01.桜風

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「…………」  緊張する。今までこんなことは自然に行ってきたのに。痛いことも怖いことも何もないはずなのに。  携帯電話に接続したイヤホンをつけて、音楽を再生する。ただそれだけなのに。こんなにもこんなにも息が苦しくて。タイミングを図らないといけない。  ケーブルの左耳側をそっと押し込んで。それから右耳側も。装着する感覚が懐かしい。  いつからだろう、この動作をしなくなっていたのは。  ――そう、あの時から。 『君に任せたのがよくなかった』  その言葉が全ての始まり。自分の中で何かが完全に砕けた。この感情をどうすればいいかがわからなくなった。  休みがちになって、半ばフェードアウトするように。ようやく落ち着いてほとぼりが冷めた頃。  アリヤは震える手で、退部の届けを出した。  顧問たちは青ざめて、慌てて謝罪の言葉を口々に述べたけれど、壊れた心は戻せない。  あの日のことは、一刻も早く忘れたいのに、心を撃ち抜いて離れない。偶に、夢に見ることもある。  それほどまでに、思春期の少年の胸に残した傷は大きかったのだ。  戻れなくなる気がする。  この再生ボタンを押したら、忘れよう忘れようと思っていた全てを、思い出してしまうかもしれない。  どうして、自分は携帯電話にこの音源をインポートしてしまったのだろう。どうして昨日の晩、CDの山の中からこの音源を探してしまったのだろう。ついでに、譜面も探してしまった。  何故だろう。でも、何となくではあるけれど。  ――そうしたかったのではないか。  心の傷口を改めて開けても良いと思えるほどに、突き動かされる衝動があった。  吐きそう。別に何か悪いものを食べたわけではないのに。何に対してこんなにもこんなにも緊張しているのだろうか。  呼吸も荒くなる。息苦しい。ただ、ボタンをひとつタップするだけなのに、何故こんなにまで。  怖い、やっぱり怖い。怖い。でも。何故だか、踏み出したいと思って。  薄っすらと涙が出てきて。嗚咽も漏れる。  どうして、こんなに。しんどいのに。  こんなこと、しなくてもいいのに。  辛い思い出に向き合わなくてもいいのに。  その瞬間がやってくる。微かに震える親指で、アリヤは、再生ボタンを……タップした。  目の前に広げた譜面。音符は浮き上がって渦を巻く。  音量は適度な大きさであるはずなのに、全く、まるで聴こえない。そんなことよりも、苦しくて苦しくて。  窒息してしまいそう。肩で息をしてもまるで足りないくらい。 「ぐ、ぐうっ……!!」  だめだ、と無我夢中で停止ボタンをタップした。  はっはっ、はあっ、と。全速力で駆け抜けた短距離走のクールダウンのような。身体が酸素を求める。  潤んだ瞳。右手の甲で、二回拭った。 「やっぱり、僕は……」  それだけ呟くと、再び苦しくなって。胸が締め付けられる。食べて少し経った夕飯を全部吐き出してしまいそうな。  動悸がおさまらない。頬を伝う涙。その涙の理由は、アリヤ自身にもよくわからない。
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