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02.孤独なソリスト
それから幾日か経って。ふたりの距離は一歩一歩近づいているのはわかった。
ただ、未だにアリヤは「先輩」の名前を知らない。だから。
「――先輩」
「別に俺、君の先輩じゃないし」
「でも、僕より年上だと思うので」
だから、先輩って呼びます。
「まあ、いいけど……」
「……僕、その……」
勇気、出さなきゃ。折角のチャンス。
「ひ、日暮野アリヤって言います。一回生で。入学したばかりで。まだちょっと慣れないことも多くて」
「ふーん」
「あの、もし良ければ、先輩のお名前、お伺いしても……」
「それ、聞いて、どうすんの?」
その返答は、余りにも冷たい。
「あっ、え、いや……お名前とか、聞いておいた方が、便利な時もあるかなって……」
アリヤは慌てながら説明をする。
彼は、ふう、と息を吐いて。無言になった。視線を上に下にと、落ち着かない。
左の人差し指で、頬を掻いた。それから、彼は言いづらそうに。
「…………絶対、笑うなよ」
「笑う?えっ、どうして……」
彼は黙り込んで、何かを考えて。それから。
「…………ら、の……」
「……?」
「……ソラノ。あ、姉熊……姉熊ソラノって……言う」
ぽつりと、言った。
「あ、あねぐま……? ソラノさん……?」
「……女みてえな名前だろ。ソラノ、なんて」
俺、あんまり好きじゃねぇんだ、自分の名前。
「それに、俺はウサギなのに名字が熊。明らかに変だろ。矛盾の塊じゃんって思う」
「そうですか? 何かこう、なるほどなって雰囲気なんですけど……」
先輩、熊みたいに大きくて。
「そう?」
「僕なんて『アリヤ』ですよ『アリヤ』。音楽用語を名前につけるの、やめて欲しかったです」
「ふーん。……なるほど『アリア』をもじったのか。いいじゃんそれも。そっちの方がいいじゃん。乙な両親じゃん」
「そうですかね」
そんな他愛も無いやりとりも、出来るようになった。
さて。ソラノの名前。
何か、そう言えば、昔どこかで、聞いたことがあったような気がしていた。
父親の書斎で、使い慣れないパソコンに向かう。検索したいことがあった。
キーボードで、検索サイトのボックスにタイプする。
――――姉熊ソラノ。
エンターキーを押下して。検索結果にざっと目を通してみる。
なるほど。確かに。そんな感じはしていた。
画面に表示されたのは、実に輝かしい栄冠の数々。
数年前、突然表舞台に現れて、あらゆるジュニアのソロコンテストの頂点を総舐めにしていった「孤高の新星」。
段違いの表現力に、誰もが注目した――。
彼がどの奏者に師事したのか、どこの音楽教室に所属しているのか、誰にもわからず。コンテストへの参加も自由枠。
当然ながら、この年齢にしてこの実力、将来への期待と投資として、多数の楽団からも引く手数多。何と、特例で、コンサートマスターとして起用する、といった待遇まで提示した団体もあるようであった。
そんな彼は、二年前のとあるコンテストを最後に、ぱたりと表舞台から姿を消して。
その後の進退は、全くもって不明――。
「――と、言うことみたいですが」
「ふーん」
何だか、有る事無い事書かれる時代なんだな、とソラノは頭の後ろで手を組んだ。
ベンチにふたり、腰掛ける。今日の練習はどうやら終了で。
南門前のベンチから、アリヤはゆっくり寄ってきて。遠くで聴くだけでなく、二言三言、コミュニケーションをとるようにもなっていた。時にはソラノの吹く譜面からの確認も任されるようになっていて。
観客がいた方が練習になる、とソラノがそう言ったから。
「まあ、ジュニアのソロコン荒らしした時期はたぶんあったかなあ。それは覚えてる。あと『孤高の新星』?ああいう二つ名みたいなやつ、この業界って付けたがる。揃いも揃って厨二病かよって思っちゃう」
あとはまあ、表舞台から姿を消した、とか。
「はあ……」
「姿を消した、って言うのは第三者目線から見た場合の話だろ。俺は別に姿を晦まそうとかそういう意図でそうしたわけじゃ無ぇし。でも結果だけ見れば、そう見えるのかも知れねぇな」
少し斜に構えて、攻撃的で、でも的を得た言葉。常に本質を考える人物なのだろうとアリヤは思っていたけれど。
そこからは無言になって、ソラノは楽器を片付けようとしている。腿の上にフルートを置いて、伸びをした。
傍に見慣れない青い上製本があって。何かの文章が金色の箔押しで印字されている。英語だろうか。もちろん、詳しくは読めない。ただ。スケッチブックと書いてあるような。他にも断片的な単語が書いてあることはわかった。
「先輩、それは……」
「これ?」
本の背を持ち上げて、ほれ、とアリヤに手渡した。
「コルディアン・スケッチブック。そうだな、えっと、アル・コルディアの小品曲集みたいなそんな感じの、クソみたいな本」
「小品曲集……そういうの、あるんですね」
「フルート単独の詰め合わせなんて、ちょっと珍しいと思うけど」
「見てみてもいいですか?」
「ん……ああ。……そのために、持ってきた」
自分のため……?
「譜面読むの、好きそうなのかな、って思って」
それだけ言うと、ソラノは黙り込んで。
「………………」
また。また視線を合わせない。強気なくせに薄っすら強がって、恥ずかしがる。存外、内弁慶な人なのかも知れない、とアリヤは思った。
ページを捲る。それにしてもこの譜面の数々は。
「なんか、目がちかちかしちゃいます」
率直な感想だった。息つく暇もないほどに続く連符が、取っ付きにくさを想起する。
時折混じる臨時記号がいじらしい。ざっと流し読むだけで、どっと疲れを感じる。
気難しいとされた作曲家渾身の小品曲集、なかなかの難解さに満ちている。
「………………えっと」
ぽつりと、ソラノはこぼす。何かを言いかけようとして、また黙り込んだ。
「先輩?何か……」
「えっ……と……」
――何が、聴きたい?
