第3話 沙羅さんは素敵なお友達

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(2) 「沙羅さん。ちょうど今、S企画の高橋さんからお電話がありました!」 「わかりました。すぐに折り返します」  唐突に耳に運ばれてきた会話に、思わず肩が飛び跳ねてしまう。そう。ここは十七階印刷室。沙羅さん所属の第一グラフィック部とは目と鼻の先にある作業部屋だった。  印刷室からそっと顔を出すと、出先から帰ってきたらしい沙羅さんが女性社員と会話をしているところだった。  余裕すら窺える大人な空気に、フロア内の女性も心なしか乙女オーラが上昇したように思える。ピンク色の、ほんわかした何かが。  あんな人とやっとの事でお友達になれたんだ。今後はそれを継続すべく努力していきたいと思ってるのだけれど。 (別に、特別なことをする必要はないと思うけどねぇ) (強いて言うなら、相手が困ってるときに手を差し伸べるとか、愚痴を聞いてあげるとかじゃない?)  至極まともな柚の返答に納得したものの、私にできることなんてたかが知れてる。コピーを進めながら、私は1人頭を抱えていた。 「おう慧人! 前に企画したやつ、正式に進むことになったから! 下調べしといてくれ」  再び別の会話が、フロア一帯に響くようにして耳に届く。その声の主らしい男性社員は、そのまま手狭なこの印刷室に入ってきた。  一気に酸素が薄くなった心地で身を縮めていると、軽快だった男性の鼻歌がぷつんと途切れた。 「あれ? 君は確か一昨日の」  突然話しかけられたことに警戒レベルを上げてしまう。それでも「あ~、ごめんね突然」と愛嬌たっぷりに笑いながら、その男性は自らを指さした。 「ほら、総務課の通路で、君を危うく段ボールでひいちまいそうになった、あの時の!」 「……あ!」  ダークグリーンのラインが入った、少しアンティーク風のデザインの眼鏡。  私がぽんと手を叩くのと同時に、眼鏡の男性はニッと愛想の良い笑顔を向けてくれた。 「あの時は迷惑をかけちまって済まなかったなぁ。本当、申し訳ない!」 「い、いいえいいえっ! 私もその、あのときは余所見してましたので」 「お嬢ちゃん……じゃないや。総務部の堀井小鳥さんだったな」 「へ……どうして、私の名前を?」 「慧人のやつに教えてもらったんだよ。女性に『お嬢ちゃん』は失礼だってな」 「けいと?」 「ああ。沙羅のことね。沙羅慧人」 「あっ、さ、沙羅さん!」  絶妙な合いの手が飛んできて、再びぽんと手を打つ。そんな反応に気を良くしたのか、眼鏡の男性もますますくだけた表情を見せた。 「俺は第一グラフィック部の柊克(かつ)紀(き)。いつも慧人のやつをこき使ってる、悪い先輩」  やっぱり、沙羅さんの先輩だったんだ。  前に少し見ただけだけど、沙羅さんとも親しげな様子だった。それならきっとこの人も良い人なんだ……よね?  少し堅そうな黒い単髪に、沙羅さんよりも比較的広い肩幅。男性にしか見えない男性との会話に臆病風が吹きそうになるが、ここはぐっと堪えてみる。後ずさるのは半歩分だけにとどめた。よし。頑張った。偉い。 「あの。総務部の堀井小鳥です。よ、よろしくお願いします……!」 「うんうん。可愛い名前だよねぇ。だから総務のみんなも『小鳥』って名前呼びなんだ?」 「は、はは、はい! そっちの方が覚えやすいからって、先輩後輩もいつの間にか」 「へ~。それじゃ、俺も『小鳥ちゃん』って呼んじゃおうかな」 「へっ?」 「ははっ、なーんつってね! そんな気安い呼び方したらあいつに何言われるか──、」 「印刷室で何をしてるんですか。柊チーフ」  地を這うような低い声。手狭な印刷室に落ちてきた声に、私と柊さんが揃って肩をびくつかせた。 「指示を出すなら指示書を早く出して下さい。悪い先輩もあんまり過ぎると、後輩も匙を投げかねませんよ」 「ああ~、はい! 今ちょうど指示書を刷ってるところですよ~慧人く~んっ!」  あははははと笑いを絶やさずに、柊さんは向かい側のプリンターのボタンを連打する。その中で柊さんとの距離が取れたことに、私は密かに胸をなで下ろした。 「何か失礼なことをされませんでしたか。小鳥さん」 「い、いえ。そんなことは」 「ちょ、その発言の方がよっぽど失礼じゃね?」  苦々しげに反論する柊さんの言葉が聞こえなかったらしい。気遣わしげな瞳に、先ほどまでの変な緊張感がほんのり和らいでいく気がする。  生まれて初めて出来た、男友達。  まだ少し緊張感を帯びつつも、ふわふわと心地良い喜びが胸に詰まるようだ。だからこそ、私も何か沙羅さんの役に立ちたい。  果たして私に何が出来るのだろう。再び考え込みそうになったところで、「出来た!」と一際大きな声が室内に響いた。 「慧人君、このたびの指示書でございます! 何とぞ何とぞ~……っ、あ!」  恭しく柊さんから手渡されかけた指示書が、ひらりと手元からすり落ちた。木の葉のように右往左往した後、私の足下に着地する。  反射的に拾い上げたその指示書に、私は小さな希望の種を見出したのだ。
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