01.桜風

8/11
前へ
/42ページ
次へ
「何でだろうなあ」  今日も放課後、いつもの場所で、いつもの時間を過ごす。あの人のフルートはあんなにきらきら輝いて聴こえるのに、いざ、きちんと音楽に向き合おうとすると、耐えられなくなるのは何故だろうか。  向こう側から聴こえてくる旋律。これは知っている。  昔、何度も何度も練習したから。ただ、些か彼にとって、この曲は簡単なのではないだろうか。 「ティエ・ロード、『棚引く雲のロンド』かあ」  空に浮かぶ雲をイメージした、ゆったりとしたロンド形式のエチュード。主題モティーフがあり、異なる旋律があり、また主題モティーフ……と、代わる代わる曲が展開していく。スラー、スタッカートに、強弱や表現、一通り詰め込まれたポピュラーな練習曲。 「この旋律を一息で吹くんだ……すごい肺活量だなあ」  自分のことのように嬉しい。何故だろう、彼と自分は接点もなければ、何も無いのに。  目を瞑ると、温かい光に包まれる。四月も終わりかけ。大型連休があって、あれよあれよという間に時間が過ぎ行くだろう。  果たして自分はこの後どうなってしまうのか。そんな不安もあったけれど、近頃は考えずにいた。今が大事で、今やりたいことは。 「――あの人の音を聴くこと」  何と無く、アリヤはそんな答えを出していた。 「あれーアリヤ、こんな所で何してんの?」 「と、トモハル?」  学園の指定ジャージ姿のトモハルが、いつの間にか目の前に立っていて。首にタオルを掛けて、如何にも「運動部」という佇まい。スクールバッグを提げて。  実に不思議そうな顔をして、トモハルはアリヤのことを見つめている。 「何やってんのかと思ったら日向ぼっこ?」 「えっ?あ、いや、その……と、トモハルは何でここに?もう帰り?」 「今日は早上がりなの。毎日頑張ってたら疲れちゃうし、カラダたまには休めなきゃ。アリヤはこんな所で何してんの? 黄昏れてるの?」 「そ、そういうんじゃ、ないけど……」 「だったら……」  言いかけて。一瞬の間を裂くように。  遠くから聴こえるのは「棚引く雲のロンド」。ははぁと。トモハルはにやりとする。 「アリヤもしかして、この音聴いてるの?」 「えっ?い、いや、そ、そんなこと……」 「嘘ついたって、バレバレなんだよねえ、アリヤって」  ふふ、と息を吐いて。隣、いい?とトモハルはベンチに、アリヤの隣に腰掛けた。 「何してるかと思えばこんなところで」  毎日ここにいんの? 「まあ、その、うん……」 「そっかあ」  ぎぃ、とベンチの軋む音がした。 「なぁんも部活とかやらないから不思議だなあって思ってたんだよね」 「ううん、まあ、そうなんだけどさ……」  ごめん、と一言だけ。 「何でさ。別に謝ることないじゃん」 「何かこう、黙っててごめん、みたいな」 「別に。いいんじゃない? こういうのも」  目を閉じて、色褪せた木製の背もたれに、身を預ける。また、ぎぃ、とベンチは軋んだ。 「やっぱ、アリヤ忘れられないんじゃない。音楽好きでしょ?毎日ここで聴いてるんでしょ?心の何処かで、音楽したいんだと思うよ」 「そうかなあ……」  腕を組んでから、斜め上、少し白の混じった空を見上げる。雲は綿菓子のよう。ふわりふわりと流れ行く。 「でもさ、昨日、聴いてみようと思ったんだけど」 「何を?」 「練習曲。イヤホンでさ。譜面追おうって」  でも。 「ダメだった。吐きそうになっちゃって」 「そっかあ」  でもさ。 「あの時は『もう嫌だ』って泣いたじゃん?アリヤ。でもそれを乗り越えてさ、毎日ここで音を聴いてさ。あんなに怖がってたイヤホンを自分でつけてみるなんてさ、すごく進歩してると思わない?」 「進歩、かなあ……」 「そうそう。焦んなくていいんだから、またカラダ慣らしていけばいいんじゃないかな」 「そっかなあ……」 「そうそうっ」  にへへ、とトモハルは笑ってから。ううん、と伸びをした。まだロンドは続いている。 「っていうか、めっちゃ上手いね」 「うん、めっちゃ上手い」  聴こえてくる旋律に耳を傾けて、ふたり聴き入る。身体にすっと馴染むような、心地よいロンド。 「なぁんにも知らないオレでもわかるもん。アリヤにとってみれば、宝石みたいに見えんのかな」 「ううん、まさしくそんな感じ」  僅かに、笑みがこぼれた。唇の端が上がって。 「あ、アリヤ笑った」  その顔、久しぶり。  嬉しそうに。それはとても嬉しそうにトモハルはアリヤの顔を覗き込んで。 「わかりやすいよ」  ――アリヤ、あの音に恋してる。 「はあ?」 「恋してるっていうか、憧れてるっていうか?」 「は、はあ……」 「まるで見たことないすごいものを見たかのようにさ。すっげえ! ってこう、何ていうか……わくわくしてるというか。オレで言うとプロのサッカー選手を間近で見るような興奮っていうか」 「ま、まあ、そういうのなのかも……」 「それならさ! 行こうよ!」 「え、えっ、な、何?」 「折角なんだし、遠くから見てるだけじゃ、勿体無いじゃん!」  ――もっと近くで聴かせてくださいって。  ――言いに行こうよ!  「ちょ、ちょっと待ってよトモハル!」  そんなつもりじゃ。 「そこ、意地張っても仕方ないじゃん! お近づきになれるチャンスチャンス!」  アリヤの手を取って。少しだけ乱暴に。早歩きで。こういう時だけ、トモハルは強引。