束の間の日常

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ーーーーー 遠くで烏が鳴いている。 傾いた日差しが、部屋の深くまで差し込む。 「桜」 「…っ」 与えられた部屋にいた詩は、意外な来訪者の声に一瞬固まった。 この声は、昼間会った、高島信継だ。 高島家の嫡男が、詩の離れの入り口に立っているようだった。 詩の世話をする女中さんが、驚いた声を出す。 「ああっ?…若様… 恐れながらこちらは、仁丸様の…」 「いい。わかってる」 そう言うと信継のらしい足音がざっざっと聞こえ、やがてスパンと襖が開いた。 「…」 固まる詩に、信継はからりと笑う。 「入る」 そう言った時には信継はもう詩の前にどっかとあぐらを掻いて座っていた。 大きなカラダ。大きな目にじいっと見つめられ、詩は一旦手を置き、信継に向いて頭を下げた。 「ああ、いい。続けろ。 …文、か?」 部屋にはすりたての墨の匂いが広がっている。 詩は文机で何やら書いていたらしく、信継はその机上にふと視線を送った。 「…すごいな」 詩が描いていたのは、馬の絵だった。 美しい馬の、力強い毛並みや筋肉、動きの躍動感が絵から伝わる。 「見事なものだ。桜は絵がうまいのだな」 詩は黙って、もう仕上がる、絵の続きを描く。 信継は何も言わず、ただじっと待っている。 部屋の中には、詩の持つ小筆が紙を滑る音と、かすかな衣擦れの音がーー 信継は微笑んでその様子をじっと見つめていた。
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