虎が涙

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 おかしな空だった。血の涙を流しているのかと疑うほどの真っ赤な夕日が落ちたかと思えば、一転、一寸先も見えないほどの大雨が地面に叩きつけた。  僕は一気に重くなった袴の裾をたくし上げながら、目に付いた軒下に駆け込んだ。胸に抱え込んだ包みをそっと開いて、中身の無事を確かめたところでホッと息を吐く。この分では、旦那様から言いつけられた刻限までには戻れそうにない。  雨はさらに勢いを増し、地面の泥を混ぜ込んだ水で僕の足を汚く濡らした。バラバラと地面を叩く音は、周囲の人の気配を消してしまう。夕暮れとはいえ、往来を行く人はそれなりにいたはずなのだ。  またたく間に辺りは暗く沈み、荒ぶる雨だけが僕の周りで騒いでいる。見えない不安に必死で頭の景色を思い出そうとした。  ここは川のそばの道だった。柳の木が沿道に生えていて、夜は少し不気味に思うこともある。しかし、市中に続く道ということもあって人の通りは多い。  そう、大勢が歩いていたはずなのだ。  僕は途端に寒気を感じて身震いをした。誰か、僕と同じように雨宿りをする人がいないものかと、雨の暗闇に目を凝らす。  ザァザァという音で耳がいっぱいになった折、凝らした目の中に白い足袋が浮かんだ。それは、一歩一歩と近づき、もう片方の足、着流しの裾、それからゆらゆら揺れる羽織の裾。  ――難儀な雨やねぇ。  雨音の中に澄んだ声が溶け出した。顔を上げると、そこには夜目にも鮮やかな緋色の傘を差した男が立っている。昼日中は良い天気だったはずなのに傘を用意していたとは、驚くべき用心のある人物だ。 「本当に。一体いつ止むでしょうか」  ――虎が涙やからね。日が変われば止むやろう。雨宿り、してくか?  男が軒を借りた家を指さした。どうやら、ここはこの男の居宅らしい。手ぬぐいくらいはあるからと誘われ、勝手口の木戸をくぐった。 「虎が涙、とはなんですか?」  濡れ鼠の着物を脱ぎ、ありがたく借りた(なが)(じゅ)(ばん)で腰を下ろした。  ――そないに濡れたら冷えるやろ。これも羽織っとき。  奥から持ち出された(たん)(ぜん)を背中に掛けてもらうと、冷え切った身体が一気に熱を取り戻した。 「その、なにからなにまで……ありがとうございます」  ――ええよぉ。そいで、虎が涙の話やったっけ。  頷いた僕をいたずらに見た男は、行灯を引き寄せゆっくりと口を開いた。  ――虎が涙っていうんは曽我の雨とも言うて虎御前いう遊女の涙や。今日は()()兄弟(あだ)()ちの日やさかい。 「どのような物語なのですか?」  (ぶん)()を夢見ていたこともあって、僕はその話の続きをねだった。  ――父の仇討ちを成し遂げた兄弟が、無情にも命を絶たれる話や。兄の曽我十郎祐成に愛されとった虎御前(とらごぜん)が、情人の死を(いた)んで流した涙やんねて。 「悲しい雨ですね」  ――そやかて、こないに涙を流すとは、見上げた(てい)(じょ)ぶりやねぇ。  虎御前の涙というのは「もののたとえ」だろうに、男はまるで本当に女の涙が流れているかのように感嘆してみせた。泣いたところで愛しい男が戻るわけもないだろうに。そんな嘲笑が含まれたような、わざとらしい感嘆だった。  外は相変わらず強い雨が屋根を叩いている。  毎年、この日は雨や。男がそう締めくくった。 「お話のとおりなら夜半過ぎまで降り続くようですし、諦めて走って帰ります」  なんとなく尻の据わりが悪いような気分になった。腰を上げようとした僕の肩を、男の手が押さえ込む。  ――うちはかまへん。その荷物、濡れたら困るんとちゃうか?  旦那様から頼まれた荷物を横目に見て、この雨では濡らさずに帰るのは無理だと肩を落とした。中身は古い書物なのだ。雨などとんでもない。 「ご迷惑をかけてしまって……」  恐縮する僕を、男は飄々とした顔で受け流した。  ――横になって一眠りしとき。目ぇ覚めて止んどったら勝手に帰ってええさかいな。  そう笑った男が襖の奥へと消えていった。  まさか初めての家で寝るわけにもいかず、僕は雨音が小さくならないかと必死に耳を凝らした。  ざぁざぁ。とんとん。かたかた。  雨に加えて風も出てきたのだろうか。不安に思う心とは逆に、僕の目は眠気に閉じていく。ああ、だめだ。眠ってはいけない。  大切な荷物を胸に抱える。睡魔は人ならざる力で引き込むように、僕の意識を眠りの淵に誘う。  ああ、愛しいお方。どうして、どうして。  雨の音が、むせび泣く女の声に変わっていく。 「辛いよなぁ……かわいそうに……」  耐えきれず身体を横たえた僕は、見えない虎御前に話しかけた。帰らぬ人となった情人を嘆く女の心情を(おもんぱか)って、知れず涙がこぼれる。僕の雨は涙雨くらいにはなるのだろうか。  僕は、心地よい微睡みに、ついに身を任せた。  ――ああ、思った通り。良い雨や。なぁ虎の……これで、おまはんの涙はまだ涸れやせんよ。  行灯の明かりに男が赤く浮かんだ。その口元はなにかを愛おしむように寄せられている。  男の手のひらに綺麗に乗せられた白いもの。男は唇を寄せ、それから頬ずりをするようにそれを掲げた。  白いものが振り返る。それは真っ黒な(がん)()で、気の毒そうに僕を見下ろした。 「先生のところまで遣いを頼めるか? 古書を受け取ったらできる限り早く帰ってきておくれ。特に大磯は立ち止まってはいけない。日が暮れるまでには必ず通り抜けるんだよ」  ――あそこには、人を喰う鬼がいるから……。
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