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(2)
「んで? 総務部総員の追撃から逃れるべく、ここまで逃げてきたってわけ?」
「ごめんなさいすみません申し訳ございません……!」
情けない顔ですがりつく私に、柚はやれやれと肩をすくめた。幸い柚も、仕事がひと段落した時分だったらしい。柚が所属する第二グラフィック部に隣接するベンチで、私はひとまず匿ってもらうことにした。
「まあねぇ。沙羅さんに浮いた話があるって聞いたら、そりゃみんなぐいぐい来るよねー」
ご馳走したコーヒーを口にしながら、柚が頷く。
「沙羅さんはね。あれでいて浮いた話なんて今までひとつも上がったことがないのよ。誰かと付き合ってるとか、彼女がいるとか、彼氏がいるとか!」
最後のは本来要らない一文だけど、私もあえて指摘はしない。
「質問責めから逃げてきたって言ってたけどさ。みんなには何て説明したのよ?」
「そのままだよ? 困っているところを助けてもらって、それがきっかけで色々と話をするようになりましたって」
「なるほど。まあ、嘘ではないってやつだね」
「それでも沙羅さんと付き合ってるのかって、五回くらい聞かれたけどね……」
さすがに同情を感じたのか、柚は「その内収まるって」と元気付けてくれる。
やっぱり、女神様と友達になるのは予想以上に大変なことなのかもしれない。
私はふと、右手の甲に視線を留める。沙羅さんから受け取った絆創膏の綺麗な夜景が、今ではちくりと胸に刺さった。
ふと鼻をくすぐった、大人なフローラルブーケの香り。入れ違いにすれ違った女の人を、私は無意識に振り返っていた。
編集部所属の女性は、いつも多忙でありながら輝いている。二十代ながら活躍する戸塚さんをはじめ、他のスタッフの女性もいつも自信に満ちあふれているのがわかる。
私も、そうあるべきなのかな。
まるで想像できない自分の姿を思いながら、化粧室の扉を開く。そして次の瞬間飛び込んできた光景に、思わず目を剥いた。
「戸塚さん!」
洗面台に垂れかかるように顔を伏せる人物が、遠い日の母の姿に強く重なった。
「ごめんねぇ。ちょっと目眩がきちゃって」
「そんなことはいいんです! 今はとにかく、しっかり休んで下さい……!」
以前自分が運ばれた休憩室に、こんな短いスパンで訪れるとは思わなかった。それも、自分が介抱する側で。
「戸塚さん、最近会社に連泊してたって聞きましたよ。昨日は何時に眠りましたか」
「五時?」
「それもう明け方じゃないですか!?」
まさか私に怒鳴られるとは思っていなかったらしい。きょとんと目を丸くした戸塚さんに、言葉を続けた。
「戸塚さん、明後日から新婚旅行ですよね? 今日はもう早退して下さい。明日も有給を使って、体調を整えてから旅行にいかないと」
「でも、仕事がまだ終わってないから」
「駄目です。もう、編集部のチーフに話は付けました!」
「へ?」と目を瞬かせる戸塚さんに、私はびしっと人差し指を差し出す。
「戸塚さんは、帰る前に申し送りだけして下さい。あとはゆっくり休んで体調整えて、元気に新婚旅行に向かえばオッケーです!」
「でも、締め切り間近な案件もあるし」
「だから申し送りを! 今すぐに!」
体力を消耗している人相手に、こんな勢いで話をするものではなのはわかっている。でも今は、背に腹は代えられない。
指輪がきらりと光る薬指は、幸せの証だ。
「後の仕事はッ、私が責任を持って引き継ぎますから……!」
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