「え……?それはどういう……」
「何か、適当に選んで」
――その……吹いてやるって、言ってんの。
「?」
「……サイトリーディングの、練習にすっから」
サイトリーディング、つまりは譜面の初見演奏。最も集中してページに向き合う時間になる。
この本から感じる真新しさ。もしや、今日初めて持参して、初めて開いたのだろうか。だから、練習になると。
「…………え……」
本物の実力者の初見演奏に立ち会えるなんて、なんたる幸運だろうか。それも急に。
緊張してきた。心臓がばくばくする。本を持つ手も震えてきて。
「あ、えっと、その……」
適当に何ページかばさばさと捲ってみる。ふと、ハ長調の譜面が目に飛び込んできて。これだ、と思った。
「じゃ、じゃあこの曲を」
「ん、十七番な」
そのまま、見えるように持ってて。
「え、あ……」
「サイトリーディングなんだから、見えなきゃ吹けねぇって」
「こ、こうですか……?」
ソラノの視線に直角になるように傾けて。見やすい位置に固定して。それでいいよ、とソラノは言った。
「………………指示テンポ、ちょっと速ぇな」
右足で、地面をかつかつと鳴らす。多分これくらい、と呟いた。確かに、そのくらいの速さ。
ソラノにはリズム感もあるようで。
「ごめん、もうちょっとだけ、譜面上げて」
「あ、はい」
短いやり取りの後。ソラノの目が、譜面を見つめる。真剣そのもの。
左から右にと動く視線にすら圧がある。気迫もある。もはや感嘆すべき集中力。
よし、とソラノは小さく言った。
もう一度、右足で地面を鳴らして。それから。
「いち、に、さん、し…………」
ご、ろく、しち。
特有の動き。フルートの端を下から上へ跳ね上げて、出だしの拍子を取る。ふっ、と鋭く息を吸い込む音がしてそれから。
駆け上がるグリッサンド。突如として始まるタンギングの嵐、その後には渦を巻いて上がり下がりする旋律。
練習曲とは違う。楽曲としてのメロディー。技巧だけではなく、表現力も問われる。
転がるように走り抜いた冒頭の展開から、実にゆったりと牧歌的な主題モティーフに変わる。
テレビで見た偶に観るドキュメンタリーに出てくるような、民族衣装に身を包んだ原住民が、家畜の群れの先頭で楽器を吹き鳴らし歩く、あの感じ。
――上手い。なんて、上手いのだろう。
心からそう思う。それから。はっとする。
もしかして。もしかしなくても。先輩の一番得意な吹き方は。
ハイテンポなパッセージを正確に吹き鳴らすのではなくて。
その大きな身体と、充分すぎるほどの腹筋と肺活量で、一気に、大らかに、伸びやかに歌い上げることなのでは。
普通のプレイヤーなら減衰してしまうような長さの伸ばしも、先輩なら出来る。それに、実に自然で細やかなビブラート。指回しをするよりも、こちらの方が先輩自身の特性を活かしているのでは。
こんなにもまっすぐで、曇り無く誠実で。
音はその奏者の写し鏡。だから。きっと先輩は、すごくすごく純粋で、一生懸命な人なのではないかと。
アリヤはそう思った。
晴れた空の下、その銀色の笛に太陽のシルエットが映り込んで光る。
手元なんて見ていない。見ているのは目の前の譜面だけ。齧りつくように、夢中で音符を追いかける。アーティキュレーションを瞬時に見分けて、フレーズのひとつひとつを本当に、丁寧に吹きこなす。
眼差しは真剣で、アリヤは息を呑む。
それだけの技量がありながら。ただやはり、吹き切った音の後処理は気になって。それだけが、本当に惜しいと。
音は止む。吹き終わる。
リッププレートから口を離して、開口一番。マジ無理、とソラノは言った。ふう、と一息ついて。
「何この譜面。クソ譜面。完ッ全にソロ向け曲の極みみたいな。俺こんなに上手なの、俺の超絶プレイ見てくれ、って感じの当て付け感が半端ない。こう言うの好きな人もいんのかな」
目を細めて、譜面を睨む。ほんっと偏屈、とソラノは付け加えた。
「先輩、すごい……サイトリーディングだなんて思えないんですけど……」
「そう?すっげえガタガタだった。頭のここらへんの小節なんて、特に」
その太い指が示すのは、冒頭八小節。
「この速さでこんなに指回しながら、このディナーミク。あり得ないっしょ。書き間違えたんじゃねぇ?それにここも、アクセントとスタッカート間違えてんじゃね?物理的に考えられねぇ」
「………………」
ぷっ、と思わず笑ってしまう。
もっと怖い人かと思っていたのに。意外と親しみやすくて。それに、熱心で直向きなんだと、そんな風に思えて。
「あ…………」
アリヤの表情を見て、若干居心地が悪くなったのだろうか、ソラノはフルートをいそいそと片付け始める。そこからはお互い無言になって。
風は吹かない。初夏の温かさが、ふたりを包む。
「……俺、今日ベンキョー、してくから」
「あ、はい」
アリヤとソラノの放課後は、いつもここまで。何だか不思議な関係。表現し難い空気感。
一定の距離を保ちながらも、少しずつ少しずつ近づくふたり。
ただ、まだ、一緒に帰ろうとか、そんな事は言えないのだ。
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