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「アイツ、もう着いたかな……」
乾季に入った島は、押しつけがましい太陽がここぞとばかりに力を見せつける。仕事の合間、木陰に座り込んだヨギは尻のポケットから汗で湿ったエアメールを開いた。
ヨギへ
大事な話がある。
四月の二日か三日にそっちに行くから時間を作って欲しい。
イサト
「ハガキで充分だろ、これ……」
口を尖らせて何度目か分からない手紙を畳んで戻す。ハガキだと誰かに見られるかも知れない。そういうことなのだ、きっと。
家のほうにも再三電話があったと父が困っていた。ヨギが家を出てひとり住まいになったことをイサトはまだ知らない。
今日はその四月の二日だ。ビーチの真上を飛行機が飛ぶたび、つい見上げてしまう。
会いに行く気なんかさらさらないのだ。
「ハァ……」
ため息だって何度目かもう数える気にもならない。
イサトがこの島に別荘を持つ両親に連れられてきたとき、観光案内をしていた父が歳の近い子がいるほうがいいだろうとヨギを伴ったのがはじまりだ。共通点なんかなにひとつなくても子どもというのは単純で、ろくに言葉も通じないのに毎日のように遊び回った。
多い年は年に三回ほど、イサトの学年が上がるにつれて年に一度がやっと……それだってどんどん滞在日数が短くなって――。
「よぉ、ヨギ」
聞き慣れた声がヨギの長考を遮ってくれた。ホッと息をついて見上げると、思った以上に近い場所に顔がある。
「ハーマン。おつかれ」
「今日は忙しい?」
「朝から二組。遺跡と寺。もうちょっとしたらサンセットビーチ。そっちは?」
「店はまだそこまで忙しくないな」
「暇だからってビーチに立つなよ」
にやりとからかうとハーマンがムスッと顔を顰めた。ハーマンは浜通りで観光客向けの土産物屋をやっている。北欧系の血を引くヨギとは反対で、よく焼けた肌に鍛えられた体つきは明るいビーチによく映える。そんなハーマンだからちょっときわどい客引きをすれば、あっという間に女性客が釣れた。一時期は雨期になるとそうやって稼いでいたハーマンを茶化すのだっていつものことだ。
気分を害して去るかと思いきや、ハーマンはヨギのすぐ前に座り込んだ。そして、なにか含みを持たせたような目で睨む。
「ヨギ、知らないのか?」
「なにが?」
ハーマンは腰を落ち着けたものの、ヨギはそろそろ仕事に戻らなければ間に合わない。そうアピールをしつつ腰を浮かしたヨギを、大きな手が捕まえた。
「あいつ来てるぞ」
誰のことかなんて一瞬で分かってしまった。ヨギとイサトが親しくしてきたことなんか、島中が知っている。一瞬だけ強ばった表情筋を急いで緩めて笑った。
「知ってるよ。だから?」
「ヨギのこと探してたぞ」
「……」
「もしかして約束もしてないのか?」
探してるという言葉に焦った。ハーマンの腕を振りほどいて、今度はちょっと強ばった笑みを向けた。
「……そろそろ時間だから行くよ」
「ヨギ!」
顔を険しくしたハーマンから逃げるように背を向けた。
「明日の昼には帰るって言ってたぞ!」
その声には返事をせず、観光ガイドの集合場所へとやや駆け足で向かう。早めに行かないと、観光の目玉になっているサンセットに間に合わないのだ。
十七歳のとき、夜のビーチでイサトとキスをしていたところをハーマンに見られた。ハーマンは観光客らしい若い女の子の腰を抱いていた。
その前日にヨギはイサトと寝たのだ。その熱がまだ冷めなくて、こっそり夜のビーチで待ち合わせた。抑えることなんかできるはずかなかったのだ。
不毛だぞ。ハーマンは淡々とそう忠告をしてきた。
「そんなこと分かってたさ」
瞬く間に流れる汗をシャツの肩で拭った。
毎年訪れる二歳下の東洋人の友だち。はじめは通じなかった言葉がどんどん通じるようになって、それがうれしくて一緒にいる最中はずっとしゃべっていた。それほどまでに早く異国の言葉を覚えられる環境にあったイサトのことなんかわかりもせずに、ただ無邪気に喜んだ。
住む世界の違いなんか、あの頃は考えなくても楽しかったのだ。
イサトが島に来るたび抱き合って、それだけが待ち遠しくて。待っているうちに怖くなった。毎週のように届くハガキにも返事を出さなくなった。それでも、会えば衝動が抑えられなくてひたすらに求め合うのだ。
イサトが大学を卒業したとき、一緒に来ないかと誘われた。ヨギはそれを笑い飛ばした。だって、すでに知っていたのだ。イサトが世界的にも名の通った企業のトップを親に持っていることも。そして、卒業後はそのグループ企業のひとつを任されることも。
