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01.桜風
そこそこに古びた門を過ぎると、随分年季の入った、赤瓦屋根の校舎が見える。住宅街の真中に位置するわりには、緑の多いこの学園。ここで新しい生活を送るのか、と何故だか穏やかな気持ちになった。
日暮野アリヤは、平均よりも僅かに背の高いブリタニア・ペティット。真白の毛に覆われて、ひょろりとした体躯に紅い瞳。
真新しい学生服に身を包んで、この日、入学式を迎える。
「アーリヤっ! おはようだぜ!」
「あー、トモハル。おはよおはよ」
幼馴染のトモハルも同じ学園に入学する。大変に人懐こいシェパード。ウサギの自分とは幼少時からいつも一緒に過ごしてきた。背はアリヤよりも頭ひとつ低く、誕生日も二ヶ月アリヤの方が先なので、まるで弟を扱う気分。
県内ではそこそこの偏差値のこの学園に、トモハルは猛勉強を重ねてなんとか合格を勝ち取った。
「いやーどうにかこうにか合格できてよかったぜ。ほんとにほんとになあ。アリヤってばいつの間にか勉強してるんだもんなあ。焦ったぜほんとに」
頭の後ろで腕を組んで、トモハルはけらけらと笑う。
いつもそう。
何だかんだと言いながら、窮地もどうにか乗り切ってしまうトモハルの運命力の高さ。アリヤは一目置いていた。
「もうここまでくるとさ、腐れ縁どころじゃないよね。俺たち、人生添い遂げちゃう? 俺、用意も覚悟もできてるよ」
突然変なことを言うものだから。どこまで本気なのか。
幼馴染なのに時折、よくわからなくなる時もある。
「それでも別に構わないけどなあ、俺はぁ」
「さっさと彼女作って、楽しい学生生活をエンジョイしな」
「アリヤって時に残酷なくらい冷たいよね」
「あのねえ……」
「でもさあ、このガッコー男子校だし。相当頑張らないと彼女なんてできないんじゃない?」
「そうかなあ。トモハルならすぐできそう。サッカー部にでも入って試合で格好いいところでも見せれば一発だって」
「でもー、俺はアリヤ一筋だもーん」
「……はあ?」
いつもこんなやりとりをする。まるで家族のように。
時にうざったく感じることもあるけれど、基本的にはアリヤもトモハルのことを少し特別に思っている節はある。
例えば、トモハルに彼女ができたとしたらまず祝福はしたいけれど、悔しいなとも思う。トモハルが詰まらなさそうにしていたら、構ってあげないと、と思う。結局のところふたりは幼馴染ということもあり、今まで持ちつ持たれつの関係で、呑気にやってきたのであった。
ただ。今日から新しい生活。これまでとは何かが変わるかもしれないと、そんな予感がしていた。
空を見上げると、桜の花弁が風に舞う。
「ちぇー、遂に俺たち、離れ離れかあ」
クラス分けの掲示板の前でトモハルは肩を落とす。
運命力は流石に試験合格で使い果たしたのだろうか。
人生で初めて、アリヤと別のクラスになってしまったことがショックだったか、普段元気にぴんぴんしているトモハルの尾も、この時ばかりは塩らしくなっている。
「トモハルならいつもみたいに、すぐに友達できるでしょ」
「でもさびしいなあ、アリヤが居ないと。ほら、日常生活に張り合いがないって言うか、何というか」
「そうかなあ。でも、まあ……僕も……」
トモハルが居ないと、クラスから浮いてしまうのでは。そんな不安は過ぎる。
いつもトモハルに振り回されて、皆の前に引きずり出されて。所謂ムードメーカー兼トラブルメーカー。トモハルの立ち位置はいつもそこ。ただ、その爛漫さ故に誰からも憎まれず愛され、常に人の輪の中心に居た。そんなトモハルの手綱を握る役割を半強制的に任されて、クラスで浮かずに済んでいたのに。
トモハルは運動神経も全般的に良く、部活動の助っ人には引っ張りだこ。嫌な顔せずに承諾してグラウンドを駆け回る姿を見て、単純にアリヤは感心していた。
