな自分はつまらないお嬢様だろうかーー。余計なことは考えるまいと頭を振って、早速、午後一限目の教科書データを呼び出した。
タブレットは縦にすると教科書だけが、横にすると教科書の左右のページ表示、あるいは右半分にノートが表れる仕組みになっていた。もちろん左利きのために、ノートと教科書の位置を設定で反対にすることもできる。スタイラスペンを使えない者のためにキーボードを接続することもできる。ノートは、ラインを引いたり栞を挟んだりといった教科書データと一緒に保存されるため、教科でごっちゃになることはないようだ。また、教科を指定しないフリーのノートも個別のアプリとして存在していた。
午後一限目は『魔術史概説』の授業。表紙・目次・断り書きを飛ばすと第一章第一節のページが現れる。大彗星が地表にめり込んでいる写真がダイナミックにレイアウトされていた。
大彗星の到来ーーこれが現代魔術史の始まりだ。それまでの人類は科学の叡智によって発展を遂げてきており、魔術と総称されるあらゆるオカルティックな技術は負の遺産のようにひっそりと受け継がれていた。ところが、魔力を大量に含んだ大彗星、通称『マナ』の到来がその攻守を一転させる。『マナ』は宮城県と山形県の境にある山間部の沼に嵌め込まれたように衝突し、大量の魔力を吹き下ろしの風と上昇気流の二つの波に乗せて、日本中、そして世界中へ撒き散らした。貴重なマナの欠片を、小晴も特別な土産として貰っていたーー折角の魔力源としてゆきえの召喚の折に使ったが。
魔力をエネルギーとしてーーつまり魔術の源として発現させた人類は、総人口の二割から三割程度と言われている。もちろんそこにも優劣はあり、せいぜいが竃に火を起こすレベルから、湖面に火柱を立たせるレベルまである。とは言え十人に三人が新たなエネルギー源を得られたとなれば、それは革命であった。魔力を持つ者は貴賎を問わず世の中に台頭し、魔力を持たない者はその危険性と得体の知れなさから規制を訴えた。新しい倫理、新しい社会制度、新しい学問の枠組み、新しい法律が求められ、世界はこれまでにないスピードでその求めに応じた。まるで宇宙開発のような速度であると誰かが称したーーその言葉には、今もその革命が続いていることも含まれている。
幸い、軍事への転用は未だ表立ってはいないが、世界の三割が結託すればそのうち起こり得るだろう。結託すれば、の話ではあるが。
小晴は美術本でも眺めるように指をすべらせページを繰った。『マナ』が嵌まり込んだ山間部の沼はそれまで、五色沼と呼ばれて観光資源になっていたが、『マナ』のおかげで水は干上がりただのクレーターと化した。観光資源としては引き続き役に立っているようだが。
第一章第一節は、『マナ』の摩滅への危惧と新しい社会の到来で締め括られていた。第二節からは、魔術の起源とも言えるアミニズムについて、古代文明の壁画と共に解説が始まっている。小晴はそこまで目を通して、画面を上部にスワイプし教科書を閉じた。入学試験の時から薄々気づいていたことだが、初期の授業は常識を説明するばかりで退屈に違いない。教師の説明を聞きながら手元では別の物をこっそり読めないかと、教科書一覧を漁ってみたが、表紙や教科名だけでは判断しづらかった。
学びのある授業だといいなーー小晴は学生のわりに殊勝なことをぼんやり考え、昼休憩を過ごした。
最初のコメントを投稿しよう!