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結局、授業は教員の挨拶やら授業の進め方に関する説明が大半を占め、授業進度そのものが遅々としたものだった。小晴は大抵を話半分に聞きながら、予習代わりに教科書をめくってつらつらと眺めたりしていた。
午後二限目、匣田の『薬草学』ではちょっとしたトラウマが再来した。
「さあ、適当に二人組を作って!」
溌剌とした女性教師は入学一日目に酷な宣託を下し、要領の良い者は大体の目星をつけて声を掛けに行ったり、隣の席の者を誘ったりしたが、小晴は見事にそのどちらの歯牙にも掛からなかった。恐らく午前中の自己紹介のパンチが効きすぎたのだろう。どうしようと彷徨う視線が、三つ隣の席で同じく惑っていた朝戸の視線とぶつかった。
「……朝戸君、やるわよ」
これはお誘いと言うよりも命令に近かった。朝戸も「はいぃ」と情けない返事で答えるものだから、既にふたりの上下関係は出来上がってしまったも同然だ。切っても切れない縁が結ばれてしまったのだと小晴は観念した。
授業内容そのものは比較的まともで、トレッキング好きな匣田らしく、中庭に薬草を探しに行くというものだった。まず中庭の花壇で猛威を振るうミントを紹介してその植生を説明した後、タブレットのカメラ機能で植物が検知できることをシミュレートし、決められた時刻までに五種類の薬草を探して撮影してくるよう課題を与えた。「分からなかったらこっちの本を参考にして良いわよ」と匣田が取り出したのは何冊もの分厚い薬草図鑑で、背表紙には学園図書館のラベルが貼ってある。生徒はにわかに辟易したが、観察中は学校の敷地内であれば自由に動いて良いと言うので、大半は談笑がてらに薬草探しに出掛けた。小晴はと言えば、朝戸と言葉少なにうろうろするはめになった。
「小晴殿、これも薬草ですよ」
一番乗り気だったのがゆきえだ。小春の命令無しに姿を見せ、すぐ足元の雑草を嬉々として示す。
「それ、ただのオオバコよ?」
「車前草と申しまして、腹下し、咳、熱発に効くのです。葉を煎じて飲むと良いのですよ」
「すごい、物知りですね!」
いつか聞いた落語のように語ってみせたゆきえへ、朝戸がひどく感心していた。
「朝戸殿と申しましたか。申し遅れました、私、小晴殿にお仕えしております、蓬靱負と申します」
「あ、これはどうも、ご丁寧に……朝戸夕です、宜しく」
「ちょっと、サラリーマンみたいな挨拶してないでよ。ゆきえの言うことが確かなら、課題の一個目はクリアね」
小晴はさっさとオオバコを撮影して次の薬草探しに向かった。思い返せばタンポポや朝顔なんかは毒を持つと言うし、探してみれば色々な雑草が薬としての効能を持っているのかもしれない。
それからもゆきえを先頭に幾つもの薬草を見つけた。アシタバ、イチジク、イチョウ、クマザサ、ナツメ、クローブ等、課題の指定数を優に超えるほどとなり、探索の殆どは写真に収めるよりもゆきえの解説を聞く時間の方が長かった。
「本当に詳しいのね、ゆきえ。民間療法とは言え医者も顔負けじゃない?」
「病気といえば、気合か生薬で治す他に、方法はありませんでしたから」
「昔って、風邪ひとつでも大変だったんですよね?」
「こじらせれば命取りでしたからね」
指定された時間に戻ってペアごとに結果を発表していく段になり、小晴と朝戸は、最初に発見した五種類だけを発表した。とは言っても喋ったのは殆ど小晴で、朝戸は横で頷いたり写真をスライドさせただけだが。匣田はそのニッチなチョイスに驚くと共に、「よく知ってるわねえ」と感心していた。
授業が終わり、そのまま教室に戻って帰りのホームルームとなった。ホームルームと言っても、連絡事項の殆どはメールで済まされるので、内実は簡単な口頭連絡と挨拶だけで終わる。さっさと荷物をまとめて帰ろうとすると、匣田が小春と朝戸を教壇まで呼びつけた。
「薬草学に有望そうなふたりに、特別任務。これ、図書館に返してきて!」
両手を合わせて依頼されたのは、例の授業で使った分厚い薬草図鑑の返却だった。
「朝戸君、図書館分かるわよね? 私、今から職員会議なの忘れてたの! 閉館前に返したいからお願い!」
猛烈な勢いで頼み込む教員に、さすがの小晴も反論はできなかった。それに図書館にはまだ足を踏み入れていない。一度見ておくのも良いだろう。
