第8話 沙羅さんは私の初恋の人

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(2) (※「Amazing Grace」:著作権満了によるパブリックドメインにつき一部歌詞を引用させて頂きました)  少しだけ、星の下で休みませんか?  先ほど吹き込まれた彼の言葉が、いまだに耳元に残っている。そっと手を添えると、まるで彼の温もりが全身に広がっていくようだ。  そして屋上に踏み込んだ私の目に飛び込んできたのは、変わりなく美しい沙羅さんの立ち姿だった。  胸が跳ねる音に何とか気付かない振りをして、沙羅さんに歩み寄る私。何も問題ない。いつも通りの私だったはず。  すると振り向いた沙羅さんがいつもの優しい微笑みを口元に浮かべ、そっと両手を差し出された。  そして。唐突にその腕の中に閉じこめられたのだ。 「さ、らさん……?」  言葉を詰まらせながら、私は沙羅さんに問いかける。 「こうしていれば、少しは小鳥さんの緊張も解れるかと思いまして」 「え?」  背中をぽんぽんと宥めるようにさする手つきが、酷く優しい。 「深呼吸をして目を閉じて下さい。小鳥さん」  広い胸板に押しつけられた自分の身体。  嫌でも感じてしまう彼の体温に、どうしても幸せがこみ上げてきてしまう。 「――Amazing grace how sweet the sound.」 「……!」  頭上から聞こえてきた歌声に、思わず顔を上げる。 「はは。やっぱり、小鳥さんの歌声とは比べものになりませんね」 「沙羅さん……アメージング・グレースを?」 「実は少しずつ練習してみたんです。小鳥さんから受けとっている半分でも、お返しできるかと思いまして」  どこか照れたようにも見える微笑み。それでも再び奏でられる歌声が、辺りにじわりと溶けていく。  どきどきとうるさい胸の鼓動も、次第に心の奥に収まっていく心地がした。 「……沙羅さん」 「少し……落ち着きましたか」 「沙羅さん」  繰り返し口にしたその呼び名に、見上げた先の彼が目を瞬かせた。  沙羅さん。沙羅さん。沙羅さん。 「沙羅さん……私は」 「小鳥、さん?」  胸一杯に溢れ出す想いの温もりが、喉を容易く通り抜けていくのに気づき、とっさに自分の口を押さえつけた。  私は……今、一体何を。 「……すみません。何でもないんです」  ようやく私は、沙羅さんに向かって笑顔を見せる。するりと腕から身体をすり抜けると、屋上の中央まで駆けていった。 「沙羅さん!」  私たちを見下ろす星空に響く大声。お腹の底から張り上げた後、少し離れた場所の彼ににこりと微笑んだ。 「明日からの二日間、絶対成功させましょうね!」  泣き笑いになっていても、決して悟られない距離で。 「わおー。小鳥ちゃん、今日の髪型もまた可愛いねぇ!」 「茶化さないで下さいよ、戸塚さん~!」  髪を下ろした時ほどではないが、それでも初めての髪型はどこか気恥ずかしい。翼が慣れた手つきで完成させたのは、右耳の後ろにふわりとこしらえたゆるお団子ヘアーだった。  もともと髪が天然パーマなこともあり、手際よくピンを差し込んでいくことで比較的簡単に完成した。念のため、崩れてきたときのために予備のピンも持たされている。 「まぁ~た翼兄ちゃん? 相変わらずのシスコンっぷりだねぇ」  ケタケタと笑いながら、柚が機材を車に収めていく。  彼女も今日は前髪も全て後ろに流し、何やらお洒落なヘアバンドを留めている。首の後ろに結われた小さな髪がちょこんと可愛い。戸塚さんもシンプルなポニーテールがいつもすごく決まってる。  私も少しは感化されるべきなのだろうか。 「おーおー! 揃ってるなぁ~麗しの女性方!」 「すみません。お待たせしました」  振り返った先の声の主に、はっと短く息をのんだ。 「おはようございます。小鳥さん」 「お、おはようございます。沙羅さん……っ」  にこり、と笑顔を向けられるだけで、理由もなくぎこちない笑みになってしまうのは、いつもと会う場所が違うからだろうか。  黒のカットソーにグレーの薄手のカーディガン。細身のジーンズをさらっと着こなす彼は、日の光をきらきらと浴びて、いつにまして魅力が際だつようだった。  格好良い、なぁ……。 「髪型、お団子にされたんですか。可愛いですね」  反応を返す前に、沙羅さんは柊さんに呼ばれて向こうへ行ってしまった。 「はぁ~……相変わらずお熱いことで」 「若いって良いね。甘酸っぱい青春?」 「っ、ち、違いますからっ! 私たちは友達なんですから……!」 「おや」「あら」柚と戸塚さんのからかいの言葉に、我に返った私はとっさに声を上げた。すると二人は揃って意味ありげな表情を浮かべる。 「ふぅーん……最近どうも変だなーとは思っていたけれど」  鼻先が付きそうになるまで距離を詰めると、柚は口を開いた。 「“友達なんだから”ねぇ?」 「な、何? 何かおかしいっ?」 「んー、別に? ただ、」  まるで自分に言い聞かせてるみたいだなーって、思っただけ。  からかうでも責めるでもないその指摘に、私はしばらく呼吸を忘れた。
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