禁断

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 夕方頃になると駅ビルの警備員が居場所を少しずれるように言う。シャッター付近が溜り場だから、ずれなければシャッターが閉められないのだ。毎日のように小競り合いがある。自動で降りてくるシャッターの下で寝転んで首をさらし、ギロチンよろしく「切るなら切れ!」とわめきたてる者も必ず一人はいる。こんなとき警備員の顔は仮面のようだが、嘲笑とも憂いともつかぬ疲れた陰影が刻まれていた。  感情的な場面はさほど長くは続かない。シャッターが完全に閉まると彼らは何事もなかったかのように段ボールを立てかけ始める。ほとんど身一つ同然なので、我が家を広げるのも折り畳むのもさしたる手間はかからない。  寝転んで拾った漫画や雑誌を読むこともできるが、暗がりで活字を追うのは難しい。眼の悪い者が多いから一番の娯楽は結局、酒である。  二番目は「先生」が持っているラジオだ。「先生」はビニール袋に入れた全財産を車軸の傾いた車椅子にくくりつけていた。マグカップやラジオペンチ、カッターナイフに裁縫道具、哲学書。仲間内では財産持ちで、その中にラジオもあった。  キィキィと耳障りな車軸の音と、その合間に曲がれるクラシック音楽のおかげで「先生」が来たことは誰もがわかった。乞われれば演歌に変えることもあったが、いい顔はしない。気取った様子を疎まれて、仲間達からは一線引かれている。  ダムさんは「先生」の足が本当に不自由だと信じているようで、車椅子から降りるとき必ず手を貸した。「先生」も素人芝居でよろけて見せて、大儀そうに身を横たえる。毎日のことだ。  だがいつの頃からか、体重を預けられるとダムさんはわき腹を庇うようになった。 「どこか痛むのかね」  「先生」が尋ねるとダムさんの口元から笑みが消えた。珍しいことだ。 「出来物があるのです」  そっと答える口ぶりには含むものがあった。「先生」が見せるよう促すと、彼は素早くまわりを見回してからシャツをめくりあげた。  シャツの下の肉体は、均整が取れて美しい。垢に覆われていてさえ尚、肌には隠しきれない白金の輝きがある。  そのわき腹の少し上辺りに水疱が見えた。かなり大きい。水泡のてっぺんには黒く濃いホクロがぽつりと盛り上がっている。 「潰さないのかい」 「一度潰したら、大きくなったみたいで」  膿んだのだろうか。たまった水は白みがかった半透明で、黄色い濁りはない。  「先生」は車椅子にくくりつけたビニール袋から針とライターを取り出した。針先を火で炙る。瞳にはさざなみのような怒りがあった。整った肉体の汚点ともいうべき水疱に、美意識が刺激されたらしい。  水泡に穴を空け、そのまま針先をヘラのように使って溜まった水をかき出した。虎の子のバンドエイドは、ダムさんだから貼ってやったのだろう。 「これでいい。そのうち直る」 「ありがとうございます」  潤んだ瞳でにっこり笑う。「先生」の気難しい口元が、満足げに歪んでいた。
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