朝戸も苦笑しながら了解したので、ふたりで本を抱えて図書館に向かった。ーー本を抱えているのは、朝戸とゆきえであるが。教室棟の廊下は生徒で溢れており賑わっていたが、本を抱えた三人組が通るのを見て、自然に道を開けてもらえた。
「図書館は正面玄関がある中央棟の東側にあるんだ。実習棟との境目だよ。実習棟、見たことある?」
「いいえ、そっちはまだ」
「天井が吹き抜けになっている教室もあるから、入り口が結構複雑なんだ。図書館は一階からしか入れないけど、高さは三階分あるんだよ。まず中央棟に行こうか」
「こっちよね」
教室を出て一階まで降りると、クラスの無い階なだけあり、急に静まり返った。朝戸とゆきえの先陣を切って、小晴は歩き出す。
「そっちは逆だよ」
「小晴殿、こちらです」
背中に声がかかって振り向くと、朝戸とゆきえは正反対の方向に体を向けていた。小晴は大人しくふたりのもとまで引き返す。
「……新しい所は苦手なの」
「校舎も結構入り組んでるし、僕も覚えるまで時間かかったよ」
朝戸のフォローが痛い。元より小晴は立体構造を覚えるのが苦手だった。新宿駅や渋谷駅などのターミナル駅は鬼門だ。無論、地図はくるくる回してしまうタイプである。
「ゆきえさんは得意?」
「地理を覚えぬは命取りでしたから。行き止まりに突き当たっては逃げ場も少ないですからね」
「……ゆきえさんって、何してた人なの?」
ゆきえの経歴について朝戸には説明していなかった。ゆきえ本人が教えたいと思った時にそうすれば良いと考えていたからだ。ゆきえは現に、「ははは」と笑ってごまかしている。
小晴が後ろをついていく形で、三人は図書室に辿り着いた。手の空いている小晴が、重く軋む両開きの扉を開く。むっと紙と埃の匂いが襲ってきた。
中は、朝戸が言っていた通りに三階まで吹き抜けになっており、円形の壁沿いに背の高い本棚が差し込まれていた。本棚のスペースを充分に取るためか、吹き抜けの幅は狭い。一階の中央は閲覧席と学習スペース、入口の脇は司書用のカウンターになっており、見上げると、二階の回廊の床裏がそのまま天井になっていた。
「匣田先生の借りた本を、返しにきました」
朝戸がカウンターの司書に声をかけると、お手本のような瓶底メガネを掛けた女性が、こちらに目もくれず「はい、分かりました」と片手を挙げて返事をした。何やら手元では忙しげにキーボードを叩いている。カウンターの裏手には地下階段が見えたので、その下が書庫になっているのだろうか。こんなに大きな図書館では司書も暇がないに違いない。
生徒はまばらにおり、中には図書館見学と見えるクラスメイトもいた。閲覧席で分厚く大きな古書を広げている生徒もいれば、梯子を使って書棚のてっぺんの本を手に取る生徒もいる。
「薬草学はね、たぶんこっち」
朝戸が小声で二階の回廊に案内してくれた。棚の並びは無秩序に見えたが、通常の図書館と同様に十進分類法に基づいて分けられているらしく、自然科学のスペースに薬草学のプレートが用意されていた。
「これが全て書物なのですか……」
ゆきえが声を押し殺しつつ感嘆している。圧倒されているようだ。
「全部とは言わないけど、読んでみたいわね」
「僕も暇な時、棚の端から端まで読んだこと、あるよ」
薬草学の棚のがらんとしたスペースに本を仕舞いながら、そんな話をする。朝戸はよほど孤独に慣れているらしい。一人の時間を楽しむ術を幾つも持っているようだった。小晴にとっては凄いと思うが、羨ましくはない。図書館の蔵書は電子タブレットでも確認や予約ができるので、暇な時に見ておこうと思った。
全ての本を返し終え、一旦教室に戻ることになった。帰りの荷物は全て教室に置いてきてしまっていた。それに朝戸は学生寮住まいなので、どのみち教室棟の方角に向かわなければならないらしい。
再び三人連れ立って、図書館を辞去し、静かな廊下を歩いていく。道すがら、おや、と声を上げたのはゆきえだった。十字に嵌め込まれた窓枠に向かい、一枚の黒い布切れを取り上げる。
「これは……手拭いですね」
「ハンカチよ。誰かの落とし物かしら?」
「名前……は、無いみたいだね」
真っ黒なシルクの生地の一角に、アザミの刺繍が施されている。珍しいデザインだが上等そうなハンカチだった。誰かが廊下に落としたのを、別の誰かが踏まれないように窓枠にかけてやったのだろう。
