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第1話 沙羅さんは雲の上の女神
(1)
林編集プロダクションには不可侵の女神がいる。
入社した時には耳にしなかった噂は、今やあたりの関連企業でも聞かれるようになっていた。
イギリス人の母を持つ私は、生まれつき瞳が青い。
幼少時代は幾度となくからかわれ、中学に上がると物珍しいパンダ扱いに移行した。そして高校進学を機に、見かねた父親がカラーコンタクトを買い与えてくれたことで全てが収束に向かうこととなる。
かくして、亡き母の思い出をさらしものにする日々は、静かに幕を閉じたのだ――。
「小鳥ちゃん、この資料、明日までに打ち込み頼める?」
「わかりました。終わったらメールに添付しますね」
受け取るファイルの重みに一瞬怯む。しかしこのくらいなら今夜中に処理できるだろう。
「ありがと~本当助かる! 今度マジで人事に掛け合ってみようかな? 総務部の堀井小鳥を是非うちの部署にって」
「はは。一応、総務部“兼”第二編集部所属ですけどね。編集部に正式起用は荷が重すぎますよ」
「隠れ兼任とか暴挙よねぇ。うちが慢性人手不足だからって」
慢性睡眠不足の戸塚さんが哀愁漂うため息をつく。しかし口元は心なしか幸せが浮かんでいて、私はすかさずカレンダーを確認した。
「そういえば来週末からでしたっけ。戸塚さんの新婚旅行休暇」
話題を振るや否や、戸塚さんの頬がほんのり赤く染まる。
「えへへへ。そうなんだ~。待ちに待ったハワイ旅行! 籍を入れてもう一年経つけどね」
「ええー。戸塚さん、来週から新婚旅行なんですかー?」
「旦那さんってどんな人ですか?」
急に小花を散らし出す戸塚さんの話に、部内の女の子たちが徐々に参加し始める。総務部は年頃のおなごが多い。この手の話に食いつかない方が珍しいというものだろう。
「あ~小鳥ちゃん。なにさりげな~く話の輪から抜け出してんの。こっち来なさいっ!」
つまり。瞳の色がどうあれ私みたいな女は、結局変わり者に分類されるようなのだ。
「でも小鳥は、それを敢えてやってるわけでしょ?」
カラン、と氷を鳴らしながら、高梨柚は唇を尖らす。
「私なんて大学卒業と同時に別れて以来男運なんてぱったりだよ。まだ肌もピチピチな二十六歳だって言うのにさぁ」
オフィスからほんの少し歩くこのカフェは、食通の柚がリサーチしていたお店だ。
同じ会社の第二グラフィック部――撮影班に所属する彼女は、一通りの食事を首から下げる一眼レフに収めた。交わされるのはいつもの話題だ。
カプチーノの泡をストローでいじる、透き通るような白い指。それでいて子供みたいに頬を膨らませる柚に、私は肩を竦ませる。
「何言ってるの。柚はモテるでしょ? 取引先の人によく食事に誘われてるし」
「タイプじゃない人にばかり言い寄られても、時間の無駄でしょ」
そうは言うものの、同じカフェでくつろぐ男性の大半は、柚に一度視線を向けている。
すらりと高い身長に整った顔立ちで、何度か現場でモデルと間違えられたこともあるらしい。
柚のお眼鏡にかなう人ってどんな人なんだろう。柚の前の彼氏だった人も、今では顔もおぼろげだ。
「小鳥は相変わらず、色恋沙汰には毛ほども興味なしって感じだねぇ」
「そ、そんなことないよ? こんなちんちくりんを好いてくれる物好きさんがいないだけでっ」
「それじゃ、試しにそのさらさらウェーブを解いてー伊達メガネ取ってーカラコン外してごらんなさいな」
「ちょっ、柚声が大きいっ! しーっ」
慌てて口元に指を立てる私を、柚は面白そうにケタケタ笑う。
長い髪はまとめないと作業に集中できない。伊達眼鏡はPC眼鏡だし、カラコンは、もう癖みたいなもので。
「ひとつでも欠けると落ち着かないんだもん。基本事務作業だから、外見に華やかさも求められていないし」
目の前のパスタを含んでいると、窓ガラスに映りこむ自分と目が合った。
社会人として何ら問題ない、平均ラインやや下のOLの姿。欲を言えば身長が百五十五センチ以上あれば良かったけれど。
「まあ、無理して男作る必要はないけどね。見てみたいなぁ、小鳥が恋愛してる姿が」
「う~ん」
私も、見てみたいかもしれない。
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