第5話 沙羅さんは最強のお友達

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第5話 沙羅さんは最強のお友達

(1)  探し回った資料は結局見つからず、失意の中で向かった先は会社の屋上だった。  いつもは星空の夜にしか足を踏み入れないそこも、今は日差しが降り注ぎ見下ろす街は慌ただしく時間が進んでいる。 「どうしよう……」  戸塚さんが帰国するのが三日後。今回の記事はそれまでにまとめておく必要がある。  幸い資料は他社との合同公開取材でおこしたもので、機密扱いではない。それでもメインとなる三人の外国人実業家へのインタビューは、いずれも戸塚さんが周囲に協力を仰いでようやく実現したものだったはず。その内の一人分の資料が、消えてしまうなんて。 「駄目だ。思い出せない……っ」  あのファイルを受け取ってから、自分は確かに机の上に置いていた。次の日の朝、作業順に並べ変えた問題のファイルは、一番下に積み重ねたはずだ。  それ以降は中身に触れるどころか、ファイルを動かした覚えすらない。  六ツ穴リングでファイルされていた資料だ。どこかに飛んで行ってしまったなら、破れた書類の跡が残っていないのはおかしい。  のろのろとポケットに手を伸ばした私は、スマホをゆっくりと操作する。表示させたものは、戸塚さんの携帯番号だった。  やっぱり……連絡するしかない?  資料が無くなった今、解決手段がないわけではなかった。戸塚さんのパソコンに保存されている資料データを、再度プリントアウトすればいい。  ただ、それには問題がある。  提出前のファイル関係は、基本的に個人ファイルに保存することになっている。そして個人ファイルは各々のパソコンからではなければ当然アクセスできない。  つまり、戸塚さんのパソコンを起動させてもらうために、戸塚さんからその了承とパスワードを聞かなければならないのだ。 「……っ」  駄目だ。出来ない。私はか細いため息をつくと、スマホの画面を暗転に戻した。  戸塚さんは、一年前からずっと、この旅行を楽しみにしていた。本当はもっと早い時期で計画していたのに、急な仕事の関係で二度ほど延長されてきたのだという。  そして今回ようやく、念願叶った新婚旅行。 「うん。駄目だ。絶対」  連絡をいれれば、折角の新婚旅行に大きな水を差してしまう。そんなことは絶対に出来ないし、したくない。  とすれば、他の解決方法を考えなければならない。それなのに、肝心の代替案はいくら考えても浮かばなかった。  スマホカバーにしまっていた夜景の絆創膏が視界に留まる。綺麗な星たちが、じわりと滲んでいくのがわかった。 「沙羅さん……」  こんな真っ昼間に来るはずがない。わかっているのに、どうしてだろう。今、あの人に会いたくて堪らなかった。 「沙羅さん。私、どうしたらいいんだろう?」  ぽつりと呟いた言葉。 (わたし、どうしたらいい?) (どうしたらいいの……ママぁ!)  その台詞が昔の記憶と重なる音がして、私は目を見開いた。ああ、本当に成長してないな。 「沙羅さんは、お母さんじゃないのにね」  ふふ、と小さく笑みを漏らした私は、ぐいっと大きく伸びをする。交差させた指の隙間からの光に目を細め、ふうっと息をついた。 「残ってる二つの資料で、大枠の記事は作れるはず。そっちの作業を超特急で済ませて、その間に何かアイディアが浮かべば……」  よし。切り替えた。まずは今、出来る限りのことをしよう。  早速頭の中で記事の構想を練りながら、私はそっと屋上から資料庫へ舞い戻った。晴天の眩しい外から薄暗い室内に足を踏み入れたため、すぐには目が慣れない。 「小鳥さん?」  そのためぼんやりと闇が消えるのを待つよりも、その声が耳に届く方が早かった。 「こんな時間にどうして屋上へ? いつもなら夜にしか……、」 「……っ」  沙羅さん。不意打ちで現れたその人に、私はしばらく呼吸を忘れた。我に返ったのは、目の前の沙羅さんがどこか慌てた様子でこちらに駆け寄ってきたから。 「何か、あったんですか」 「え?」 「泣いているじゃないですか」  言われた始めて、頬に滴が掠めていることに気が付いた。途端、喉奥からせり上がってくるものを覚える。くしゃりと顔が歪みそうになって、私は慌てて笑顔を作った。 「ち、違うんです。何があったわけではなくて、その」 「貴女は、原因なく涙を流す人には見えません」  宥めるように言いながら、沙羅さんの手のひらがそっと私の頭に乗る。その感触があんまり温かくて、うっとり目を細めてしまう。 「沙羅さんに、会いたいと思っていました」  ぽつりとこぼれ落ちた言葉だった。 「沙羅さんに会いたくて溜まらなくて、そしたら、本当に沙羅さんが現れて。だから……嬉し涙です。これは」  その顔を見ただけで、その声を聞いただけで、こんなに心が頼もしく勇気づけられるのは何でだろう。  すると次の瞬間、沙羅さんの大きな手のひらがゆっくりと頭を撫でるように動き出した。その手は、耳のすぐ後ろを通り、やがて頬にたどり着く。 「え……?」 「俺のせいで泣かせた涙を、貴女に拭わせるわけにはいきませんから」  頬についた泣き痕を、沙羅さんの指が優しく拭っていく。 「い、いいんですっ! こんなのゴシゴシッと擦っておけば何ともありま──、」 「いいから。黙って」  笑顔なのに有無を言わせない口調に、思わず背筋がぴんと伸びる。その後もますます丁寧に頬を拭う沙羅さんに、胸の鼓動がドキドキとうるさいくらいに高鳴っていった。  そ、そんなにたくさん、泣き痕が付いてたのかな……? 「俺も、早く小鳥さんに会いたいと思っていました」  夢うつつに身を委ねていたため、反応が遅れてしまう。 「でも最近は生憎の空模様でしたし、何より小鳥さんはとても忙しそうでした。あまりむやみに話しかけない方がいいと、自重していたんです」 「え……え?」 「だから、会えて良かった」  ぶわわわっと顔が一気に沸騰する。もう何度目のことだろう。  ぐるぐる目を回している私にくすりと笑いながら、沙羅さんはようやくその両手を離してくれた。 「小鳥さんの歌声も、またゆっくり聴きたいです。子守歌のようで、安心しますから」 「あ、あははは。良ければ録音しましょうか? そうすれば沙羅さんは毎日安眠──、」  続くはずだった言葉は途切れ、喉奥に飲み込まれた。  録音。それだ。  初めは小声だった心の声が、次第に大きな希望に溢れていく。 「ありがとうございます! 沙羅さん!」  思わずその胸に飛び込むようにお礼を言い、急いで資料庫を後にした。
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