01.桜風

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 部室棟の渡り廊下を抜けて。そこそこ豪奢な作りの図書館の脇を抜ける。  聞こえる音はだんだんと大きくなってきた。  併設された自転車置き場の先には、確か、生徒会館が建っていたはずだ。普段は使われることがない故に他の建物よりも随分新しく見える。その軒下、木々に覆われたベンチ。そこからあの音は鳴っている。  息が上がる。短い距離とはいえ無我夢中に走ってきた。見つからないようにそっと様子を伺う。誰。あの音の紡ぎ手は誰なのか。  ――誰か居る。  ベンチに腰掛けている後ろ姿。  大きい。ただただ大きい。巨大な「塊」。腕はしっとりとした上品な毛並みに太陽の光が馴染んで、大変艶やかな光沢を放っている。  あれはウサギだ。  自分よりも、ゆうに一回りは大きい、若しくはそれ以上かもしれない。格別に大きい部類。その体躯に見合う大きさの長い耳がぴょこんと立っている。  そこらの服屋で扱っているサイズでは足りないのではないか。スリーエルとかフォーエルとか、それくらいの大きさのワイシャツに身を包んでいる。暑いのか袖は捲っている。  フルートを構えている。間違いないだろう。あんなに大きなウサギ、今まで――。 「ジャイアント、チンチラ……」  初めて見る種だった。存分にでっぷりとふくよかなそれは、見た目に相反して実に軽やかに、跳ねるような音を紡ぎ出している。余程の熟達者なのだろう。まるで機械のように正確な指回しとタンギング。  化け物か、と思った。  ただ、どうやら彼にも苦手なものがあるらしい。 「……吹き切った後の処理が」  僅かにぶれている。ソリストであれば誤魔化せるが、アンサンブルをしようものならば、確実に枷になるだろう。こんなにも他の要素が抜きん出ているのに、初歩の初歩、一番根底となる部分が揺らいでいる。 「……勿体無い」  そう呟いて、はっとした。自分よりも遥かに、遥かに実力が上の相手に向かって、勿体無い、だなんて失礼極まりない。そんな思いを振り払うように頬をぱちんと叩いた。  その音が果たして耳に届いたのかどうだかはわからないが。ぱたりと演奏が止まる。 「あっ、やば……」  咄嗟に身を隠して、その場から逃げ出すように早歩き、そして走り出した。あまりにも不自然だった。演奏以外には明確な音は聞こえていなかったので、きっと、届いてしまったのではないだろうか。 「…………」  先ほどまでアリヤが居た場所。その陰を彼は静かに見つめてから、ベンチの上に広げた譜面に視線を移した。 「…………やっぱ違ぇな。こんなんじゃ」  思い描くのは羽ばたくイメージ。  この練習曲は、確か、何物にも縛られない鳥をイメージされたピースであったはずだ。  もっと、もっと遠くまで飛ばす。  あの偏屈な作曲家は、この譜面に、鳥以外の何を描きたかった?  演奏者に何を練習させたいのだろうか?考えろ、考えろ自分。  空を見上げる。自分の悩みをあざ笑うかのように、雀の群れがすらりと横切るのを見据えてそれから、目を閉じて、深呼吸。  うっすらと目を開ける。昼下がりの太陽がやわらかい温かさを運んできて、ベンチは日向に照らされた。  すっかり季節が変わってしまったと思う。彼はまた今日も、過ぎ行く時間に思いを馳せる。構えていた楽器を膝の上に置くと、自然と欠伸が出た。 「…………帰ろ」  多分、大体、いつもと同じ時間。  ケースからクロスを出して、丁寧にキィと管を撫でていく。それなりに値の張る総銀のフルート。歳に似合わぬ代物だろう。そこいらの洋銀のそれよりはよほど重く、身の小さい者であれば構えるだけでそこそこに体力を使うはずだが、彼にとっては特に気にせず脱力しながら構えられる。フルートではなく最早ちょっとした棒を持っているような感覚。  昔、とある事情から譲り受けたものだった。 「…………さっきの」  顔は見えなかったが、誰かが自分の練習を、自分の音を小耳に挟んでいた。そんな気配だった。そんな感じがした。物珍しさに見にきたのだろうか。  まあ、確かに珍しいだろう。  こんなに繊細な音楽を、こんなに太々しい自分が奏でる。アンバランスな光景。  ただ、いずれにせよそんなことは関係なかった。……よくあることだったから。 「はあ、はあ……」  気づかれてしまっただろうか。別に悪いことをしていたわけではないのにどことなく罪悪感を覚えて。普通に考えて気味が悪い、自分だったらやっぱりちょっと嫌だな不気味だなと思うかもしれなかった。でも。 「……すごかった」  ほんの少ししか聴くことはできなかった。それでも。  あの音色。演奏技術はもちろんのこと、一音一音に賭けている気持ち。何を想って、何を乗せているかはわからないけれど、何か強いものを感じた。今まで自分が抱いたことのないような、何かを。  もっと聴いてみたい。練習曲だけでなくて、他のピースも。  同じ曲でも演奏者のスキルや解釈によって雰囲気は千差万別。どのように彩るのだろう。単純に気になって、疑問に思って。  また会えるだろうか?今日限りの一瞬の出会いになってしまうのか?それは少し寂しい。  ワイシャツを着ていた。学園の生徒なのだろうか。であれば、またいつか、どこかで。廊下ですれ違うこともあるかもしれない。後ろ姿しか見えなかったけれどあんなに目立つ雰囲気。きっと、もう一度見ればきっと……。  頬が熱くなっているのがわかる。これは久々の興奮と、緊張だった。
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