361人が本棚に入れています
本棚に追加
(4)
しどろもどろになりながら振った話に、沙羅さんはごく自然に答えてくれた。
「仕事の関係です。さっき柊チーフに言い遣った企画に使える資料がないかを探しに」
い、いきなりチャンスが来た──!
少し埃っぽくなったズボンを払い、沙羅さんが立ち上がる。その隙に、私は慌てて資料を挟んだクリアファイルをひっつかんだ。
頼り頼られる友達関係の、記念すべき第一歩!
「その企画のことなんですが、もし宜しければ、こ、これを……っ!」
意を決し、クリアファイルを差し出した。
少しでも喜んでもらえますように……!
しかしながら、そんな願いも空しく沙羅さんからはまるで応答がない。不吉な予感が頭を充満させながら、私は恐る恐る瞼を開けた。
「……っ!」
ひっ、と引き吊るような声を、何とか喉の奥で押し留める。
差し出したファイルに視線を送りながら、沙羅さんは大きく目を見開いていた。信じられない、有り得ないというような表情。
「小鳥さん」
「っ、は、はい……っ」
「怪我をしてるじゃないですか」
「す、すみません! ごめんなさ……っ、え?」
「今、俺を助けた時のものですか」
すっと持ち上げられたのは、差し出していた資料ではなく、私の頼りない右手だった。
「小鳥さんの手の甲。血が滲んでます」
「ち、違います! この怪我は最初に私が一人で転んだ時に出来たものですよ……!」
向けられた確認の視線に、思わず念を押す。
「こんな傷はあれですよ、唾を付けておけば治る感じのあれですから、大丈夫です!」
指先から伝わる沙羅さんの体温は、少し私よりも低い。それが次第に同じ温度に交わっていくのが恥ずかしくて、頬がじわじわと熱を集めていく。
「本当ですか?」
「は、はい! だからその……」
「それじゃあ」
もう、離しても大丈夫です。そう紡ごうとした言葉は、発せられることはなかった。
「俺が、その方法で消毒してあげましょうか」
沙羅さんが口にしたのは、初心者が処理するにはレベルの高すぎるジョークだった。
労るように触れられた右手が、ゆっくりと持ち上げられていく。沙羅さんの長いまつげがその綺麗な瞳をそうっと覆うのを見た。
「さ、ささささ、沙羅さん……ッ!?」
「はは、すみません。冗談が過ぎましたね」
沙羅さんの唇が手の甲に触れる、本当に直前。沙羅さんは笑いながらすっと顔を上げた。少しいたずらな目元にようやく気付き、ふいっと顔を背けた。
「沙羅さんっていつもはすごく優しいのに……何だか時々意地悪です」
「すみません。小鳥さんの困った顔が、可愛くて」
「う……」
だから、そういう発言が意地悪だって言うのに!
「そうだ。良ければこれを使って下さい」
言いながら差し出されたのは一枚の絆創膏だった。受け取った私は思わず感嘆の声を上げる。
「わあ、綺麗な絵柄ですね……!」
絆創膏にあしらわれたのは、美しい満天の星だった。見慣れた札幌の街並みとわかるイルミネーションが細かに描かれている。
「担当した商品の試供品です。ついさっき渡されたので、出来立てほやほやですよ」
「それじゃあこれ、沙羅さんがデザインを!?」
初めて見た沙羅さんの作品に、みんなが彼を賞賛する理由を改めて理解した。
「でも、こんな綺麗な絆創膏を……」
「いいんですよ。小鳥さんの手の方が、何倍も綺麗ですから」
「……っっ」
て、天然タラシだ……!
ぷしゅう……と湯気を上げる私を余所に、沙羅さんは絆創膏を手の甲に貼ってくれた。
「はい。これでひとまず大丈夫です」
手の甲に貼られた夜空の絵に、沙羅さんはどこか満足げに笑う。
「あ、ああ、ありがとう、ございます……っ」
「どういたしまして。小鳥さん」
小鳥さん。
男の人には違いないのに、沙羅さんにそう呼ばれることが何故か至極落ち着いた。今までの私では、考えられないくらいに。
「本当に……ありがとうございます」
繰り返した感謝の言葉は、意味合いが少し違った。
「私……本当はずっと、男の人が苦手でした。少しずつ慣れてきたつもりでしたけど、それでもふとした拍子に苦手意識が出て、相手に失礼な態度をとったりして」
先ほど施された絆創膏を、指で撫でる。
「でも沙羅さんは、そんな私の初めての男友達になってくれました」
「……」
「私、これからもっともっと頑張りますね! 沙羅さんの女友達だって自信を持って言えるように……!」
自然に笑顔を浮かべた自分に、内心驚いた。
久しぶりの感覚に高揚する自分を感じながら、例の資料を今度こそ沙羅さんに手渡した。
「余計なお世話だったのかもしれませんが、今回の企画に関連がありそうな資料です。その、よければ、参考に──、」
言いながら沙羅さんをそっと見上げる。窺い知ったその表情に、思わず目を瞬かせた。
「そうきましたか」
「え?」
「いえ。こっちの話です」
柔らかく微笑む沙羅さんに、私は小さく首を傾げる。
「貴女が無理に頑張る必要なんてこれっぽっちもありません。俺は、そのままの貴女が好きになったんですから」
「……」
そ……そうきましたか。どうやら沙羅さんの天然爆弾は所構わず。私は精一杯の防御を身に付けるしかないらしい。
「資料、ありがとうございます。とても助かりました」
どこか楽しげにそう告げる沙羅さんに、私は目一杯の間を空けて返答した。
人生初の男友達は、やっぱり少し、慣れるに時間がかかるらしい。
最初のコメントを投稿しよう!