01.桜風

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 何の進展もないまま大型連休に突入したものの、アリヤには特段の予定もなく。  学園に行く用事もなく。トモハルと駄弁ろうかと思ったがそう言えば部活の練習試合が、とか言っていたことを思い出した。 「本屋でも行こっかな……」  怠惰の限りを尽くしてはいけないと、アリヤは無理やり身体を起こし、誰かに会ってもギリギリ大丈夫、という具合の適当な服装で家を出る。  初夏の昼下がりは、暑さと涼しさが同居する不可思議な気温に雰囲気。  薄手の羽織物でも持ってくればよかったかと一瞬後悔したけれど、まあ別に、とその後悔を振り切って。  駅前の本屋に吸い込まれる。  何気なく雑誌のコーナーを彷徨いてみて。車、パソコン、語学、旅行……雑誌は無数にある。様々なニーズがあるのだろう、これは売れるのか?と思えるようなニッチな雑誌も散見される。 「――――あ」  目に飛び込んできたのは、若いクマの女性と思われるバイオリニストが表紙グラビアを飾る、クラシック音楽の専門誌。  白いブラウスに黒く長いスカート。業界お決まりのドレスコード、というやつなのだろう。 「こういうのも、あるんだ……」  手に取って、ぱらぱらと捲る。  稀代の新人プレイヤー特集。これから台頭しそうなプレイヤーの顔写真やらインタビューやらが数ページに渡って掲載されている。 「あの人も、そのうちこういうのに載ったりするのかな……。あ、若しくはもう」  既に、プロなのかもしれない。あんなに上手なのだから、と単純に思った。 「何であんな人が学園に居るんだろう……」  留学とか、しないんだろうか。  あの実力。パトロンが何人も手を挙げて、行きたい国の行きたい音楽院とか選びたい放題なのではないだろうか。  ただ、彼には彼なりの事情もあるのだろう。 「何で、毎日毎日、あの場所でフルートを吹いているんだろう……」  疑問は尽きない。それは興味へと変わる。  ちょっと変わった人。ただそれだけなのだろうか。  ……自分から誰かと話をしてみたいなんて、久々に思った。  それは憧れであるのか、はたまた他の感情なのかは、今はまだわからない。  退屈だった大型連休も過ぎ去って、変わらない日常がやってくる。  あの人は変わらず放課後にフルートを吹き、アリヤはベンチでぼんやりと座る。ただ少し変わってきたのは。  アリヤは譜面を持参するようになった。相変わらず音楽を聴くことはできないけれど、眺めるだけで、懐かしい気持ち、楽しい気持ちに包まれる。  アル・コルディアの第一番、第三番も譜読みをしながら聴いてみたりする。なるほどなあと感心しながら、あの人の完璧な演奏を楽しんで。  ただ、やはりこれではいけない、と思い始めるようになった。何も変わらない。遠くから見ているだけの自分。 「…………」  声を掛けたら、戻れなくなってしまうかもしれない。  もう、放課後、いつものように演奏を聴けなくなってしまうのかもしれない。  いつ姿を消してしまうか、いつ留学してしまうかもわからない。  なんて、発想は飛躍し続けるけれど。  でもやはり。あの人は自分のことなんて、無造作に生えた木々と同じようにしか見ていないだろう。それならば。 「…………」  例えば。  意中の異性に恋の告白をする時には、このような心持ちになるのだろうか。  普段は気にも留めないのに、こういう時だけ必要以上に相手の立場に立ってしまう。 「いきなりこんなことを言われたら、引かれてしまうかも」 「気持ち悪いと避けられてしまうかも」  不安が心を覆うけれど。でも、明日いなくなってしまう、今日が最後の機会になってしまうのだとするならば。  ――今日なんじゃないか。今しかないんじゃないか。  やるかやらないか。正直になるには勇気が要る。  あの時、退部の届けを出したあの時以来。  心臓が波打つ。手も震えて、何だか感覚がなくなりつつあるような気がして。でも。  ――今しかない。思い立ったら、吉日なのだ。  明日には回せない。そんな衝動がアリヤを突き動かす。  演奏が止んだ。帰り支度の時間なのだろう。もう時計を見なくても、何となくわかる。  迷惑ではないかと思っていながらも。砕けるなら今日で。砕けるなら今からで。  手にした譜面をうっかり鞄にしまわず小脇に抱えたまま、アリヤは荷物をまとめて立ち上がる。  震える足、一歩一歩進む視界の中、少しずつ大きくなる、あの人の姿。  距離は三メートル。その時はやってくる。  立ち止まる。ざっ、と靴がアスファルトに食い込む音がする。何かに気付いて、彼がゆっくりこちらを向いた。 「………………あ……、あの」 「………………?」  