「こういうのって、事務局に落とし物で届けたら良いのかしら? きっと大事な物よね」
「僕、こういう時の持ち主探し、得意だよ」
朝戸がハンカチを受け取りながら言った。
「得意って? 鼻でも利くの?」
「うん、そんなところ」
冗談のつもりだったが、朝戸は微笑を浮かべて頷く。
「追跡術っていう魔術の一種があるんだ。僕、それだけが取り柄なんだよ。探偵のアルバイトで、猫探しとか、結構役に立つんだ」
「アルバイトなんてやってるの?」
「長期休暇の時だけね。うち、基本的に貧乏だから、自分で稼がないと」
仕事に活かせる魔術を持っている分、立派なものだと小晴は感心する。きっとお小遣いなども自分で稼いでいるのだろう。小晴には縁遠い生活だった。
「して、その追跡術とは?」
ゆきえが興に乗っていた。考えてみれば忍者も人を追ったり人から逃げたり、似たような技を使うのかもしれない。
「ちょっと待ってね」
朝戸は黒いハンカチを元の窓枠に掛け直した後、手をかざして何事かの詠唱を始めた。口頭術式で魔術を展開するらしい。声が小さくぼそぼそとした詠唱だったので、小晴には上手く聞き取ることができなかった。仕方なくハンカチの方を見守っていると、まるでマジシャンが操るかのようにヒラヒラと舞い上がった後、ふわりと床に落ちた。
「今からハンカチの動きを逆回しに辿るんだ。動画を逆再生するみたいにね」
ハンカチの向かう先に、埃が光に反射しているような、ささやかなきらめきが線状に伸びていた。
「動くよ。後を追おう」
線状の向こう側に引っ張られるように、ハンカチがふわふわと漂っていく。いつの間にか四つ折りに畳まれ、人の腰の高さくらいまで浮かび上がっていた。恐らく持ち主がポケットか何処かに入れている状態を再現しているのだろう。つまり魔術開始時点から少しの間に、ハンカチの落ちる瞬間も再現されていたに違いない。記憶を遡ってみるが、どんな挙動を取っていたか思い出すのは難しかった。
追いかけた先は、中央棟を図書館に向かって引き返した後、実習棟の入り口を抜けて奥に進んだ、一番端の階段だった。その階段には二階へ続くのとは反対に、地下への階段もある。だが、地下へはチェーンで封鎖されていた。ハンカチはそのチェーンを超えて地下へ向かおうとしており、慌てて朝戸がハンカチを掴んで止めた。
「このまま行けば、持ち主に辿り着くんじゃないの?」
小晴はチェーンの向こう側を見下ろす。風に吹きさらされた埃が階段の隅に溜まっており、踊り場の更に下は、真っ暗でよく見えない。人が出入りするような場所には見えないが、朝戸の魔術を信じれば、持ち主は地下に降りていったのだろう。
「ダメだよ、下がって、六条さん」
朝戸の声が震えていた。小晴は思わず振り返って彼をまじまじと見つめる。
「どうしたの?」
「ダメなんだ、この下はダメ」
そう言いながら、朝戸はハンカチをチェーンに掛けると、慌てたように小晴の腕を掴んで踵を返した。
「ちょ、ちょっと」
「朝戸殿?」
引っ張られる小晴の後ろを、ゆきえも足早に追いかける。実習棟を抜け、中央棟を抜け、教室棟に戻るまで、朝戸は追い立てられるように必死に駆け、無言だった。
教室棟のクラスに戻ると、クラスメイトは残っていなかった。ぽつんと小晴と朝戸の荷物が残されている。西日が強く差し込んでいた。
朝戸はまだ小晴の腕を握っていた。クラスに入ってすぐ小晴を振り返ると、ほとんど同じ高さの目を真っ直ぐに向ける。今までに見たことのない真剣な眼差しだった。
「この学園で関わっちゃいけない人が一人だけいるんだ。あの地下室に住んでいる」
「何よ、お化けみたいに」
「幽霊みたいなものだよ。姿を見かけることは殆ど無い。何せ人前には滅多に現れないから。その人に関わったら、死ぬ瞬間を教えられるって噂。死の呪いがかけられるって噂もある。本当か分からないけど、火のない所に煙は立たない。六条さんも関わっちゃダメだよ」
「で、誰なのよ、その人。何年生?」
「名前は、三頭鎮さん。もう二年も留年してるって噂。とっくに卒業してて良いはずなのに」
「なんか、話だけ聞いても信憑性を感じられないんだけど」
「その人、死霊術師なんだ。これは確かだよ」
「……死霊術師」
その言葉で、小晴は反論の糸口を失った。中等科から在籍している朝戸が恐れている。そんな彼が、関わってはいけないという。それはつまり、彼を含めた多くの生徒が、死霊術師を恐れているということだ。
