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 医務室では医療術師でもある養護教諭が簡単な魔術回路のスキャンを行ない、異常は認められなかった。『三頭が姿を現して、女子生徒を襲った』という事実だけは瞬く間に周知されたようで、養護教諭も深く事情は訊ねなかった。  少し休んでいくかと聞かれ、小晴は迷ったが、断った。ここで休んでしまえば、一層教室に戻りにくいような気がしたのだ。ぶつけた背中は痛んだが、痣くらいで済んだだろう。  ちょうど出ようとした時、医務室を朝戸が訪ねてきた。匣田から様子を見にいくよう言われたのだという。 「三頭さんは……今も、行方をくらましているって。元から何処にいるか分からないような人だから。でも、三頭さんが来たのって、僕のせいだよね……あのハンカチを拾ったから……」  朝戸、小晴、ゆきえが並んで廊下を歩く。ゆきえは周囲を警戒しているのか半歩下がってついてきていた。 「朝戸君のせいじゃないわ。それに、あの人がどうして来たのか、どうして私を襲ったのか、分からないし」 「辛かったら、早退しても良いと思う。先生たちも、また襲われたら大変だからって……」 「朝戸君も、私のこと怖い?」 「え?」  朝戸は大きな目を更に見開いて、虚を突かれたような、不意打ちを喰らったかのような顔をした。彼の足が止まり、次いで小晴の足が止まった。 「そんな……怖いなんて」  弱々しく彼は頭を振る。だが彼自身が、その言葉に何の根拠もないことを承知しているようだった。 「いいわよ、私も自分が怖いもの。あの三頭先輩と同じかもしれないって思うだけで、ぞっとするわ」 「けど、死霊術と決まったわけじゃないよ。ゆきえさんのことは、普通に召喚したはずでしょ?」 「そのはず、そのつもりよ。でも何処かで手違いが起きたのかもしれない。……だけど、私がどんな魔術師であろうと私自身を恥じることはしないわ。皆が何と思おうが、私は三頭先輩とは違う。例え死霊術でも、その使い方を誤らなければ良いんだわ」 「そんな、簡単にいくのかな……」  小晴の虚勢と詭弁を、朝戸は頼りない声で無下にする。互いに口を噤んだ。もう何を言っても暗闇の中をがむしゃらに模索するだけのような気がした。  クラスに戻ると、昼休憩に移る直前の生徒たちがじっと小晴を見た。少なくとも小晴にはそのように感ぜられた。その目には、脅威と、恐れと、一匙の好奇心が現れていた。小晴はその視線を掻い潜って自分の席に座った。 「六条さん、大丈夫? 無理しなくていいからね」  匣田が不器用な笑顔を作って教室を去った。  その後の授業は全て座学だったので、ゆきえはずっと姿を隠していた。と言うよりも、周囲を警戒するようにうろつく魔力の気配があった。姿を見せては余計にクラスメイトがざわつくことも、彼女なりに分かっているのだろう。  小晴は修行であるようにして午後の授業を耐えた。饒舌な視線、騒々しい無言、無分別の好奇ーーどれも醜いと思った。その醜さに晒されている自分が情けなく、愚かしく思えた。  もしかしてその視線の中にーー嘉納手律香ーーあなたもいたのかしら。  そっとスマホの通知欄を確認したが、新着メッセがあるわけも無い。少し迷って、授業と授業の合間に、小晴はメッセージを打った。 『私は元気です。嘉納手さん、元気?』  短い二文。ただ近況が伝わればと思った。推敲するように読み返して、馬鹿馬鹿しくなり、最初の一文を削除してから送信した。当然、放課後まで既読は付かなかった。  終礼と共に教室を飛び出したかったが、それではまるで逃げ帰るようで、気乗りしない。寧ろ、最後まで居残ってやろうと自分の机に居を構えた。  ぱらぱらと生徒たちが疎らに教室を去っていく。ある者は小晴が居ないかのように、ある者は小晴の動静をいちいち端目に確認しながら、全員が教室を出ていくまでさほど時間はかからなかった。 