穏やかな水面に石を投げ入れるのが好きなタイプ。重々、わかっているのに。  みるみるうちに音は大きくなって、アリヤの耳を揺らし始める。  あの日と同じ、ブルーグレーの大きな塊。白いワイシャツ、袖は捲って。眼鏡の縁は銀色。気難しそうな、雰囲気があった。 「すいませーん! 」  出た。トモハルの伝家の宝刀、人懐っこスマイル。  大概の人物は振り返って笑顔になる。そこまでの元気の良さと愛嬌が、トモハルの最大の武器。  ――の、はずだった。  音は止まない。視線は膝の上に広げた譜面だけを見つめ、集中している様が明らかにわかる。 「やべっ、タイミング悪かったかな……」  トモハルの宝刀に靡かないなんて、なかなかの人物のよう。もう一度スマイルを繰り出そうとしたところ、どうにかこうにかアリヤは制止した。 「この馬鹿! 邪魔しちゃ駄目だろ!」 「だってえ」 「……………………」  音はぱたりと止んだ。 「あっ……」「えっ……」  しまった、という表情のふたり。  ベンチに座ったまま。彼はふたりの姿を交互に見やった。もう一度、交互に見やった。それから。  何事もなかったかのようにケースから深緑色のクロスを取り出して、キィを磨き始める。帰り支度か。 「あっ、その、あの!」 「………………」  トモハルが緊張するなんて至極珍しい。それほどまでに圧がある。トモハルですら近寄りがたい、そんな雰囲気が。どうにかタイミングを探っている。 「え、えっと、その……」 「…………何か、用事?」  ぶっきらぼうな声。眼鏡の奥、濃い翡翠色の瞳。鋭くふたりを射抜く。  ふたりと、彼の間を抜ける風。一瞬の間であるはずなのに、途轍もなく長い長い時間。 「い、いえ! その!」  トモハルがこんなにかちこちになるなんて初めて。それほどまでに纏う空気は重かった。 「か、帰ろ! アリヤ!」 「ちょ! ちょっと!!」  歩き出すトモハルの背を追って、慌ててアリヤも歩き始めるけれど。でも。  折角のチャンス。何か、何かを残したい。  心臓が動く音が聞こえる。こんなに緊張するなんて。脂汗も出てきた。言葉が喉から出る寸前。  ――アリヤ、言っちゃえ、男だろ!  「あ、あの! せ、その、せ……」  先輩の、えっと、その、あ、あの!  「先輩の『第三番』! すごくエモいです!」  ただそれだけ言い放って、アリヤはトモハルの背を追った。彼をその場に残して。  もっといい言い回しがあったのではないかと思うけれど、端的な単語が浮かばなかったので、随分俗っぽい単語になってしまったけれど。  でも、伝えられた。  一方的ではあるけれど初めてのコミュニケーション。何となく、何となく達成感もあったし、嬉しかった。  一方彼は、呆気にとられていたけれど。  瞬きを三回。それから。何事もなかったかのように管をばらして、磨く。  ただ。 「エモい、って何だろ……」  初めて聞く単語であったから、ぴんとこなかった。もしかしたら「エモーショナルに、形容詞の『い』をくっつけたものなのではないか」という結論に至り、なるほどなるほど、と納得してみたり。 「第三番、って言ってた」  こんな曲が分かる人種、限られてる。 「……『アリヤ』?」  あの、白いウサギの名前だろうか。 「……………………」  空を見上げると、今日は鷺が一羽、すうっと滑り行くのが見えた。白い雲。春真っ盛りから、僅かに夏に傾く時候に差し掛かる。  吸えるだけ息を吸って、ぶはっと吐くと少しだけ、ほんの少しだけ。  抱えていた荷物が軽くなる心地がした。  楽器を片付け終えたそのタイミングで。自分のことを呼ぶ声がする。 「おい! ソラノ!」 「んあ?」  振り返ると、白いブリタニア・ペティット。淡い水色のブラウスに、黒いパンツを穿いてすらりとした印象がある。  ソラノ、と呼ばれた彼は肩を竦めて、やれやれ、といつもの調子に戻る。 「なぁんだよ、トキノかよ。何か用事?俺忙しいの。これからベンキョーすんだから」 「あんたねえ! 学園内では呼び捨てにするなって言ってるでしょ! あたしは一応先生! セ・ン・セ・イなの!」 「従姉のこと呼び捨てにしちゃ悪いかよ」 「それはまた別の問題としてあんた! そろそろ『アレ』考えてくれたんでしょうね?」  女性のウサギ――トキノは、腕組みをしながら、頬を膨らませる。ウサギ特有のぷっくりとした頬袋が愛らしい。 「出ねぇよ」 「はあ?」 「出ねえっつってんだろ! トキノは俺のことより自分の部活のこと気にしろっての。音楽部、そろそろ定演だろ!」 「それはそうなんだけど、あたしはソラノのことも面倒見ないといけないんだから! あんたねえ! いつまでそうグズグズしてんのよ! このデブ! 意気地無し!」 「デブで結構だし?意気地も無ぇよ」 「っかー! その太々しい態度! このガキ!」 「へえへえ、まだガキですよーだ」  んじゃあな妹熊先生、とソラノは立ち上がる。荷物をひょいと持ち上げて。 「夢は、夢のまま終わるモンなんだよ」  少しだけ寂しげな表情をして、それから。 「俺は、自分で、探すから」  歩き出す。トキノの横を抜けて。向かうは図書館。今日は何を勉強しようか。  ソラノもトキノも。  お互いに、瞳に帯びるのは、寂しさ。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加