一方自分は。インドアで若干根暗で。ただひとつ他人に誇れるものといえば、楽器が演奏できるということだった。
ピアノは幼少期からそこそこ嗜んでいた。弱くはあるが絶対的な音感を持っていたし、そしてウサギ故に聴力は他の種に比べて並外れて高い。
楽器のチューニングズレを瞬時に把握でき、即座に指摘できるほどに、対応力が高かった。その聴力と素養を買われて吹奏楽部に所属していたのだが。
ある時、諸般の事情で離れてしまった過去がある。
あんなに。心の底から好きだった音楽を、記憶の彼方に置いてきてしまった。そんな過去がアリヤにはある。
だから。もう。音楽には極力関わらないようにしようと決めていた。
「アリヤさあ」
「ん?」
トモハルが話しかけてくる。別々のロッカーに靴を仕舞って、上履きに履き替える。
古ぼけたリノリウム。きゅきゅっと擦れる音がした。
「部活、何入るか考えてる?」
「部活、かあ……」
考えてもいなかった。
学業以外にもそういえば部活動なんてものに所属しないといけなかったことを思い出した。これまでは音楽一筋で生きてきたけれど、そうも言ってはいられない状態になる。
帰宅部……はあるのだろうか。そこそこ自由な校風の学園だから、きっとあるだろう。
春休みの間に、吹奏楽部やら合唱部やら、音楽系の部活動からスカウトのハガキは送られてきていたのは事実だった。
通知表の成績優秀者だけ抜粋してランダムに送付していたのだろうが、ちらっと見て、ゴミ箱に捨てた覚えしかない。
それに、もう、音楽は。
「またやればいいじゃん。吹奏楽。銀色の笛。アリヤ、あんなに好きだったのにいきなりやめちゃうんだもん。あの時はびっくりしたなあ」
「フルートだってば。いい加減覚えて。でも僕、もう……」
もう、フルートを手に取るつもりは。音楽には、後ろめたさと、辛い思い出しかないのだから。
「やっぱり、何か新しいことを始めてみようかなあ。何がいいと思う? 幼馴染から見た率直な意見を聞きたい」
「うーん。アリヤはやっぱり音楽してる方がイキイキキラキラしてると思うけど。強いて言うならそうだなあ……ボランティアとか……? なんだかんだで面倒見とかいいし」
「ボランティアかあ……」
ゴミ拾いとか、施設訪問とか。そういえば慰安演奏みたいなものもあったような。慰安演奏なら良いかもしれない。
競うのはもう懲り懲り。ボランティアかあと再度呟いた。
「でもさあ、あんまりボランティアってピンとこないな。子供は好きだけど……他にもいろいろあると思うし、オリエンテーションとかさ、部活勧誘とかで見てみようよ」
「そうだねー、そうしよっか」
廊下を歩きだそうとしたその瞬間。耳がぴくりと動く。微かに聞こえる音。覚えがある。これは、と胸がざわついた。
「どしたのアリヤ」
「んん……アルヴェルマール」
聞き覚えのある、それは。何度も何度も練習した。
吹奏楽に触れたことがある者なら、まず誰もが耳にしたことがあるであろう、最もポピュラーな曲のひとつ。フランスの著名な作曲家バルナーズの、アルヴェルマール序曲。
キャッチーで覚えやすいメロディーが特徴的。
序曲と言う名の通り、演奏会の一曲目に起用されやすく舞台映えし、客受けも非常に良い。入学式で演奏されるのだろうか、そこそこの仕上がりであるように感じられた。
「この曲のフルート、大変なんだよな……」
終盤パートの最も盛り上がる部分、主題モチーフの背後で文字通り風のように駆け抜ける、強烈でハイテンポな旋律。
自分も当時、随分苦労した覚えがあったのを思い出す。
聞こえるのはやはり、ぎこちない紡ぎ方。刻まれるテンポに食らいつく必死さが伝わってくる。
「アリヤ? 行かないの? 始まっちゃうよ?」
「あ、うん……行く行くごめん」
音が聞こえた方角は南西。その方角には部室棟でもあるのだろうか。
入学式はつつがなく。
校長の詰まらない式辞、生徒会長の激励の言葉、クラス担当教員の紹介。そして吹奏楽部の演奏。
