白い花

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白い花

 虫に吸われた赤い印に、ハートの絆創膏を貼る。こんな高層マンションの、高い階に住んでいるのに虫に刺されたなんてバレたら、彼に心配されちゃうから。  部屋の隅に置いてある、ブタの蚊取り線香入れと不意に視線が交わった。たった一匹のペットに向けて、唇に指をあてがってみせる。内緒を共有するの。  ダンディなブタはいつもの通り、キザなウインクを投げかけてくれる。男より、断然信用できる相棒。  シャワールームの音は止まない。男なんだからあっさり済ませればいいのにね、なんて思うんだけど、私の方がだいぶ若いから、色々と気になっちゃうみたい。彼はなかなか出てこなかった。  ベッドから身を乗り出して、分厚いカーテンを少しずらした。見上げてみても星なんて望めない町、月は空を渡るだけの物、明かりをくれるわけじゃない。神話はプラネタリウムに引っ越していた。  今の居場所に不満はないけど、こっそりと、生まれ故郷の夜風を想う。窓から入り込んでくるそれは、幼い私にエロティシズムを教えてくれてた。その頃はよくわからなくて、背徳的な怖れを感じてただけだけど、今ならよくわかる。あれは、草木が星々に抱かれ、ため息のように漏らした吐息。いつか、あんな艶めいた声を漏らしてみたい。  そうだ、虫は夜勤と言っていたっけ。白い、赤い、緑、色んな明かりが街を強制的に起こしてる。どの明かりの下にいるんだろ? うとうとしちゃって怒られないといいけれど。  首のテープを撫でるのは、意識的な無意識の無罪。  小さなシャワールームの中で、強弱を繰り返していた雨がぴたりと鳴り止んだ。  わたしはカーテンを端までひっぱる。人工的な街の明かりは、こんな高い部屋の窓まで配慮も見せずに覗き込んできた。星々の明かりよりいやらしいと感じるのは、一つ一つに感情があるから。  ベッドにぺたんと座り込み、あまりにも白すぎて狂いそうになる色のシーツを胸まで引き上げた。丸みを帯びた肩のラインには自信があるから、夜の真ん中に晒してたって、構わない。  素肌を嘗めてゆく夜の明かりが、心の芯に劣情を点す。一人っきりで迎えるこの瞬間が、最高に好きだった。  何年も貴方を待っていたわ。  そんな、知るはずのない感情を模して、潤んだ瞳と身体で迎える。  ほら、見て? 彼の身体が神を宿してる。  肌をなぞる振りをして、シーツを剥いだ手のひらが熱い。  キスの最中に視線を感じてしまったみたい。彼は何の前触れもなく、絡み合ってた舌を離して、部屋の隅へと目を向けた。 「こんな場所に蚊が出るのかい?」 「まさか。可愛いでしょ? ペットなの」 「ああ、そうだね……可愛いよ。でも、君の――」  次の台詞はちょっと書けないよ。  彼は窓から見下ろす街に、自分の手柄を見せつけたいんだ。窓に触れ、透き通った冷たさを感じながら、彼の大人じみた子供の戯れに何度も何度も呼吸を忘れた。  微かに上下する胸の動きで、眠ったことを知る。  少し髭を感じさせる頬を愛おしく撫でた。  大人しく控えていたペットに手を振れば、今週の楽しみを全部、食べ尽くしたことを悟ってしまう。  来週も、再来週も、ずっとここに巣くってる。  青い虫の毒素に溶けて。  猛る獣の腕に抱かれて。  望まれるたびに蜜をこぼして。  眠らない街を見下ろしながら願う。  白い、  白い花になりたいと。      
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