02.孤独なソリスト

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 放課後。  今日のソラノはいつもと違う、楽しそうな音運びの曲を吹いている。  跳ねるように。ウサギがスキップしているかのように。  こう言うのも練習だから、と彼は言うのだろう。ストイックな性格なんだなあ、とアリヤは思う。  ソラノはまるで妥協を知らない。同じフレーズを何回も何回も、飽きるまで、納得いくまで吹き続ける。  自分の中で確固たるイメージがあって、そこに到達するまで、ひたすらに磨き続けているのだろう。  ただ、ぴたりと音が止むのは、帰る時間だから。  殆どぶれがない。一体どんな体内時計をしているのだろう。アリヤは気になって仕方がない。 「練習は、そもそも練習だから」  無理をする必要はないし、最低限のことはやれば、後は好きにすればいいと思う。  やりたいからやる。やりたくない時はやらない。 「……上手になりたいって思ったから、俺はそうしてきたし」  ソラノは次第に、自分のことを話すようになってきた。それがアリヤには嬉しくて。  あの日。ほんの少しの勇気が風を呼んで、波を立てて、全てを動かした。まるで壮大なオーケストレーションの、組曲のようだと思う。次はどんな展開が待っているのかわからない。  ふたりの第一楽章があんな無理矢理な出会いだったのだとしたならば、第二楽章は、今現在なのかもしれない。  第三楽章には、果たして何が待っているのだろうか。 「先輩、さっき吹いてた曲、何ですか?」 「……あれ?キルシャの『マジカルハッピー・スプリンクル』ってやつ」 「キルシャ?マジカルハッピー?」 「ああ。キルシャっていうちょっとマイナーな作曲家なんだけど。突飛で、予想がつかない変な譜面ばっかり書いてて、面白いんだよね」 「へえ、そういう……」  聞いたことがない作曲家。そこそこに音楽オタクであったはずの自分でも知らない作曲家がいる。やはり時代は移りゆくものなのだ、と寂しくなった。 「キルシャは、曲毎に描いてるテーマがはっきりしているから練習もイメージもしやすいし、譜面も素直で簡単。だから好き」  好き、だなんて台詞をこの人は言うのか。そのこと自体が意外だった。  好意的な表現なんてしないと思っていたし、そもそも、失礼ながら、喜怒哀楽といった基本的な感情に頓着しないと思っていたのに。 「キミは何だか意外そうな目で、俺のこと見る時があるよね」 「えっ、あ……」  バレている。自分の顔色は、分かりやすいのだろうか。 「ま、いいけどね。どう見られようと」  ソラノは傍に置いていたタンブラーの蓋を開けて、その中身を呷る。それから。 「えっと。その譜面、ちょっと見てて。今から吹くから」 「え?あ、はい……でも、どうして……」 「暗譜、したから」  なるほど。これも練習か。ただ、この曲は、この譜面は。 「なんか、妙にアクセントが多いと言うか、そこらへんに違和感あると言うか……不自然な……」 「あ、やっぱそこ気付く?」 「えっ?あ、ま、まあ……何か、わざとこんなに増やしてるんじゃないかってくらいに見えますけど……」 「それがこの曲のミソなんだよね」  ――マジカルハッピー・スプリンクル。  誕生日を迎えた小さな子どもがいて。プレゼントに新しい玩具をもらって。  それは薇で動くブリキの人形なんだったとか。  玩具だからそんなに本格的に動くわけではないんだけど。  ぶきっちょに歩く様が、その子にはものすごくワクワクドキドキして見えて。  お父さんお母さん、プレゼントどうもありがとう!こんなに面白くて興味深くて、僕は幸せハッピー!  そんな気持ちを小さな身体に詰め込んでも、すぐに弾け飛んじゃう。  けれど、そこがかわいいよね。 「……って曲なんだって」 「へえ……ひとつの曲にそこまでストーリーがあるんですね……」 「まあ。うん。大体さ、音楽やるにあたってさ。そういうの、知っておかないとさ」  意味なくない? 「…………」 「例えばさ、キルシャがどんなことを思って、何を想ってこの曲を書いたのかをさ。読み取って想像しないと、吹いてても面白くないんじゃねぇかな。そういうことを考えないのなら、パソコンとかにプログラミングして大音量で再生すればいい」 「…………」 「『演奏者』が吹く意味を考えて奏でないと、深みは出ないんじゃないかって、俺、そう思ってんの」 「……なるほど……」  初めて聞く、ソラノの思い。それは至極原始的で、当たり前。大前提とするべき事柄。  初心忘れるべからずといったところか。月日が経つにつれて次第に薄れてしまう考え方だけれど、ソラノはきっと、何か新しい譜面に手を付けるたびに、こういったことを考えるのだろう。 「そこまで考えたことって、あまり無かったので」  先輩ってすごい。 「別に、すごくなんて、ねぇよ」 「やっぱり吹いている時って、目の前の譜面にいっぱいいっぱいで。その背景とか、どうしてこんなモチーフになっているのかなんて、そこまで頭が回らなくて」 「まあ、若い時ってそうだと思うんだよね」  特に、ジュニアの時なんて。  自分より少し年上なだけなのに。それなのに「若い時」だなんて。  一体、この、姉熊ソラノという人物に何があったのだろうか。  そこまで思わせてしまうほどに。そこまで、追い詰められてしまうほどに。  マジカルハッピー・スプリンクル。  楽しい気持ちと嬉しい気持ちを織り交ぜた、玩具箱のような曲。  こんなに明るい曲も軽やかに吹きこなす。ソラノはあまり感情を表に出さない性格なのかもしれないけれど。  でも。そのきらきら輝く音からは、ソラノの気持ちが伝わってくる。  音楽が好きなのだろう。フルートを吹くのが楽しいのだろう。少しだけ笑顔がこぼれたのを、アリヤは見逃さなかった。  その横顔に、自分の心が解れていくのがわかる。  夕暮れ。空は鮮やかな不言色。  遅くなった。ぽつぽつとではあるけれど、他愛もない会話もできて。  僅かではあるけれど姉熊ソラノという人物を理解できた気がするし、それとは別に。  日暮野アリヤという人物を理解してもらえた気がする。だから、今日は満足で。温かな気持ちになって。 「そろそろ帰りましょうか。先輩は自習で――」 「えっ、あ……んん、その……」  今日のソラノはいつものような雰囲気ではなく。何かを迷っているような。 「?」  自習はしないのだろうか。まっすぐ帰るのだろうか。 「えっと、その……」  どうしたのだろう。何か、タイミングを見計らっているような。 「す、すごく……その、唐突、なんだけど……」  ぼそぼそと、喋りだす。 「?」  酷く可笑しな風が吹く。背中を後押しするような。そう、何かが変わるような。 「あのさ。……き、キミさえ! よっ、よ、よければ……!」  怯えるように目を強く瞑って。何かに怖がっているような。でも、意を決した声色で。  何かに一歩踏み出す勇気を、どうにか振り絞るかのように、ソラノは言放つ。  ――い、一緒に。一緒に……帰んねぇ?  ボールを蹴る音が遠くから聞こえた。吹奏楽部が、合奏をしている音も聞こえた。  烏の鳴く声。抜ける風。生温かい、初夏の風。  混ざりあう音の中でひと際大きく、ソラノのその短い言葉が、アリヤの耳の中を反響する。  時間が止まる感覚があった。何を言われたのかよくわからない。  ――今、この人は、何と、言ったのだろうか?
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