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「え? 戸塚ちゃんの辞書を借りたい? そりゃ、返してもらえるなら平気だろうけど」
戸塚さんが所属している第二編集部のチーフにお声を掛け、私は戸塚さんの机にあった英和辞書を手に取る。
中身をぱらぱら見てみると、思った通り、所々マーカーや付箋で彩られていた。
「堀井さん、どうかしたの? 何だか少し、顔色が良くない気がするけれど」
「あ、あははは。そんなことないです大丈夫ですありがとうございます……!」
挙動不審が目に付いてしまったようだ。
大人な香りを漂わせる向かい席のお姉さまに慌てて返答すると、私はそそくさと総務部のフロアに戻った。
「ICレコーダーから英語インタビューを書き起こしてるだぁ~!?」
「ちょ、柚っ! 音量下げて……!」
その日の夜。定時を数時間過ぎた総務部は、例によって私の姿しかない。そんな中、夕食の差し入れがてら立ち寄ってくれた柚に、紛失した資料のことについて話していた。
「無くなったインタビュー資料をもう一度作るためにね。戸塚さんから引き継いだたくさんの資料のなかに、インタビュー時のICレコーダーも入ってたんだ」
インタビュー資料はない。その元になった日本語訳、そして原文となる英語文も。
ならば、さらにその元になった音声データからインタビュー資料を再作成するしかない。
「ICレコーダーが無かったら本当にお手上げだったけどね。本当に良かったよ」
「にしたって、一体何なの。そのクソ面倒くさそうな作業は」
顔を盛大にしかめる柚に、苦笑する。それは私も重々承知していた。
ICレコーダーから英語のインタビューを文面に起こし、それを日本語訳し、最終的な記事に落とさなければならない。作業可能時間は残り二日と数時間。
きっと寝る間も惜しむことになるだろうけど……うん。大丈夫。何とかなる!
雨がぱらついてきたらしい天気の中、柚がわざわざ買ってきてくれたサンドイッチでようやく私は休憩に入る。
美味しい玉子エッグサンドに舌鼓を打つ私に、柚は「というか」と重く口を動かした。
「資料を無くしたって言ってたけどさ。小鳥は何か覚えはあるの?」
「ううん。それが本当にさっぱりで」
結局私は、紛失した資料の具体的な内容は、誰にも言わずに伏せたままだった。
しばらく黙った後、柚が神妙に口を開く。
「誰かが、盗んだんじゃないの?」
「えっ」
その考えはまさに、青天の霹靂だった。
「ぬ……盗んだ? どうして? 誰が?」
「そんなん知らないっつーの! でも現状を踏まえたら、それしか考えられないでしょ!」
そう言いながらガクガク肩を揺らす柚に、私はなるほどと納得していく。
ファイルに綴じられていた資料が、破れた痕跡も残さず無くなるなんて不自然だ。だとすれば、誰から故意に持ち出した可能性しかない。
仕事をどうするかばかり考えていて、どうして無くしたのかはあまり考えていなかった。
「実はね。小鳥と沙羅さんが付き合ってるって噂、私の部署にも届いてんだよね」
「え、柚の部署まで!?」
「まあ、その場は私がやんわり否定しておいたけどね。相手はあの女神様だからね~噂が一人歩きするって事は十分考えられるよねぇ」
「そ、それじゃあ、今回資料を盗んだのも?」
「安直だけど、沙羅さんのことが好きな誰かの、子供じみた嫌がらせ……とかさ」
ああ。嫌な予感が現実になってしまった。
思えば沙羅さんと交流を持って初期の頃、そんなことを憂慮していた自分がいた。そのくらいに沙羅さんは神聖で、恐れ多い存在だったのだ。
「……」
“だった”か。無意識に過去形になっている自分がおかしい。
「まぁ、それなら仕方ないね」
「仕方ないって……ちょっと、小鳥?」
「それでも私は、沙羅さん友達でいたいから」
少し前の私なら、及び腰になって沙羅さんとの距離を広げていただろう。でももう、彼は私の大切な人として心の中に息づいている。
「確かに周りからはよく思われないかもしれないけど、私は沙羅さんと、もっともっと仲良くなりたい。人生初の男友達だもん」
目を瞬かせる柚に、にこりと微笑む。
「この際、誰が盗んだとかはどうでもいいんだよ。戸塚さんから引き継いだ仕事を無事に終えることが出来れば」
「でもアンタ」
「それに! もしそれが本当だったらなおのこと、この仕事は完遂しなくちゃ駄目だから!」
「ったく。見かけに寄らず頑固者なんだから」
諦めたように肩をすくめた柚は、つんと私の額を指でつついた。
「明日から出張が入っちゃってる私が言うのもなんだけど……どうしても手に負えないと思ったら、すぐにでも言ってよね?」
額を押さえる私に、学生時代からさんざん向けられてきた呆れ顔が言う。
「これでも、数年来の親友様なんだから」
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