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(4)
「来てくれると思っていました」
薄く雲が伸びる夜の屋上。
久しく見てこなかったここからの夜景とともに、どこかで予期していた人物がこちらに振り返った。
「相川さん、あの後すぐに辞表を出したみたいです。理由も、一身上の都合で通したらしいと……」
「そうですか」
短くそう答える沙羅さんに並んで、私も屋上の手すりにそっと手を置いた。
夜風が通り抜けていくたびに、沙羅さんの少し長めの髪の毛がふわりとなびく。
「今回のこと、沙羅さんには迷惑かけっぱなしで、本当にすみませんでした……!」
「謝る必要なんてありませんよ。俺が勝手に首を突っ込んだだけです」
柔らかく笑みを浮かべる沙羅さんだったが、私は沈む心を持て余していた。
今回の出来事は、手続き上は表だったことにならなかった。それでも、ひと気の少ない場所とはいえ社内で起こった出来事だ。どうやらちらほら野次馬の目があったらしい。
そのため今回のことで、沙羅さんと私の仲を相川さんが妬んだ結果一悶着あったらしいとか、沙羅さんが相川さんを捨てて私に乗り換えたらしいとか、そんな根も葉もない噂が少なからず生まれているようなのだ。
「そんな話を真に受ける人間ばかりじゃありませんよ。すぐに落ち着きます」
「で、でも……!」
「貴女に、怪我がなくて良かった」
淀みなく告げられた言葉が、膿んだ心にすうっと溶けていく。
「辞書を掲げる彼女を見たとき、息が止まるかと思いました。あんなに焦ったのは久しぶりです」
「……っ」
「だから、そんな顔をしないで下さい」
困ったように笑う沙羅さんが、じわりと歪んで見えた。
とっさに瞼を伏せて、滲み出そうになる涙をぐっと押し留める。自分の不甲斐なさで胸が痛んだ。でもそれ以上に沙羅さんの優しさが沁みてくる。
「小鳥さんは、最後まで戸塚さんを守ろうとしたじゃないですか」
振り返るのとほぼ同時に、沙羅さんの大きな手のひらが私の頭を優しく撫でた。
「俺のことも、必死に守ろうとしてくれたでしょう。嬉しかったです。きっと貴女が思っているよりも、ずっと」
「……っ、さ」
「だから……笑って下さい。小鳥さん」
両頬を包まれるように添えられた大きな手が、とても温かかった。
「っ、はい……」
屈んで合わされた彼の瞳に、自分の情けなく歪む顔を見た。どうやらうまく笑えなかった私に、沙羅さんはくすっと笑みをこぼす。
「本音を言えば、涙に濡れた小鳥さんも、決して嫌いではないんですが」
「……へ?」
「小鳥さんの涙は、とても綺麗なので」
目を瞬かせていた私だったが、その言葉にじわじわと頬が熱を帯びていく。
沙羅さんに綺麗と言われるのは、何だか凄く恥ずかしい。彼の方が何倍も何十倍も綺麗だからだろうか。
再び手すりに寄りかかる佇まいも、それだけで一枚の絵になるんじゃないかと思えてしまう。夜風に舞う髪を耳にかける仕草に、どうしようもなく漂う色香を感じた。
「沙羅さんは、やっぱりヒーローです」
ぽつりとこぼれた言葉に、沙羅さんはゆっくりとこちらに振り向いた。
「沙羅さんが居なければ、今回のこともきっと乗り越えることが出来ませんでした」
少し驚いたように見開く瞳を、真っ直ぐに見つめる。
星空のように美しい瞳に背を押された気がして、私は自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうござます、沙羅さん。本当に、感謝してもしきれません」
「どういたしまして。やっぱり小鳥さんは、笑顔が一番似合いますね」
「う……っ、そ、そんなことは……っ」
「それじゃあ、正義のヒーローからひとつリクエストを」
ぴっと立てられた人差し指に、私は目を瞬かせる。手すりに預けていた背中を離した沙羅さんは、いつの間にか雲が過ぎ去っていた夜空を背景に口を開いた。
「ラブソングを下さい」
爽やかな夜風が一帯を流れ、隠れていたはずの月明かりが彼を照らし出す。
「小鳥さんが一番好きな、ラブソングを」
沙羅さんの何もかもを愛でるような柔和な微笑みが、私の胸を高揚させる。
「そ、そんなことで、宜しければ──……っ、」
そっと口ずさみ始めた私の歌声に、沙羅さんは静かに瞼を閉じた。
それはまるで私の歌声だけを受け止めてくれているようで、いいようもない歓喜に震える。
遠くなっていく夜景たちの囁きも潰え、まるで辺りには、このラブソングしか存在しないようだった。そしていつの間にか。
この恋心を──貴方に歌っていた。
「……っ」
綺麗に閉じられた沙羅さんの瞳。
その姿を見つめながら、はっきりと形になって迫ってきた自分の想いに、私は一人涙が滲んでいた。
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