「じゃあね、六条さん……帰り道、気をつけて」  朝戸が遠慮がちに手を振って出ていった。ありがとう、と小晴は手を振り返した。  廊下から身を乗り出して黒濱が訪ねてきた。彼もまた、朝戸と同じように小晴を気遣うようだった。 「悪く言う奴のことなんて考えなくていいよ。君は実力のある魔術師なんだから」  小晴と同じく優等生然としている黒濱の口から、周囲を貶すような言葉が出てきたのは意外だった。小晴はやはり、ありがとう、と繰り返して、彼が去るのを見送った。  電子タブレットには宝井からのメールが届いており、魔術演習で行なったテストの結果は実戦の様子から判断して合格とし、バッジを手配したという旨が記されていた。追伸のように小晴の安否を伺う一文が添えられていたので、 『ご心配ありがとうございます。体調に変化はありません』  という返事を書き加えてメールを送信した。 「……参りますか。もう、周囲に人の気配はありません」  ゆきえが傍で声を掛ける。そうね、と小晴は立ち上がった。スマホから送迎を手配し、ゆきえと連れ立って正面玄関を抜ける。正門までの並木道にも、誰もいなかった。 「小晴殿は、お強い方です」  正門をくぐり抜けながら、ゆきえがぽつんと呟く。歩くたびに腰の刀のかちゃかちゃ揺れる音がして、周囲の静けさが身にしみた。 「そうよ、私は強くなきゃ。六条の人間だもの」 「強い故に、弱きこともあります。上に立たれる方は大抵、皆そうです。頭領もそうでしたから」 「……頭領?」  小晴は、その存在と共に、身の上話を口にするゆきえ自身に関心が向いた。 「羽黒衆頭目です。幼く不出来な私たちを鍛えて下さった。私は……頭領を完全無欠の方だと勘違いしていた」 「どんなところが弱かったの?」  小晴は言葉を選んでゆっくり訊ねる。ゆきえは、悲しそうに笑った。 「我々です。頭領の弱点は、我々を守らねばならぬという、そのお気持ちでした」 「守るものがあるなら、強くなれるんじゃないの?」  どんな物語でもそうだ。誰かを守る、信念を貫くーー背負うものがあるから人は強いのだと幾百ものフィクションが語っている。童話でも、訓話でも、小説でもアニメでもドラマでも映画でも……小晴が見て触れてきたものは、そのはずだ。  ゆきえは弱々しく首を振った。 「守るものが無い者こそ、がむしゃらに振り向かず戦える故、強いのです。そんな者を知っていますから、確かです」 「でも私は、守るものなんて無いわ」 「私を守って下さる。六条の名を守ろうとしていらっしゃる。何より、ご自分を守ろうとしていらっしゃる」 「自分を守るのは当然でしょ?」  ゆきえに反論しながら、正門から続く歩道の角を曲がる。この話は物質的あるいは身体的なことでは無いと小晴もとっくに気がついている。 「私は、己を守ることはしません。忍びとは大概がそういうものです。出来る限り、余計なものは持たない。己が属する集団の為に戦う。生きて帰ってこそ伝わる情報ならば、その為に己が身を守り、死んで示せる決意に意味があるなら、その為に己が身を捨てる」 「……そうね。あなたはそういう人だわ」  どうして自決したのか、その意味は知らない。が、きっとゆきえにとって大事なことなのだろう。角を曲がる。 「……頭領って、どんな人だったの?」  こんなゆきえを育て、守ってきた人間を、小晴は知りたいと思った。 「言葉少なですが、闊達な方でした。とても、穏やかで……」  そこでゆきえは言葉を切る。何かを考える風に、言わざるべき言葉を飲み込むように。再び、角を曲がる。 「羽黒衆の存続と、私たち銘々の幸せとを、いつも秤にかけて……迷われて……」  角を曲がる。  角を曲がる。  角を曲がる。  もう、学園の周りを二周近くしているはずだが、一向に送迎の車が見えなかったーーいや、厳密には、送迎の車が着いているはずの道に、いつまで経ってもふたりは辿り着かなかった。 