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(4)
自意識過剰とは、まさに今の私のことを言うのだろう。
いつも通りの通勤風景。いつも通りの人波。いつも通りの朝。それなのにオフィスが入っているビルの前で、私はしばらくの間その足を一歩出しては引いてを繰り返していた。
「小鳥ちゃん?」
きょとんと丸い目を向けられる。今日はこれでもう何度目だろうか。
「お、おはようございます。戸塚さん」
「うわ~お~っ! 本当に小鳥ちゃん!? 髪型がいつもと違うね!」
目を飛び出す勢いで驚きを露わにした戸塚さんに、総務の子たちも話題に乗り始める。
「そうなんですよー! 朝見たときは私もびっくりしちゃいました!」
「前から思ってましたけど、小鳥さんって髪がめちゃくちゃ綺麗ですよね!」
「ふわふわしてる~。もしかして天然パーマですか?」
「う、うん。実はそうなの」
「へぇ、気付かなかった~! 思えばいつも首の後ろでひとつ縛りしてたからねー。私も髪を下ろした小鳥ちゃんは初めて見たわ!」
「あ、ははは」
髪を下ろしただけでここまでピックアップされるとは。女性の髪型、恐るべし……!
いまだに戸塚さんや後輩ちゃんたちに弄ばれている髪に苦笑いしながら、私は昨夜の翼とのやりとりを思い返していた。
(まず! 何はなくともあのもっさい一本縛りをヤメロ! 髪型自由の会社だろ? 明日からしばらくは髪を下ろしていけ。当然ムースとブローでウェーブを整えるのも忘れるな!)
(でもそれじゃ、仕事中に髪が邪魔になるし)
(口答えするな! それからあの伊達眼鏡だな、あれも付けるな。もちろんカラコンもな!)
(そ、それは駄目!)
(は? その必死さ加減)
(そ、それは……っ)
沙羅さんの言葉を思い出したから、とはさすがに言えなかった。結局なんやかんや話し合った末、ひとまずは髪を下ろして会社に行くことを習慣にするように言われたわけだ。
「すっごい良いじゃない! 小鳥ちゃん、髪を下ろした方が絶対いいよ!」
「ですよねぇ戸塚さん! 私たちも朝からそう言ってるのに、何か小鳥さんイマイチ本気にしてくれないんですもん~!」
「そ、そういう訳じゃないんだけど!」
ただ、自分に向けて「綺麗」と言われることに慣れていないのだ。
小さい頃からそう言う賞賛の言葉は翼ばかりが受けていたから、何となく違和感を覚えてしまう。
(小鳥さんの手の方が、何倍も綺麗です)
(小鳥さんの涙は、とても綺麗なので)
「? 小鳥ちゃん、どうかした?」
唐突にリフレインしてきた彼の言葉に、やっぱり顔が熱くなる。それはもう、慣れる慣れないとは別の意味で。
沙羅さんが所属する第一グラフィック部は、総務課の二つ上がった十七階にある。
「すみません。総務の堀井と申しますが、沙羅さんはデスクにいらっしゃいますか?」
扉近くの女性に声をかける。笑顔の対応にほっと胸をなで下ろした私だったが、「あっれぇ~!?」と大きな声が響きすぐに心臓が飛び跳ねた。
「小鳥ちゃんだ! 髪下ろしてる! どうしたのーイメチェン? イメチェンってやつ?」
「ひ、柊さんっ、ちょっと声が大きいです!」
フロアに必要以上に響いた会話に、慌てて制止をかける。私の髪型更新情報なんて誰も必要ないからね、そんな情報……!
「どしたの? プロジェクト関係?」
「は、はい。各方面の担当者さんと連絡が取れたので、沙羅さんにもお知らせをと……っ」
「そっかそっか! 噂に違わず仕事が早いねぇ小鳥ちゃん! えらいえらい!」
「ちょっ……柊さん!」
相変わらず太陽みたいな笑顔を浮かべ、少し堅い手が私の頭を撫でる。
しかしながら今日は何故か動きを頭上で止めると、するっと髪を一筋すくいとられた。
「? 柊さん……?」
「へぇ。小鳥ちゃんって、実はすっげー綺麗な髪だったんだ」
今朝から何度も言われ続けた単語も、男性から言われるとなるとまた響きが全く違う。それも、真顔でしげしげと言われても反応に困ると言いますか……!
