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ガンガンと痛む頭に目覚めれば、すでに太陽が昇っていた。激しい喉の渇きに気づいたものの、動く気にはならず岩の陰に座り込む。
何時だろう。きっともうすぐイサトが飛行機に乗る時間だ。せめてここから見送って気持ちにけじめをつけなければ。それから忘れないといけない。二〇年にもなる想いをどうすれば消せるのだろう。
もうぐしゃぐしゃに潰れてしまった手紙を握りしめる。
夕べあんなに泣いたのに、こんなに喉が渇いているのに、それなのに絞り出すかのような涙が溢れる。このまま干からびて消えてしまうんじゃないだろうか。
「イサト……」
自分の声に心臓が握りつぶされたように苦しくなった。遠くの空を飛行機が飛び立つ。太陽の位置からすると、あれがイサトの乗っている飛行機だろう。もうきっと来ない。
「イサト、イサト……アイシテル」
声が震えた。
「愛してるんだ」
限界を訴える心が悲鳴を上げた。耐えきれず嗚咽がこぼれる。
「愛してる……イサト!」
「っだったらなんで来ない!?」
ガサガサという枯れ草の音に続いて、怒鳴り声と大きな身体がヨギの息を止めた。
「俺のいないところで言うな! ……ヨギ」
苦しくて息ができない。だれがヨギを締め付けているのだろう。
「なん、で……俺を避けるんだ」
背中を覆う身体は汗ばんで湿気を纏っている。掠れる声は、長く走ったんじゃないかと想像ができた。
「……昼に帰るって」
そう、昨日ハーマンが言っていた。
「帰る予定だったさ! けど、おまえに会えないまま帰れるわけがないだろう!?」
「……ちゃんと別れ話をしないといけないからか?」
「なんでそうなる!?」
叫んだイサトが無理やりヨギを引き寄せた。向かい合う目の前にイサトの精悍な顔がある。前に会ったときよりも少し髪が伸びて、目元が少し鋭くなった。
「だって……手紙に……」
握りしめたままだった手紙をゆっくりと開く。
「誰か、いるんだろう?」
差し出した便せんを受け取ったイサトが少し首を傾げ、ヨギの指先をたどってから小さな悲鳴を上げた。
「ちがう!」
「誤魔化さなくていいよ。日本に誰かいるんだろ」
日本語で愛を語る相手が――。
「それはヨギ、おまえに書いた」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だったらなんで日本語なんだよ?」
「……自信がなかったんだ……いくら手紙を書いても、電話をしてもおまえは返事がなくて。会えない間に、もう俺のことなんか忘れてるんじゃないかって……」
もし、気持ちが冷めてしまった相手に愛を語ってしまったらどうしようかと怖くなった。そうつぶやいたイサトが俯く。
「そこだけ日本語で書いたのだって、往生際の悪い逃げだったんだ。迷って、やっぱり直接言おうと思って消したよ」
会いたかった。イサトが顔を歪めて笑った。
「ヨギ、愛してる。もう離れたままでいるのは無理なんだ」
イサトの手がヨギの肩に触れる。ヨギは逃げるように一歩下がった。
「ヨギ」
「そんなの、無理に決まってる」
「無理なもんか」
「俺なんかが、どうやってイサトの側にいられるんだよ!?」
一歩、また一歩。逃げるように後ずさる。
「理由なんかどうでもいい」
「よくない」
「どうしても来てくれないのか?」
唇を噛んで睨み付けた。そんな無理難題を押しつけるなと無言に含める。
「だったら、俺がヨギのところにいく」
打ち寄せる波が足を濡らす。ヨギはついに追い詰められていた。
「馬鹿なこと言うなよ」
そんなに簡単に捨てられるような立場じゃないくせに。
「どっちかだよ、ヨギ。俺のことを愛してるというなら選べ」
「……っ」
「離れる選択肢なんかあるはずがないだろう?」
イサトが泣きそうな顔で笑おうとした。こんな、自信がなさそうなイサトなんか初めて目にした。いつだって強くて真っ直ぐで、そしてヨギのことを引き寄せてくれる。今だって、臆病風に逃げたヨギを捕まえて逃げ場を奪ってくれるのだ。
諦めなくてもいいと突きつけてくれる。
「イサト」
「なんだ?」
触れるか触れないかの位置まで近づいたイサトの腕を掴む。その感覚だけで泣きそうになった。
高い空をまた飛行機が横切っていく。
ヨギは掴んだ腕を力一杯引き寄せ、イサトの大きな身体を払った。予想外のことに、よろけたイサトが海に倒れ込む。
なにをするんだと、目を白黒させたイサトを見下ろして睨んだ。
「濡れたら着替えるまで飛行機に乗れないよな?」
きょとんとしたイサトが次の瞬間に大きく破顔した。
もう少し側にいて。その一言をいうことができない不器用なヨギを受け止めてくれる。
「ああ、帰れないな」
素早く立ち上がったイサトが、ヨギを抱き上げそのまま海に投げ込んだ。
「ヨギも着替えなきゃな」
そう、濡れた服を脱いで、海水を洗い流して、それから――。
イサトに手を引かれ立ち上がる。
「俺、一年も待ったぞ……」
「わかってる」
「仕事はいいのかよ?」
「いいよ」
「嘘つけ」
「けど、ここで離れたら俺は一生分の愛を失うから」
離さないでよ。そう懇願するイサトの頬に触れた。愛しくて、愛しくて、どうしようもないほど焦がれて。
「離すなよ、頼むから」
耐えきれずしがみついた。背中を大きな手が護るように包んでくれる。
「離せといわれても聞かないよ」
空高くをまた飛行機が飛んだ――。
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