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放課後。
今日もあの大きな先輩は、会館下でフルートを吹いている。いつもの曲に加えて、今日の日替わり曲は、サンディオの「囀りのワルツ」。
「あの人は、鳥とか空とか雲とか、そういうモティーフの曲が好きなんだろうか……」
毛並みもブルーグレー、青みがかった灰色だし。
何だか爽やかなイメージの曲が多い。ベタベタの間怠っこしい曲は好まないのかもしれない。
「そういうのが、好きなのかな……」
ちょっと意外。もっとどっしりがっしりした、硬派な音楽が好きなのだろうかって思っていたのに。
「あ、吹き終わった」
音は止む。スマートフォンのロック画面を見やると、帰りの時間であることが分かった。
「そろそろ帰ろうかな……」
ふあぁあ、と欠伸をすると、雲の端がぴかりと光るのが見えて。空は白に黒い絵の具を一滴たらしたようにうっすらと暗くなりつつある。雨が降り出しそうな気配であることが、何となくわかった。
「傘、持ってたよね……」
鞄の中をごそごそと探し出す。その時に。
彼が。あの人が、アリヤの前を通り過ぎようとしていた。
「………………」
「………………」
目と目が合った。言葉が出ない。昨日の今日で、何を言えばよいのだろう。
通り過ぎる間は一瞬であるはずなのに、随分と長く感じる。目を逸らせばいい話なのに、何故だか逸らすことが出来ない。
翡翠色の瞳がアリヤの姿を捉えるのを、何となく感じることができた。
「あ…………」
「…………」
彼は通り過ぎる。ただ、昨日と違うのは。一瞬ではあるけれど、一瞥ではあったけれど。その目の動きを、アリヤは見逃さなかった。
「…………あ」
それが何を意味したのかはわからない。でも。
明らかな認識がそこにはあった。あの人が、何か、自分に対して抱いた何かがある。何かを昨日の一件で残せたのかもしれない。そんな風に思った。
「あんな話しかけ方だったのに覚えててくれたのかな」
プラスの捉え方。錯覚しているのかも知れない。もしかしたら、マイナスであるかも知れないのに。
雨が降り出す。入学してから初めての雨。
そう言えば、雨が降る放課後も、彼は会館下でフルートを吹くのだろうか。
「…………」
知りたいことを知ることが出来るのが勉強。その行為が好きだった。
出来ないことを出来るようになることが練習。練習も好きだった。
重ねた練習は裏切らない。いつか必ず理想に辿り着ける時が来る。ソラノはそう信じて疑わないし、事実、そうやって生きてきた。
辞典と教科書を交互に捲って、何となく概略を掴んで。そこから納得する情報だけを拾い上げ、積み上げて体系的に理解する。それがソラノの勉強方法。
フルートを吹いた後は、気が向いたら、自習をして帰る。
ソラノは気が向いた時にしか授業に出ない。「自由な校風」であるこの学園だからこそ許される行為で、一般的にその姿勢は褒められるべきではない。ただ。
「権利を主張するには抑も、義務を果たすことが必要である」
気ままに生きる代わりに、肝に銘じている考え方だった。だから、自分で勉強をする。結果を出せば、文句は言われない。成績もそこそこの水準を保っている。体育以外は。
「サボっているくせに成績が悪いなんて格好悪い」
そんなちょっとしたプライドと強い自制心がソラノの背中を支えている。
「『アリヤ』だっけ、さっきの」
いつも、あの場所にいるのだろうか。あのベンチに腰掛けているのだろうか。
こそこそしていて気味が悪い。だけど。
――エモい、って言ってくれた。
果たして、どんな、モノ好きなのだろう。
フルートが、好きなのだろうか。
彼は一体、どんな人なのだろうか。
シャープペンを走らせる手が、止まる。
「……………………」
他人に興味を持つなんて、自分らしくない。
頭でも打ったのかって、言われてしまいそう。
「でも…………」
何気ない探究心だった。それが全ての始まりだとは知らず。
微かに聞こえる雨音を、ソラノの耳は逃さなかった。
ベッドにうつ伏せになって。クリアフォルダーが数冊枕元に広がって。
懐かしいなと思いながら、アリヤはページを捲る。色あせた譜面に、楽しかった思い出は蘇る。
音楽を聴くことは出来なくても、譜面を読むことは出来る。あの人の吹く音を反芻しながら、アリヤは音符を追いかける。
「てれれれっ、ちゃっ、ちゃっ、ちゃああー」
側から見ると気持ち悪い独り言。譜面を左から右になぞりながら、あの、彼の、軽やかに吹きこなす様を脳裏に思い描く。
「ここのワンフレーズ、あの人は一息で、しかもテンポ通りに吹き切る」
譜面の中でも一際音符が詰まる箇所がある。八小節間、途切れなく指を回し続ける集中力が求められ、且つ、時折混じるスタッカートとアクセントが厄介で。
アル・コルディアは偏屈な作曲家。彼自身も相応に有名なフルーティストだかバイオリニストだった、と記憶している。大編成の曲は書かず、室内楽などの小編成向けの曲やフルート練習曲作りに執心した、ちょっと特殊な人物。ただ、他の作曲家が書く練習曲よりも、どこか。
「突飛で、面白くて、練習し甲斐がある」
こんな練習方法もあるんだと思わせるほどに、彼の譜面は変幻自在。それ故に、何度練習しても新たな発見がある。
「………………」
やっぱり。
「……お話、してみたい、なあ」
自覚した気持ち。それは憧れの具現なのか。
どうすれば近付ける?どうすれば話をすることが出来る?
こんな気持ちは初めてで、どうすればいいかがわからない。トモハルに聞いてもきっと「えっ?何となく流れで行けばいいんじゃない?」とか、参考にならないアドバイスしかもらえないであろう。
「うーん…………」
何か、何か、いい機会は無いだろうか。
週直というシステムがあって。クラスの中で週代わりに二名、ランダムに選出される。
要はクラスの庶務。教員の指示でプリントを取りに行くだとか、備品の補充をするとか、そう言った感じの。阿弥陀籤で負けてしまったので今週はアリヤが週直を務めている。
「国語教員室は、三階……だっけ……」
ぼんやりとアリヤは階段を上がり、廊下を歩く。三階は三回生の教室が立ち並ぶ。自分達よりも年上なせいか、廊下に落ち着いた雰囲気があるのも事実だった。
「あったあった、教員室」
引き戸の窪みに手をかけて、右に動かそうとしたその時に。内側からがらりと扉が動いて。
「…………あっ」
見上げるとは言わなくても。自分より顔半分くらい背が高いなというくらい。
ではなく。そんな事は関係なく。
「えっ、あ……」
あの人。教員室から出て来るなんて。
一体何が。週直なのだろうか。
それにしては何も持っていないような。
「……失礼します」
何もかもを避けるように彼は扉を抜けて、廊下を静かに歩いて行く。その後ろ姿を一通り見送ってから、ふと、自分も教員室に用事があることを思い出した。
「妹熊先生」
妹熊トキノ先生、だったか。国語の教師らしい、雅な名前だなと思っていた。
「あ、あら日暮野君。ええと、プリントよね、そこの机の上にあるから持っていってね」
「あ、はい……」
トキノは何かを隠したような、そんな雰囲気だった。
それは気のせいなのかそうでは無いのか、まだアリヤは事情を知らない。
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