第14話 沙羅さんは私の想い人ー5

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(2) 「さ、沙羅さん。あの、わ、私は……!」  出だしでどもってしまい、大きくかぶりを振った。路上を歩くサラリーマンから不振な目を向けられてしまい、慌てて気配を消す。  車を所定の駐車場に収めた後、私は出版社前の広場の隅でイメトレを繰り返していた。  インタビュー前に、決死の覚悟で取り付けた約束が頭をよぎる。  柚からのメールで、二十時に会社の一階ロビーに集合とのことだった。残りあと二十分。  刻々とその時が近づく中、花壇脇に腰を下ろし、大きく弾む鼓動を持て余していた。 「その、お待たせしてしまってすみません沙羅さん。さっきも言ったんですけど、その、話したいことがありましてっ」  運転中、何度も繰り返したリハーサルを続ける。 「その、私は、そ、その……っ」  ああ、だめだ。そのそのそのその。もっとしっかり沙羅さんに伝えなきゃだめなのに。 「小鳥さん」  夜が訪れようと、決して静かに眠りにつく街ではない。それなのに、どうしてこの人の声だけはこんなに淀みなく耳に届くのだろう。 「こんなところに座り込んでどうかしましたか」 「さ、沙羅さん」 「もしかして、あの人に何かされましたか」 「あ! 小鳥、ちゃんと帰ってきたんだ!」  否定する間を与えず、柚たちも会社のエントランスから姿を見せた。もしかして、みんなで待っていてくれたのだろうか。 「みんなでっていうか、沙羅さんがね。あんたが無事に帰ってくるのかって、やたら不安そうにしてたから」 「仕方ないでしょう。あの先生にまた何か困らされていてもおかしくありませんから」  からかい口調の柚に、沙羅さんが静かに告げる。安堵が滲んだ微笑みを浮かべ、大きな手のひらが差し伸べられた。 「大丈夫ですか。今日は特に疲れたでしょう。立てますか」 「沙羅さん」 「はい」 「好きです」  周囲の空気が、止まったのがわかった。  息継ぎしたつもりが、急速に体が熱を帯び、結局息苦しいまま想いがせり上ってくる。 「私、沙羅さんのことが、好きです! 大好きです……!」  先ほどのイメトレは、結局何の意味も成さなかった。  声量調節を大きく誤った声は、帰宅の途につく通行人の視線を一気に集結させた。  終わった……。  体育座りで膝に頭を埋めた私は、壊れたカラクリ人形のように同じ言葉を呟く。  いくら何でも、公衆の面前であれはないだろう。恋愛初心者の自分を、ここまで悔やむ日が来るとは思わなかった。子どものような告白の後、我に返った私はその場を脱兎した。 「柚たちも、驚いてたよね」  視界の端に映ったみんなの驚愕の表情を思い返す。大きく見開かれた沙羅さんの綺麗な瞳も。 (沙羅君に伝えておけ。俺は諦めが悪い人間だってな)  きっと私も、自分が思う以上に諦めが悪い人間なのだと思う。だって、逃げた挙句に向かう場所は、結局屋上(ここ)なのだから。 「ほんと、馬鹿だなぁ」  自分の手で賽は投げられた。タイガ君との約束も守れた。自分の想いをきちんと伝えたかった。無謀な事とは重々承知。それでも、何度も何度も悩んで決めたことなのに。  それなのに私──後悔してる? 「沙羅さん」  流れる夜風に消されたくなくて、少しだけ強めにその名を呼ぶ。つい先ほど眺めたはずの星空は、今は情けなく滲んでいた。  約束をしたのは貴方の方なのに。子どものような難癖をつけて、空に呟く。 「今日は……星が綺麗ですよ。沙羅さん」 「はい。そのようですね」  届くはずのない人の声だった。呼吸を止めたまま、ゆっくりとその場に立ち上がる。 「沙羅、さ……」 「足が速いんですね。驚きました」  沙羅さんは穏やかにそう告げると、資料庫に繋がる扉を閉じる。混乱に喫した私は、その場を動くことが出来ずにいた。 「小鳥さん」  その声だけで、泣きそうになった。  塔屋の上の私を見つめる眼差し。出来ることなら、記憶の中に閉じこめておきたい。  だってもう、この屋上での逢瀬も一生ないかもしれないから。 「……ごめ、なさい……!」  改めて自分の醜態を思い返し、羞恥に身が焼かれる。  困らせるつもりはなかったんです。ただ、気づいたら口からこぼれてました。できればこれからも、友達として接してもらいたい──言葉にならない想いが頭をかけ巡る。でも、言葉にできなかった。  友達に戻りたい訳じゃない。でも気まずくもなりたくないなんて、ただのわがままなのだろうか。 「初めて貴女を見たときも、こんな風に塔屋に立つ貴女を見上げてました」 「……え?」 「貴女と言葉を交わすよりも、ずっと前のことです」  静かな語らいが、どうしようもなく私の胸に染み込んでいく。駆け抜けた夜風が、互いの髪を優しく揺らした。 「周りの期待に押し潰されそうになっていたあの頃、社内をふらついてたどり着いた場所がここでした。その時、聴いた貴女の歌声はどうしようもなく心に焼き付いて、離れなかった。あんなに自由に、幸福そうに、空に歌う貴女の姿が」 「さら、さ……」 「貴女は俺を女神と言いましたが」  俺にとって、貴女は本当に天使だったんですよ、小鳥さん。  堪えきれなかった涙が、頬を伝っていった。  色々な感情が胸を埋め尽くして、苦しくて、呼吸が熱くなる。  フレームに溜まる涙に気づき眼鏡をずらすと、震える指先が眼鏡を弾いてしまった。 「小鳥さん」  塔屋の下から聞こえるはずの眼鏡の落下音はしなかった。寸前で眼鏡を受け止めた彼が、塔屋下で大きく両手を広げている。 「貴女が好きです。貴女が俺を知る前から、ずっと好きでした」 「……っ」 「先に言わせてしまって……すみません」  言い終わるのを待たずに、私は塔屋の端を踏み切った。相当の衝撃を受けたはずの沙羅さんは、私を受け止めてもびくともしなかい。ああ、男の人なんだ。そう思った。 「駄目ですよ。そんな風に目を擦っちゃ」  涙に濡れた手を、沙羅さんにそっと押し止められた。 「これで、友達以上の関係になれましたね」 「っ、あ、の……」 「貴女は、俺の恋人です」  こいびと。  余りに魅惑的な響きが耳をくすぐり、背中に甘い痺れが走る。そんな心さえ見透かすように、沙羅さんの目がそっと細められた。 「約束です。貴女の本当の瞳を見せてください。小鳥さん」 「う……だ、だめ。待って、くださ」 「どうしてですか?」 「今、すご、不細工……」  こんな顔、とても間近で見せられない。慌てて顔を伏せたはずが、いつの間にか頬を包まれ再び上を向かされた。 「小鳥さん」  自分を呼ぶ、大好きな声。  直後に唇に落ちてきた柔らかな心地に、他の全ての感覚を手放した。
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