「これはーーまやかし?」  小晴とゆきえが胡乱げに振り返ると、後方にまだ正門があった。通り過ぎた気配は無いので、角を曲がるたびに、正門前から繰り返しているようだった。  幻術を避けることと、幻術を破ることは、原理が異なる。前者の符は持っていたが、後者は、掛けられた術式によっても対応の仕方が異なる為、小晴にその用意はなかった。  ただ用心する他なく、ゆきえが抜刀して小晴を背に庇う。 「物騒だねえ。銃刀法で捕まっちゃうよ?」  声が、小晴の頭上から降り掛かる。小晴とゆきえは揃って飛び退った。  塀の上に三頭鎮が座っていた。古木の長い杖を支えに、悠然と構えていた。幾つもの術式が細工された仕込み杖であることは見た目の装飾からも窺える。アクセサリーと言い、杖と言い、ただの学生の身分にしては魔術的な備えが過剰な程だ。 「ーー何の用よ」  先輩であろうが何であろうが、小晴は彼に敬意を払う気など毛頭無い。法が許すなら、二度と魔術の使えない体にしてやることも、吝かでは無い。 「そう怖い顔をしないで。折角綺麗な顔をしているんだからさ。ほら、こうして誤解を解きに来たんじゃないか」  三頭はひょいと塀から飛び降り、杖を鳴らして着地する。 「いやあ、外は西日が辛いね。もっと早く帰るかと思っていたのに、まさかこんな時間まで居残りするとは」 「まだ喧嘩を売り足りないの? ハンカチを届けた礼がこんなとは、とんだ恩知らずね」 「ほら、その誤解。僕は別に喧嘩を売りたかったわけじゃないんだよ。……六条小晴、蓬靱負。君たちを確かめたかった」 「……確かめる?」  ゆきえが警戒した声音で繰り返す。刀を正眼に構え、右脚は今にも蹴出しそうであった。 「確かめるとは、何を」 「僕と同じかどうか」 「……死霊術かどうか、ってこと?」 「そう」  この三頭という青年はいちいち言動が軽やかで、軽薄ささえ滲んでいた。年の頃はさして変わらないはずなのに、何処か浮世離れした雰囲気がある。その点は、ゆきえにも共通しているかもしれないが……。  三頭は杖先をコンコンと地面に当てながら、話を続ける。杖の先には、蝶の死骸を移送する蟻の行列があった。 「うちの黒脛巾組が、君を見たことがあるって言うからさ、どんなもんかと。でも残念、ゆきえさん、君が死んでいるかどうかは曖昧だな。淵にいるみたいだよ」 「……死の淵に……まあ、そういうものでしょう」  ゆきえが言葉を濁す。  ゴン、と杖先が蝶の死骸を突いて、ずりずりと翅が引き剥がされた。 「やめたら……気色悪いわ」 「蟻の仕事が減るからいいじゃないか。もうこの蝶に命も魂も無いんだぜ?」 「あなたがそれを言うのね」  三頭は人懐こい笑顔をひとつ浮かべる。杖先を地面から離して、おもむろに、ガウンの下に隠していた左腕の袖を引き上げた。  あ、と小晴は声を漏らす。  三頭の左腕の袖からは、複雑に入り混じった梵字の術式が覗いていた。術式自体は読み解けないが、否が応でも、左腕に例の死霊たちが宿っていることが分かる。呪いのように刻まれた術式だった。 「彼らには、命は無いが魂があるーー執着や怨念と呼んでもいいかな。四分の三オンス、およそ二一グラムの質量に縋りながら、屍肉を原料に、僕を宿主に、存在している。でも、ゆきえさん、君からはその粘っこさが感じられないんだよね。死の匂いが微かに薫っているのに、まるで彼岸と此岸の間に突っ立っているみたいだ。ああ、君、曼珠沙華がきっと似合うね」  浮ついた論説を饒舌に語るこの青年を、まともに相手取ることが、小晴は段々馬鹿らしくなってきていた。この青年が番狂わせのように現れて、小晴は大勢の生徒から誤解を受ける事態に陥ったのだ。一方では、この青年によって、よりゆきえの存在が召喚術に依るのか死霊術に依るのか、いよいよ怪しくなってきたのだが……。 「私、あなたを名誉毀損で訴えてもいいのよ。