初めて、きちんと目が合った。 「えっと、その…………」  頭が真っ白になる。もう少し考えてから、準備をしてから飛び込むべきだった。ただもう遅い。  話しかけてしまった。歯車は回り始めた。どう止まるか、どう転がるかはもう、わからない。 「………………何?」  予想していたよりは僅かに高めの声。ドスの効いた太く低い声だと思っていたから。 「あっ、その、ええと…………」  そう言えば、衝動だけで動いてしまったから、何を話そうかなど何も考えていなかった。ただの不審者になってしまう。  完全に舞い上がって。顔も熱いし足は震え続けている。頭は回らない、いや、回っている。回り続けて、逆にショートしそう。目眩もしてきた。  一体自分は何をしているのだろうか。 「なんか用事?……黙ってちゃわかんねえよ」  初めて聞いた肉声は、なかなかに鋭かった。 「もしかして君……何だか、毎日向こうで聴いてくれてるみたいだけど、感想でもくれんの?」  アリヤから視線を逸らした。なんて無愛想なのだろう。  彼は頭部管を外して、ガーゼをロッドに巻いて、ゆっくりと差し込んで行く。専用のペーパーでタンポの水分を取ってから、キィと管をクロスで撫でて。 「立ってちゃわからないし、用がないなら俺なんかにーー」 「そ、その、えっと、よっ……」  ――――用事!あります!  風が吹いた。夏の色を含んだ風。  生温かくて、でも爽やかで。幕開けに相応しかった。 「………………?」  多少。多少興味深げに、彼はアリヤを見やった。ただ、すぐにまた視線は逸らして、楽器の手入れを再開する。 「何だい、用事って。俺、あんまり今日時間無くて――」 「あ!あの!せ、せ……先輩、の……」  この際だ。全部言ってしまおう。受け止めてもらえるかはわからないけれど。  そもそも独りよがりな思いだから、これでいい。話しかけてしまった。もう、引き返せない。  今更、なんでもないです、なんて言おうものならそれこそおしまいだろう。  えっと。  第三番。毎日聴いてる……んですけど、すごくかっこいいです。  特に、二十八小節目から三十六小節目の、あの難しい部分、すらっと吹けててすごいなって思います。  四十八小節目から五十六小節目までのスラーのフレーズ、きれいで、ふわあってします。  啄木鳥の歌は、本当に啄木鳥が木を突くような情景が見える鋭い音が素敵だなって思って。  棚引く雲のロンドは、本当に空に浮かんでいるみたい……優しい旋律に溶け合う息遣いが繊細で。  だから。ずっと、吹いていてください!  もっと、先輩の音が聴きたいんです! 「………………」 「………………」  言い切った、ような、気がする。  もっとたくさん、伝えたかったことは有ったような気がするけれど、よくもまあギリギリの状態でここまで捻り出せたなと自分で自分を褒めてあげたいくらい。  ボールは投げた。どう、返ってくるのだろうか。心臓が血液を押し出す感触が、十二分にわかる。  ――――そう。  実に簡潔な返しだった。なんて、何て無機質な返事なのだろう。 「…………え……」 「言いたいことは、それだけ?」  随分な物言いだと思った。出来る限り最大限の賛辞を述べたような気がしていたけれど。  届かないのか。不必要だったのか。そんな言葉はもう、浴びるほど聞いているのか。 「………………」  彼は黙り込んだ。視線を右から下へ、下から左へ。アリヤを、視界に入れないようにしているのがわかる。 「…………と……」  突然すみませんと頭を下げてから、妙に冷静になった。全てが終わった、と思った。これで、良かったのだろうか。  通り過ぎようとして、南門へ向かおうとした。その時だった。 「ま、待って!」  呼び止められる。振り返る。  あの人は立ち上がっていた。大きい。背丈もあるし、横幅もある。厚さも十分で、大きな大きな着包みのよう。 「あ、えっと、えっと……そ、その……」  ――――――ありがとう。 「…………えっ……?」 「そういうの…………い、言われ慣れて、無くてさ。どうすりゃいいかわからなくて。強気で…………ごめん」  目はやはり合わせてくれない。ただ、最後にちらりと、ちらりと。眼鏡の奥、翡翠色の瞳が見えた。 「別にそんな遠くで聴かなくてもいいから。見張られてるみてぇで何だか気持ち悪ぃし」  彼は最後にそう言った。それはつまり、もう少し近くで聴いていてもいいということなのだろうか。 「…………あ、あのベンチでも……?」  南門の手前にあるベンチを指差して。図書館前のベンチよりは遥かに近い。 「…………好きにすれば」  ――そんな風に近づく、ふたりの距離。
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