禁断

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 若い男など珍しかった。堕ちて来るには、少々早い。皺に練り込まれた垢が年輪をより濃く刻む私たちの中で、彼のみずみずしい肌は異質だった。  若さは女に似た効果があるのだろうか。仲間たちは彼の元に集まり、ちやほやとものを分け与えていた。食べ物、着る物、雨風をしのぐビニールシート、家の建材である段ボール。快適な寝床も用意してやった。駅からビルへと続く通路は、湿気が少なく風も吹き込まないので、仲間内でも奪い合いとなっている。彼でなければ譲りはしない。皆、自分のことだけで精一杯な筈なのに、彼にはあれほど親切にしてやる。  若さの他に理由があるとしたら、それは彼が「善良」だからだ。寡黙で笑みを絶やさず、人の話をよく聞いた。めぐんでもらえばいつでも初めてそうしてもらった時のように感謝した。そんな笑顔と感謝が欲しくて、貢物が運ばれてくる。 「主のお恵みに感謝します」  彼はよくそう言って頭(こうべ)を垂れた。神を信じていたらしい。十字は切らない。しかし宗教がかった言葉は好んで使った。 「ここはまるで楽園ですね」  深く感じ入るように漏らした。うっとりするような笑みがある。寝食に困らぬからか、あるいは仲間達の善意を指しているのか。おそらくその両方だろうが、口にしたのが彼でなければ揶揄と受け取られても仕方ない。通行人の影を浴び、黙殺されながらもにぎわいから離れられない。こんな様を「楽園」とは。 「生まれた時から大人だったんです」  自分のことをそう説明する。過去の記憶がないらしい。気がついたら路上で寝ていた。全裸というから、身元を知る手がかりも一切ない。もちろん名前も覚えていない。  仲間内では様々な憶測が飛んだ。実は跡目争いに敗れた大企業の二代目で、妙な薬で記憶を奪われた…組織犯罪に巻き込まれて恐怖で過去を失った被害者…。どれも身勝手な想像の産物だ。特に「大企業の二代目」説は、恩返しへの期待から生まれたものだろう。夢物語とわかってすがるのは、明日に夢がないからだ。そうした呑気な「妄想」にも、彼は真面目にうんうんと耳を傾ける。  自分が何者かわからないことに、彼はさほど頓着していなかった。楽天的なのか、不安を隠しているのか。周囲の誰もが過去を捨てたがっていたから、その影響もあるかもしれない。実際、記憶がなければどれほど気楽か。きっと毎日素直に笑える。そんな愚痴ともつかぬ呟きを、彼は毎日聞かされていた。  そうは言っても名無しのままでは不便である。そこで私が名付け親になった。しかしその名は短く変えられ、彼は「ダムさん」と呼ばれた。
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