そんなイサトの横にどんな顔をして並べというのだろうか。
「コンニチハ。オマタセシマシタ」
こんなの時にツアー客が日本人だなんてついてない。その黒髪に嫌でも思いだしてしまうじゃないか。
「少シイソイデクダサイ」
360度のパノラマを楽しめるデッキは、四時までには並ばないと場所がなくなってしまう。ヨギにとっては嫌というほど見慣れた景色に、観光客たちは判ををしたような歓声を上げる。
こんな作られた場所よりもっとキレイに見える場所があるのに。そういえば、初めて案内したときのイサトも呆然と沈む太陽を見入っていた。
「クソ……」
結局はなにをしていてもイサトを思い出してしまう。小さな毒づきは歓声にかき消された。
ツアー客をホテルに送り届けると、ヨギはそのまま夜の街に繰り出した。ひとりで暮らす家も、もしかすると父が場所を教えているかも知れない。
地元人が集う安酒場の隅で夕食を済ませ、チビチビとアルコールを染みこませていく。気を抜くとイサトのことばかり考えてしまう。最後に会ったのはもう一年以上前だというのに。
それほど長く肌を重ねていないのに、どうしてあの熱を忘れられないのだろう。いつだって、背が伸びてヨギを追い越したときも、制服だという変わった服装を見たときも一瞬でイサトだと気づいてしまう。
あいさつみたいなキスだって、その感触を忘れられない。
酒の追加を頼んでうなだれる。会いたくないわけじゃない。だけど会ったってまたすぐに離れて、忘れられない苦しさを味わうことになる。焦がれたってどうしようもないのだ。
そしていつか、イサトはヨギのところになんか来なくなる。
安物の酒を一気に飲み干した。さいわい明日は休みだから酔い潰れたって構いやしない。
そろそろ帰ってくれ。呆れ顔の店主に追い出され、よろよろと通りを歩いた。真っ暗なビーチの隅で大の字に寝転がる。満天の星空がぐるぐると回って見えた。砂まみれのポケットから手紙を取りだしてまた広げる。月明かりにすかせば、もう覚えるほど読んだ文字が浮かぶ。その空白に、色のない文字が現れた。きっと重ねたままの便せんを使ったせいだろう。ヨギは月明かりに必死で目を凝らした。
「ニホンゴだ……」
分かったところでヨギには読めない。ヨギが知っているのは、イサトの名前、近衛功人という日本語だけだ。それだけなら書くことだってできる。
ヨギはふらつく頭を宥めながら立ち上がった。ビーチにはまだ遊び足りない若者が騒いでいる。その中に日本人を探して、二人組の女の子に声をかけた。
「コンバンハ」
にっこり笑いかけると、おずおずと、けどはにかんだ笑顔を浮かべた女の子があいさつを返してくれる。こんなことをしているとビーチボーイだと思われるかも知れない。
「あー……と、オネガイ、ココ」
開いた便せんをさっきと同じように、今度は街灯にかざして指さした。女の子たちの視線が便せんに集まる。
「ニホンゴ。知ル、タイ」
これで通じるだろうか。ヨギの前に誰に手紙を書いたかなんて本当はどうでもよかった。ただ、ヨギの知らないあいだのイサトをひとつでも知りたいのだ。
「日本語?」
「あ、この薄いのかな?」
ちょっと貸してというジェスチャーに手紙を預けた。ひとりの女の子が睨むようにその紙を見ている。
あ、小さな声が上がり、二人がちょっと照れくさそうに顔を見合わせた。少しだけ間を置いて、ひとりがゆっくりと読み上げる。
「愛してる」
「I LOVE YOU」
英語に直されなくてもヨギはその言葉を知っていた。何度も何度も聞いたことがある。
「アリガトウ」
不自然にならない程度でいい、うまく笑えただろうか。女の子たちに別れを告げて、またさっきのビーチに戻った。岩場を越えて草むらをむりやり抜けると、そこには人の来ない秘密の場所がある。
もう動きたくなかった。歯を食いしばって上を向く。目の奥が熱い。
愛してる――。
イサトはヨギじゃない誰かにそう綴った。だけど、律儀なイサトはヨギをそのままにしておけなかったのだ。
「大事な話ってそっちかよ……」
涙が頬を伝う。一度流れ始めてしまえばもう止まらない。
なんて自分勝手なんだ。イサトの手紙を無視して、勝手に離れようと決めて、それなのに傷ついて泣くなんて勝手すぎる。
愛してる――。
あの声がほかの誰かに囁くのだ。
不毛だ。最初から分かってたじゃないか。
それなのに辛くて辛くて心が潰れてしまいそうだった。
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