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(3)
「お・わ・っ・た~……っ!」
夜はすでに解け、日が地上を照らして久しい昼下がり。
私は最終確認を終えた記事を手に、思わず声を上げた。周りの席の子達や先輩から次々と労いの言葉が降ってくる。
「おー。何だか知らないけどお疲れ!」
「最近の小鳥さんってば、いつにまして仕事にかかりっきりでしたもんね」
「今日は早めに帰って休んだほうがいいよ?」
「えへへ。そうしますね」
力なく笑みを浮かべるも、心の中は誇らしげな達成感で一杯だった。これで、明日出社予定の戸塚さんにも迷惑をかけないで済む。
きっと一人だけじゃここまでまとめ上げられなかっただろう。
これも全部、沙羅さんのお陰だな。
いや、沙羅さんだけじゃない。柚や柊さんも、陰ながら私のことを支えて励ましてくれた。
幸せ者だな。そう考えながら、私は眠気覚ましのコーヒーをあおった後に第二編集部のある十七階に向かっていた。戸塚さんの机から拝借していた、英和辞書を返すためだ。
柚はもう出張先から帰っているはずだし、お礼を言ってから戻ろう。
「あれ、堀井さん?」
かけられた声に、上りかけの階段で足を止めた。見上げると上から、見覚えのある女性が下ってきていた。
確か戸塚さんの真正面の席の、相川さんだ。
「どうしたの? 戸塚さんなら出社は明日からだよ」
「あ、はい。前に借りていた辞書を返しに来たんです。作業が無事に終わったので」
「そうなんだ。それじゃ、私が置いておくよ」
「あ、ありがとうございま──、」
親切に差し出された手に、辞書を手渡す。その時、覚えのある香りがふわりと舞った。
「今回は何だか、大変だったみたいだね」
大人な彼女によく似合う、フローラルブーケの香り。その記憶もつい最近のものだった。いったい、どこで。
「戸塚さんから頼まれた仕事で、資料のぬけ漏れがあったんだって? 堀井さんも大変だったでしょう?」
「……誰から」
「え、」
「一体誰から、その話を聞いたんですか?」
そうだ。思い出した。この香水の香り、戸塚さんがお手洗いで立ち崩れていた時、入れ違いに出ていった人がまとっていたものだ。
今思えば至極不自然だ。
どうして「あの人」は、倒れかかっている戸塚さんに声をかけなかったのだろう?
「誰って……えっと、総務部の子かな?」
「このことは総務の誰にも話してないんです」
目の前の瞳が、僅かに揺れた。
「……じゃあ、私の勘違いかな。誰かが話しているのを偶然耳にしたのかも」
「誰にも話していないんです。今回のことは、誰にも」
はったりだった。実際柚には打ち明けていたし、柚通じで沙羅さんにも伝わっていた。
二人が不必要に話を広げることは有り得ないにせよ、二人が話す場面を誰かに見聞きされた可能性はなくはない。
でも、はったりの効果はテキメンだったらしい。小さく息を飲んだまま二の次が出てこない様子の彼女は、引き打った笑みを浮かべたまま固まってしまった。
「原因は、私ですか?」
短く問いかける。人の気配が溢れるオフィスとは対照的に、この階段を行き来する人はあまりいない。
「私に何か恨みがあって、こんなことを?」
しばらく静かな空気が立ちこめた後、相川さんは「別に」と投げやりに口にした。
「貴女に恨みがあったわけじゃないよ。貴女のこと、最近まで知らなかったくらいだし」
「じゃあ、どうしてっ」
「あの子が、ちょっとウザかっただけ」
あの子。それが誰を指しているのかということは、手渡してしまった辞書に向ける彼女の憎悪の視線を見ればすぐにわかった。
「戸塚さんが、一体何を」
「あの子、結婚した途端に四六時中幸せオーラ振りまいてたでしょ」
彼女が、ふっと鼻で嘲笑する。
「聞いてもいないのに新婚旅行の詳細まで語りだしてさ。無神経だと思わない?」
思いません。心中でそう答えた私に気づかず、相川さんは構わず続けた。
「それでちょっと苛ついちゃったからやっただけ。気弱そうな貴女なら、トラブルがあればすぐにあの子に連絡を取るって踏んでたんだけどな。ホント、計算外」
「……そうですか」
「ふ。何よその口振り。馬鹿にしてんの?」
じり、と一歩階段を下りる彼女の身体が、私の顔に影を差す。
「今回のことは、戸塚さんの耳に入れておきます。今後、同じようなことが起こっては困りますから」
「へえ。良い子チャンなんだ」
「辞書を返して下さい。私が戻しに行きます」
真っ直ぐ差し出した私の手に、彼女ははっと下卑た笑みを浮かべた。
さっきまでの彼女とは似ても似つかないその変貌ぶりに、ぞっと背筋が寒くなる。
「あんたも地味子のくせにさ、生意気だよね」
また一歩、こちらに歩みを進めてくる。
「あの沙羅さんと噂になってるのって、あんたでしょ? よりによって何であんた? 林プロの七不思議だってもっぱらの噂よ?」
訥々と吐き出される悪意は、全てこちらが受けて取らなければいい。幼い頃に編み出した自己防衛に、彼女は大きな舌打ちをした。
「彼もとんだ趣味ね。自分の顔を眺めすぎて美的感覚がおかしくなったんじゃない?」
「沙羅さんを貶めるのはやめて下さい!」
反射的に口にした叫びは、静かな階段にビリビリと伝わっていくようだった。高ぶった感情のままきつく睨みつけた私に、彼女は顔を醜く歪める。
「はっ! 何よそれ? まさかの彼女面? あんたみたいな地味女が!?」
その瞳に狂気が宿る。私がそれに気付いたときには、もう止められなかった。
「どいつもこいつも! 私のことを馬鹿にして……ッ!」
彼女の頭上から振りかぶられた辞書が、勢いよく降り下ろされる。とっさに引いた足は階段でもつれ、手すりで支えを保ったときにはもう遅かった。
来る衝撃を予感し、瞳を固く閉ざす。
「い、痛……痛いぃッ!」
その悲痛な声は、私のものではなかった。
そっと見開いた瞼の外の光景に、私は思わず目を剥く。
「こんなものを振りかざすなんて物騒ですよ、相川さん」
「沙羅さん!」
辞書を頭上から振りかざそうとしていた腕が、沙羅さんの手で止められていた。
「痛い! 痛いってば!」と喚く彼女を、今まで見たこともない視線で沙羅さんは見下ろしていた。凍てつくような冷たい瞳とかち合った途端、彼女の肩が大きく震える。
「貴女は確か、取引先の常務取締役の妹さんでしたね。その方は自他ともに非常に厳しい方と伺っています。そちらからの熱心な要望で貴女のここへの就職が決まったとか」
「そ、それは……っ」
「お兄さんのお耳に触れたくないのなら、今日中に身辺整理を済ませて、この会社からとっとと出ていって下さい」
有無を言わせない鋭い視線が、彼女を容赦なく貫く。
言い終わるなり辞書を取り上げた沙羅さんは、放るようにして彼女の手を離した。
何か捨て台詞を口にしたらしい彼女の背中がようやく上階に消えた後、私は一気に身体の力が抜けてしまった。
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