先ほど耳にした通り、アルヴェルマール序曲は式の結びに演奏された。男子校特有の荒削りな音運び。ただ、伸び伸びとしていて柵のなさを感じる。率直に「いいな」と思った。
自分がかつて所属していた組織とは違う。厳格な規律に縛られて、頂点だけを見据えていたあの組織とは、違う。
瞬間芸術を楽しんで、皆で楽器を鳴らすことを楽しんでいるように聴こえた。音程が、望まれたピッチで当たらなくても、僅かに拍がずれていても、その事自体が、その楽団特有の味になる。大事なことはまず楽しむこと。
音楽が「音が苦」にならないように。
演奏を聴いて、なんとなくそんなことを思い出して。アリヤは酷く懐かしい気持ちになった。
今日の予定は入学式と、クラス別に分かれての顔合わせのみ。「一緒に帰ろう」とトモハルからメールが届いていたので「玄関の前で待ってて」と返信した。
廊下。お世辞にも綺麗な建物だとは言い難い。壁をなぞればまるで、塗装が剥がれて落ちそうなひび割れ具合。
なぜこの学園に行きたいと思ったのだろうか。単純に、今までの自分とはまるで異なる空間に身を置いてみたかったからなのか。
電車通学に憧れていたこともあった。かと言って朝早起きして電車に乗っていたいほどの遠距離通学をしてみたいわけではなく。友人は都会に憧れて少しでも上り方面の学園を選ぶものだから、敢えて下ってみて、そこそこの学び舎に入学して、そこそこの小さくまとまった生活を送るのも悪くないのかもしれないと何となく思っていたからなのか。
逃げかもしれなかった。全てから逃げたくて、全てをリセットして。新しい自分を紡ぎ出す。
おそらくアリヤはそうしたかった。音楽とは関わらず、新しい何かを見つけたいと思っていた。
「真っ直ぐ帰る? どっか寄り道でもしてみない?」
「うーん、どうかなあ……アリヤは行きたい所ある?」
そう言えば、最寄り駅の周りはそこそこ栄えていたから、見たことのない店もたくさんあるだろう。寄り道も楽しみのひとつとなって、生活に彩りを添えるのか。待ち受ける未来に思いを馳せて、僅かに唇の端が上がった。
校庭ではサッカー部が練習を、その向こうでは野球部が日課のような走り込みをしている。これまで音楽漬けの女社会に生きてきたアリヤにとって、運動部、男子校という環境も新鮮ではあった。
靴に履き替えて玄関を抜けて外に出る。
ざあっと突き抜け舞う、桜風。
放課後の雰囲気。各々が各々の活動に一生懸命に打ち込める、きらびやかな時間。果たして自分はどこに身を置くのだろうか。明日のオリエンテーションや部活紹介が次第に楽しみになってきた。
階段を降りて、校門へと続く道を歩きだす。
「トモハルは結局、部活、目星とかつけてるの」
「えっ俺? そうだなあー何やろうかなあ。逆に俺が文化系の部活なんてどうかな?趣向を変えて」
「絶対似合わないし、そもそも何やるの」
「アリヤの代わりに楽器とか」
「トモハルは楽器のセンス無いから、ダメだと思う」
「音楽のことだけは手厳しいんだよなあアリヤは……」
「なんていうか仕方ないよねこればっかりは……」
ふたり並んで歩く道。地面には桜の花弁がひらひらと落ち行くが、風に吹かれて再び舞い上がる。太陽は真上、十二時を少し回ったところ。若干空腹感もある。
これまで通っていたのは地元の学園だったから買い食いをする必要もなく。帰り道にコンビニエンスストアに寄ることができるようになったのも、これまた新鮮である。
確か学園には食堂も有ったはず。昼食はどのように済ませようか。何を食べるか何処で食べるか、誰と食べるか。
クラスも別になったので、いつまでもトモハルとべったり一緒とは言えなくなるだろう。新しい人間関係の築き方も考えないといけないし……と小さな悩みがぽつりぽつりと降ってくる。
その時だった。ふと、足が止まる。
「アリヤ?」
「…………え、あ、ああ」
気のせい?そんなはずはない。でも耳が「それ」を拾う。何処。何処から。