得体の知れないものは、怖い。
小晴はそっとゆきえを振り返った。ゆきえは困ったように首を傾げていた。彼女にはまだ、死霊である可能性を伝えていない。朝戸もそこまでは考えが及んでいないらしい。小晴の胸に抱えるものが、またひとつ、増えた。
朝戸と学生寮前で別れ、すぐに迎えの車を呼ぼうと思ったが、躊躇った。ゆきえには話しておくのが筋だと思ったからだ。小晴は彼女を連れて正門を出ると、歩きながら、『伝信』で話しかけた。
ーーずっと黙っていたことなんだけど。
ゆきえが意識を向ける気配がした。
ーー私があなたを召喚した時、あなた、切腹してたでしょ。
ーーそう……ですね。ずっとずっと、それを繰り返しておりました。
ーーそれがね、不安の種なの。あなたは死んだ人間、それを私は呼び寄せた。これって、死霊術なんじゃないか、って。
ーー朝戸殿が仰っていた、死霊術師、というものですか。
小晴はカバンから手帳を取り出した。月間カレンダーの隅に書き記した三大目標。そのひとつに、はっきりと書いている。『ネクロマンサーとばれない』と。以前ゆきえに手帳を見せた時は、どうせカタカナは読めないだろうとタカを括って、隠さなかった。
ーーここ、なんて書いてある?
ーーねくろ、まんさあ、と、ばれない……ですか?
ゆきえが大方の文字を読めることはこれまでの生活で分かっていた。カタカナも、その意味は分からずとも単語としては読めるのだ。
小晴はぱたんと手帳を閉じた。
ーーネクロマンサーっていうのはね、死霊術師のこと。そうだとばれないことが、私の高校生活の目標のひとつ。友だちを作るのと同じくらい、大事なこと。
ーーどういうことでしょうか?
ゆきえの声は強張っていた。
ーー死んでいるあなたを喚んだのよ? 死体を生き返らせた可能性があるってこと。それは紛れもない死霊術なの。例え私が、ただの召喚術を使ったつもりでも、いつの間にか死霊術に変わっていたのかもしれない。
ーーお待ち下さい。方法を違えることが、あるのでしょうか? 魔術というのはとんと分かりませんが、手段が異なるのであれば、結果も異なって然るべきです。
ーー例え正しい召喚術だったとしても、私が死んでいるあなたを呼び寄せたのは事実。死人を使っているっていうのは怖いことなの、分かる? 死は怖いの。誰だってそう思うの。それに死霊術は詳しいことが分かっていない特別な魔術。分からないことは、怖いの。それが人よ。朝戸君が言っていたようにね。……私も、怖いと思うのよ。
ゆきえには分かるだろうか。死が怖いこと、恐れるべきものであることが。しかし彼女は自らその死に向かった少女なのだ。死生観が違うことは、言葉にせずとも分かることだった。
ゆきえは暫し黙していた。考えているのか、ショックを受けているのか、姿を隠している以上は分からない。ただ、彼女を傷つけるような言葉を小晴が口にしたのは事実だった。
私って、主人失格かしら。契約破棄という言葉が胸中に浮かんだ。
ーー私にはまだ、小晴殿の憂いが分からぬのですが……。
珍しく言葉を濁していた。選び迷っているようにも聞こえた。
ーー……私がお側にお仕えして、小晴殿は悲しいでしょうか。
ーー悲しい、って。
ーー私には、自分が死んでいるようにも生きているようにも、どちらにも思えます。ずっとそうでした。ゆえに自分の在り方が他者の目にどう映るか分からぬのです。忍びの時から、ずっと。ですので、小晴殿が悲しいと仰れば、私は身を引きます。嬉しいと思われるなら、お側にいて構わぬと仰るなら、私は変わらず、お仕え致します。
悲しい。嬉しい。ゆきえ。私。小晴の胸中には様々なフレーズが去来した。
彼女といてーー過ごしてーー私は笑っていた。呆れることもあった。頼っていた。頼られている感覚もあった。私は彼女といてーー楽しかった。例え死霊術のことが心に引っ掛かっていたとしても。楽しかった。嬉しかった。
理由はそれで充分、だと思った。
「……ごめん、ゆきえ」
「構いません。迷われるほど、私を思って下さったのでしょう」
「私、心が狭いわ。見識も狭い。子どもね、私」
「当たり前です。子どもでいられる内は、それで良いのです」
「なによ、偉そうに」
ゆきえの脇腹を小突くと、はは、とゆきえは笑った。
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