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00.終わらないアンコール
割れんばかりの拍手は、真新しい小さなホールに響き渡る。総員スタンディングオベーション。若き天才ソリストの華々しい最初の舞台。スポットライトの当たる中、彼は恭しく一礼をして。手にした銀色の笛は、ライトを浴びて眩しく輝いた。
徐にマイクのスイッチを入れる。あーあー、と小さくテスト。初々しいその姿は、太々しいその体格と裏腹に随分と可愛らしく見える。音楽という瞬間芸術を嗜む客層であるから、即座に場内は静かになって、主役の語りを待っている。
彼は柄にも無く息を整えて、いつもの仏頂面をわずかに崩して。眼鏡のレンズに、淡い光が映り込む。ブルーグレーの毛並みに覆われた長めの耳が、ぴん、と真上を向いた。壇上の仕来りなんて関係ない。彼は暑がりだから、いつものようにシャツの袖を捲る。
「本日はご多忙の中、お越しいただきましてありがとうございます。本日杮落としとなるこの場所で、このような機会を頂戴し、大変光栄なことだと、私自身、感じております。昔馴れ親しんだこの場所で、何かを飾ることが出来ていたならば、この上なく喜ばしい限りです」
壇上で彼は、そう切り出した。
何かを考えて、ふっと客席の奥を、何かを探すように見回して、それから。
「――突然ですが」
皆様おひとりおひとりに。大切な方は、いらっしゃいますか。
家族でもいい、友達でもいい。もちろん、想い人でも構わない。
誰にでもきっと、ひとりやふたり。いらっしゃるのではないでしょうか。
もちろん…………そのような存在は、私にも。
ぽつりぽつりと話し出す。何かに訴えかけるように。
舞台慣れしているはずの彼。今回ばかりは、今だけは。まだまだあどけない、歳相応の姿だった。
ひとりひとりの心に届くように、言葉を選んで、前を見て。
彼の話は続く。今この瞬間、なぜこのようなことを問うたかということ。それは、これから演奏する「アンコール」に因んだ質問であること。
「惜しみない拍手を頂戴し、どうもありがとうございました。さて、アンコールにお送り致しますのは、皆様もよく知る、あの偏屈な作曲家、アル・コルディアが生前最後に遺したとされる小品です」
――二十七番、変ホ長調。表題は――
彼は小さく会釈した後。銀色の笛を――相棒のフルートを構えて。ちらりとピアノ奏者へ目配せして。下に、上に、と管を動かし、タイミングを取った。
静かに鳴り出すピアノ。平素の軽やかさは無い。高度な技術が要求される曲ばかりを書いていたアル・コルディアが遺した、唯一のバラッドピース。柔らかく、哀愁漂う調べに乗せて、彼は楽器を通して想いを謳う。
届けたい気持ち。届けたい想い。
それは誰に届けたいのだろうか。
彼の脳裏に浮かぶ姿。それは……
短く儚いその旋律は、愛しいという想いを運ぶ。
なんて、なんて切なく。それでいて芯のある音色だろう。
いちばん、いちばん、あなたの得意な響かせ方。
――ああ。
自分の目の前で。世界で一番恋い慕うひとが。高らかに高らかに、愛を奏でる。
自然と頬を伝う涙。その意味を見出すには時間はかからない。
世界でひとりの誰かのため。
彼が紡ぐその音色は、まるで自分のために紡がれているみたいだと、勘違いしてしまうほどに。
ただ、それは勘違いではなく、おそらくたったひとつの真実。終わらない愛。終わらないアンコール。
手を取りあって標すのは、螺旋の如く絡まる調べ。
――それは、空色の譜面に描く、淡恋の物語。
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