「どうかしたの?」
「あ、ああ……うん、なんでもないから」
微かに聞こえる練習曲。何処かで、誰かが吹いている。
あまりにもあまりにも聞き慣れて、耳から離れなかったフルートの音色。吹奏楽部員の個人練習か何かなのだろう。練習曲なのだから吹いていたって当然、全くおかしくはない。
ただ、その「曲」自体に感じる違和感。
「……アル・コルディア」
偏屈な作曲家として知られた彼――イギリスの著名な作曲家アル・コルディアの代名詞と言える螺旋跳躍譜面。
間違いない。これはフルートのエチュード第三番。
非常に高い難易度で、プロでさえ手を焼く「練習曲」。昔譜面を目にしたことがあったが、あまりの高度さにすぐ放り投げてしまった。相応の技術がなければ、練習にもならない。
高速跳躍、パッセージ、多彩な強弱記号。最難関の練習曲に相応しい、数ーのエレメンツ。常人ではただ譜面を追うだけで精一杯のはず。
それなのに。この音の主は、限りなく「譜面の指示通り」に演奏しているのか。テンポも表現も指定通り、音の粒も寸分違わぬ揃い具合。何処からともなく聞こえる小さな音だからはっきりとは分からないが、僅かに音圧の上がり下がりもあって、独自のアレンジも効かせているのがわかる。
――――ありえない。
失礼な話ではあるが、先程の入学式での演奏を聴いた限りでは、そんな大層な技術を持った演奏者は影も形も見当たらなかった。だとしたら一体、誰が。
「アーーーリーーーーヤーーーー」
肩を揺すられて、我に返る。
トモハルが顔を覗き込んできて、にかっと微笑む。
「また、何かビビっと聞こえちゃったんでしょ?」
「ん……んん、まあ。でも」
こんなところに、エチュード第三番を吹きこなすような演奏者など居るはずがない。きっと何かの間違い。空耳だ。
若しくは、誰かが練習用に音源を大音量で再生しているのだろうか。そんなマニアックな人物だ。アリヤも相応に音楽オタクなので、少しだけ話をしてみたいような気もした。
でも、気にしないように、気にしないように。昼飯でも食べて帰ろう。そう思うことにした。
「トモハル、何か食べて帰ろっか」
「あれっ?今日は真っ直ぐ家帰らないの」
「食べて帰ったっていいじゃん。駅前探検でもしようよ」
「おっいいねー。賛成!」
門を出るところまで足を進めても引っかかる。
音が聞こえてきた方角。レンガ造りの建物、すなわち部活棟の向こう側。胸がざわつく。湧く興味。振り切るように頭を振っても、あの微かな音は耳に引っ付いて離れない。
まだ、聞こえる。何度もフレーズを繰り返している。
誰が吹いているのだろうか。一体、誰が。足が止まる。確かめたい。聞き間違いならそれでもいい。
つい先ほど何か食べて帰ろうと言ったばかりなのに。
ころりと考えが変わってしまって、トモハルには非常に申し訳ないと思う。ただ。今。今、行かないと。
――今、確かめないといけないような気がして。
風は桜の花弁を乗せて、ざあっと、ひと凪ぎしていった。
「……トモハル、ごめん、やっぱちょっと」
「えっ?」
「今日は、先、帰ってて」
「えっ、ちょっとアリヤ? ま、待って!」
トモハルを門に残して走り出す。音の聞こえる方向へ。
まだ聞こえる。近くなる。あの建物の向こう。
……間に合って。どうか、間に合って。
だんだんと小さくなるアリヤの背中を見つめながら、トモハルはふっとため息ひとつ。その後、笑みが漏れる。
「なぁんだぁ……やっぱり」
僕は……とか言いながらさ。
「興味を捨てられてないの、バレバレなんだよね。相変わらず嘘つくの下手。アリヤって強がりさん」
トモハルは、ほっとして穏やかな気持ちになる。
「フラれちゃったし、ハンバーガー、食べて帰ろっかなあ」
肩を竦めてひとり、トモハルはアスファルトをゆく。
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