禁断

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 路上に悪臭が漂う。大抵の臭いには慣れた私たちでも鼻をふさぎたくなる。薄曇りに濾過された弱い日差しが、タイル地に広がる水便を温めている。悪いものでも口にしたのだろう、倒れた男は口からも泡を吹いていた。 「おい、お仲間が苦しんでるぞ」  通りがかりの背広姿が吐き捨てる。不快なのは汚物より私達の対応らしい。皆、遠巻きに眺めるだけで声さえかけない。  だが責められるいわれはない。薬より酒を選んだのはあの男の方だ。ゴミ漁りで腹を満たす我らに腹痛の薬は不可欠だが、切らしていたにも関わらず、なけなしの金を酒に変えてしまった。こうなることはわかっていたはずなのに。  心配せずとも死にはしない。人は意外にしぶといものだ。  そこにキィキィと耳障りな音を立てて「先生」が通りかかった。車椅子を押しているのはダムさんだ。路面に目をやり眉間にしわを寄せる。  二人の前に、川田がささっと躍り出た。 「ダムさん、そっち持って」  男の肩の下に手を入れて、顎をしゃくる。道を空けてやるのだろう。応じようとダムさんが車椅子から手を放す。そのときだ。 「なんの真似かね!」  「先生」が声を荒げた。罵声に近い響きである。  驚いたのは川田だ。はじめはその声が自分に向けられたものとわからず周囲を見回した。私たちもそうだ。しかし矛先は間違いなく川田だった。  「先生」は興奮した様子でまくし立てている。川田は男を地面に下ろした。男の状態から疾患か何かを見抜き、動かすなと言っているものと解釈したのだ。  しかしそれは違った。「先生」は水便を垂らした男など目もくれず、いつも膝上に置いている小さなノートを川田に投げつけた。聞き取れる言葉から察するに「お前ごときがダムさんに指図をするな」と言っている。  意味がわかると川田は数秒の間硬直した。そしてみるみるうちに顔を真っ赤にすると「先生」に掴みかかった。胸倉を両手で握ってぐいぐい持ち上げる。その豹変にひるむかと思いきや「先生」も負けてはいなかった。唾を飛ばしてわめき散らし、立ち上がって応戦する。上背に勝る「先生」は、捕まれた胸倉を両手で押さえてつけて体重をかけた。  ダムさんは二人の喧嘩を止めるでもなくぼんやり眺めていたが「先生」が立ち上がるのを見て「あっ」と声を上げた。ほとんど悲鳴に近かった。反射的に誰もがダムさんの方を向いた。  ダムさんは口を開け指さしている。「先生」が立てること驚いていた。頑健な川田を押し返そうと、その両足を力強く踏ん張っている。  「先生」はハッと気づいてよろけて見せた。背後に倒れ込もうとしたが、軽くぶつかった勢いで車椅子が後に逃げてしまう。二、三歩追いかけてから、ばつが悪そうに腰を下ろす。  ダムさんはその様子をじっと見つめていた。「先生」は澄んだ瞳に灼かれて深く俯いた。  そして裁かれた者の顔で車椅子の向きを変え、キィキィと耳障りな音を立ててどこかへ行ってしまった。  胸倉を掴んだ姿勢のまま成り行きに取り残された川田は、怒りのやり場を無くして大きく舌打ちした。天を仰ぎ、地面に目をやり、倒れた男が視界に入ると、もう一度肩の下に手を入れてずるずると運び始めた。日陰に移動させてやるつもりらしい。  ダムさんも我に返って川田を追い、水便にまみれた男の太股を脇に抱えた。
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