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学園に校門はふたつある。正門と、南門。
南門は木陰に隠れてひっそりとした佇まい。人通りも少なく、穏やかな空気が流れゆく。等間隔で植えられた桜の木は薄っすらと葉をつけて、アスファルトに散った花弁が季節の移り変わりを感じさせる。
部室棟の渡り廊下を抜けて。そこそこ豪奢な作りの図書館の脇を抜ける。
「…………あっ」
聞こえる。今日も。フルートの音色。
「……もしかして……」
昨日の人が、吹いているのかも。心拍数が上がる。急に、ドキドキしてくる。
まだ、そうと決まったわけではないのに、アリヤの中では、ほぼ確定事項になっていた。
「やっぱり、あの人だ……! あの人の音……!」
ただ、どうしようもない気持ちも湧く。
急に近づいていってはしゃいでも、怪訝な顔をされるだけ。それならばせめて、どんな人なのか、顔だけでも。姿だけでも。
一歩一歩、足を進めるたびに、聞こえる音は大きくなってくる。唾を飲んだ。
少し背伸びをして、草葉の陰から見やる。間違いない、昨日の「あの人」。
舞台上で演奏する一曲目、指揮者のタクトが振り下ろされるその一瞬と同じくらいに、アリヤの胸の中を緊張が満たす。
耳を澄ますと聴こえてくるのは。
「リーリアスの『啄木鳥の歌』か……」
聞き覚えがある。と言うのも、自分も昔そこそこに練習をした曲であったから。
フランスの作曲家、リーリアスの作曲した練習曲「啄木鳥の歌」。タンギングの粒を、啄木鳥の動きに見立てて、ただひたすらにタンギングの練習ができると言うなんとも単純なピース。ただ、単純であるからこそ小細工の効かない、立派な立派な、練習曲なのである。
「上手いなあ……」
アリヤはただただ、素直にそう思った。
まるでプロの演奏家みたい。そう思わせるだけの、紡ぐ音の艶、輝き方がある。
「もっと、聴いてたいな」
このまま通り過ぎるのは勿体無い。
他にどのような曲を、どのように彩るのかを聴きたい。思わず足は止まって、図書館の脇に佇むベンチにふっと腰掛けた。携帯電話を弄るふりをしながら、少し離れた向こうから流れてくる旋律に耳を傾ける。
次に流れてきたのは。
「アル・コルディアの『エチュード第一番』、か……」
この曲で磨くことができるのはスラー。音と音の繋がりを意識して、表現力をつけていく練習曲。基本となる技法なので、多くの演奏者が慣れ親しむ曲である。
流れる旋律が耳に染み入る。大変心地良い。
「きれいな音だなあ……」
まるで音源のよう。熟達者とはまさに彼のような人物のことを言うのだろう。上手く言葉に出来ないけれど、例えるならばそう、宝石のような。存在感があり、きらびやかで、不純物のない磨き抜かれた美術品。
完璧だ。
譜面の通りでありながら、彼自身がが練習したい箇所について緩急をつけている。誰もが、譜面の通りに吹きこなすことを目標とするけれど、彼にとってはきっとそのようなことなど、とうの昔の大前提なのだろう。
そして。昨日も聴いた、あの曲。
「第三番……」
駆け上がる音符、螺旋を描く旋律。フルートではその構造上あまり聞き慣れないフラッタータンギングも織り交ざった、変幻自在の練習曲。軽やかに、譜面の通りに。寸分のずれもなく紡がれる音楽。
「……すごいな」
著名なプロ奏者が演奏した参考音源ではなく。目の前で、生で、その音を聴くことができている。
どこの誰なのかはわからないが、そんなことはある意味、アリヤの中でどうでも良くなりつつあった。
演奏が止んだ。曲は途中であるのに。
音のしていた方角をアリヤは見やる。草木に隠れてよく見えない。
――帰るふりをして、目前を通り過ぎてみよう。
――南門に向かう風を装えば、不自然ではない。
そんなことを考えて、立ち上がる。
心拍数は更に上がる。文字通り、どきどきする。口から心臓が出そう。こんな経験は久しぶり。
一歩一歩、進んでいく。だんだんと、彼の姿が大きく、鮮明になっていく。
――彼の前を横切った。
一瞬横目で、アリヤは姿を捉える。
彼は帰り支度をしているのだろうか、フルートのキィと管をクロスで撫で磨いている。
大きな体躯。ふくよかで、ブルーグレーの美しい毛並み。昨日と同じようにワイシャツは袖を捲って。
眼鏡をかけている。ふさふさした毛に覆われた太い腕、太い手。
――あんなに大きな手指で、あんなに細かい指回しができるなんて、すごい。
演奏技術と見た目とのギャップがありすぎて、逆に戸惑う。あの繊細な音の運びはおそらく、豊かな身体が持つ肺活量と、腹部の筋肉が支えているのだろう。
――自然に、自然に。落ち着いて。
ただ歩き過ぎるだけなのに、まるで舞台上でソロを吹くときのような緊張感。取り繕わず、自然に、自然に、自然に……ただそれだけを思って。
なんとか通り過ぎることができた。南門まで気を抜かず、歩き続けよう。アリヤはそう思って、なんとか気を確かに歩きゆく。
「…………今日はサラダとかそういうのだったらいいな」
アリヤの緊張とは裏腹に、彼は今日の夕飯のことを考えていたけれど。ただ、一瞬だけ。
「…………何なんだろ」
ちらりと。ちらりと。去りゆくアリヤの背中を見やって、彼は呟いた。
それが、ふたりの出会い。
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