あなたのおかげでとんだ扱いを受けたわ」 「おや、六条グループ専属の弁護士が相手かい? それはちょっとまずいなあ。僕、口下手なんだよねえ」 「白々しいにも程があるわね……」 「だって僕を名誉毀損で訴えるってことは、死霊術をそういう風に見ているって公言するにも等しいだろう?」 「それはーー」  そう、なのだろうか……いや、そうなのだろう。 「ひとりの死霊術師として生きてきた僕から聞きたいが、果たして死霊術師と呼ばれることは、侮辱に値するのかい?」  顔は笑っていたが、眼は冷めていた。幾度となくこの問答に突き当たり飽き飽きしていると言わんばかりの瞳だった。斜に構えた態度もーー軽薄な言動もーーどこか浮世離れした振る舞いもーー全て、全て、全て、憎悪を超えた諦観がもたらした、彼の人生を物語っているように感ぜられた。 「……前言撤回するわ。あなたは私を襲撃した、それだけがあなたの過失よ。でも、グラウンド中に響く声で、全生徒に言い聞かせるように、ゆきえとあなたの死霊の関係をほのめかしたわね。それには、悪意を感じるわ」 「うん、それについては認めよう。君をこっち側に引き摺り落としたいという悪戯心さ」 「悪戯にしては過ぎた真似をしたな」  ゆきえが正眼に構えていた刀を真っ直ぐに、三頭の顔すれすれに突いた。切っ先が塀の隙間に刺さり、さすがの三頭も苦い顔をする。 「悪いのは『僕ら』を貶める社会の方だろう? 僕だって好きで死霊術師になったわけじゃないんだぜ」 「もうどうでもいい……全然良くないけど、どうしようもない。あなたの方に引き摺り込んだとして、私に何をしてほしいの?」 「何も」 「何も、って」  至極あっさりとした答えに小晴は面食らった。普通、こういう物事の裏には何らかの思惑があって然るべきだ。この青年は、ただただ小晴を同じ境遇にーー理由なき脅威の存在にーー陥らせるためだけに、あんな大掛かりな襲撃をやってみせたというのか。 「僕と同じ場所に墜ちて、君がどうするのか、それを見たいな。僕は友達になるのも大歓迎だし、因縁のライバルになるのも良し! そこは君が自由に決めてくれたまえ」 「ねえ、あなたって人生を二択で決めていくゲームだと思ってるの?」 「もう僕にとっては余生みたいなものだからね。学園という牢獄に囚われたお姫様さ。救いと死、そのどちらかしか無いのだよ。ま、いずれにせよ僕が君の良き理解者であることは確かだよ」  演劇じみた大仰な振る舞いで三頭が言う。  付き合ってられない、というのが小晴の正直な感想だった。 「……呆れた。もう、幻術を解いて私たちを帰してよ。運転手が心配してるわ」 「じゃ、この用心棒に刀を収めるように言ってもらえるかい?」 「ゆきえ、刀を仕舞って」  彼女はやや不服そうに、険のある目つきで三頭を牽制しつつ、納刀した。  自由になったと言わんばかりに息を吐いた後、三頭はぱちんと指を鳴らす。すると一陣の風が吹き渡り、ばさばさと、三頭の短い三つ編みも、ゆきえの長いポニーテールも、小晴の後ろにまとめたハーフアップの髪も、お構いなしに乱してあらゆる景色がさらわれた。そして小晴たちが次の瞬間に気づくと、そこに三頭の姿は無く、学園の塀と蝶の死骸と蟻の行列が残されていた。 「お嬢様。お時間かかりましたが、何かございましたか?」  後ろから聞き慣れた声が掛かり、振り向くと送迎担当の運転手が車から顔を出していた。 「……いいえ。大丈夫よ。待たせてごめんなさい」  小晴は笑顔を作って後部座席に乗り込んだ。ゆきえは『姿隠し』で既に見えない。  車がゆっくりと走り出す。三車線に緩やかに滑り込み、いつも通りの景色が窓の外を流れていく。  いつも通り、死を恐れる人々の群れが過ぎっていく。  三頭が撒いた誤解はーー解けるだろうか。解くべきだろうか。  私は、何をしたらいいのだろうか。
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