「よく見たらふわふわしてるし。色も少しだけ焦げ茶っぽい?」
「あ、はい。多分それは母の──、」
「小鳥さん」
背後から、まるで耳に吹き込まれるように届いた声。いつの間にか肩に添えられた手がくいっと後ろに引き寄せると、私は誰かの身体にとんと寄りかかってしまう。
慌てて後ろを振り返り、その声の主にかっと身体が熱くなった。
「さ、沙羅さん……っ」
「お待たせしました。プロジェクトの話ですよね。良ければ場所を移して話しましょうか」
「え、あ、は」
「失礼します。柊チーフ」
「あーはいはい。いってらっしゃいませ~」
回答らしい回答も出来ないまま、沙羅さんに連れられ半ば強制的にフロアを後にした。
扉前に残された柊さんが、楽しそうな笑みを噛みしめているようで、思わず首を傾げた。
掴まれた手が、火傷してしまいそうだ。
沙羅さんに連れられたのは小会議室だった。入ったと同時に閉められた扉の音に、心臓がどんと飛び跳ねる。
「あ……あの、さ、沙羅さん?」
どうしたんだろう。いつもなら、優しい言葉や笑顔を向けてくれるはずなのに。
繋がれたままの手の存在が次第に意味を持ち初め、頬にじわじわと熱が帯びていく。
まるで自分の想いまで伝わっていきそうな気がして、私はぎゅっと瞳を瞑った。
「髪を、今日は下ろしてるんですね」
いつも通りの口調。でも、肝心の沙羅さんはいつまでたってもこちらを見てくれない。
「そ、そうなんです。その、たまには違う髪型で行けって、兄に言われて」
それで少しでも、自分に自信を持つきっかけを作れればと思って……なんて、とても口に出来そうにない空気に、繋がれたままの手をそっと下ろしかける。
それでも、逆にきゅっと握り返された沙羅さんの力強い手に、再び胸が高鳴った。
「さ、沙羅さん……?」
「俺も、触って良いですか」
ようやくこちらに顔を見せた沙羅さんの揺れるような瞳に、私は息をのんだ。
固まったまま返答をしそびれている私をよそに、沙羅さんの繋がれていない方の手のひらがそっとこちらに伸びてくる。
「っ!」
思わず、肩が震える。
それに一瞬動きを止めたものの、その手は私の頭の上に乗せられた。
沙羅さんの長い指が、そっと髪に刺し込まれた。そしてゆっくりゆっくり、まるで感触を確かめるように髪の流れに沿っていく。
「あまり柊チーフに触らせないで下さい」
「へ……?」
「いや……柊チーフだけじゃなくて」
髪をといていた指先が、そっと髪の一筋をすくい上げる。
「俺以外の男には……触らせないで」
告げられた瞬間、頭が一気にショートした。
前からダメージを受けてきた沙羅さんの天然タラシ発言が、ここに来てまたよりいっそう威力を増している。
でもそれは、全部私の恋心のせいだ。
私の感情一つで沙羅さんに迷惑をかけたくない。私は無理矢理、頬の熱を押し込めた。
「こ、今度から、気を付けますっ」
「そうしてもらえると、助かります」
はにかんだように笑う沙羅さんに、少し安堵する。
「でも、どうして沙羅さんがそんなことを?」
「……」
あれ? どうしたんだろう。
予期せぬ沈黙の再来に、私は再び顔を赤くしたり青くしたりを繰り返す。沙羅さんの表情は、俯いたままでこちらからは窺えない。
「あ、あの」
「それは……やっぱり」
すくい上げられていた髪の毛が、さらりと彼の手から落ちていった。
「俺と小鳥さんは、大切な友達ですから」
ああ。本当に。
恋愛って、こんなに難儀なものだったのか。
自覚した瞬間から、たくさんのものががらりと色を変えてしまうのがわかる。あんなに喜んでいた、「友達」という言葉さえも。
「そう、ですよね」
ふっと気の抜けた笑顔を浮かべた私に、沙羅さんは安心したように微笑んでくれた。
翼。どうやら私も、いざとなれば嘘や誤魔化しなんてお茶の子さいさいみたいだよ。
「それじゃあ、話し合いを始めましょうか」
「ああ、その前に何か飲み物を買ってきます。すぐそこに自販機がありますから。コーヒーで良いですか」
「ありがとうございます、沙羅さん」
友達の私に見せてくれる、優しい笑顔が目に沁みる。
静かに閉ざされた部屋の扉。それと同時に溢れ出しそうになった想いも涙も、力一杯に蓋をした。それを胸の奥深く、深くへと押し込んで。もう二度と目に付かないように。
この想いは──伝えちゃ駄目だ。絶対に。自分との約束を固く結ぶ。
大好きな人の笑顔を、これからも笑顔で迎えるために。
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