第8話 沙羅さんは私の初恋の人

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(5)  それは最近ずっと、自分自身に向けてきた疑問だった。か細く浮かべた笑顔が、曖昧に潮風に溶けていく。 「……くな」 「え?」 「泣くなっ! 俺が泣かせたみたいじゃねぇかよっ!」  それはまるで、彼の方が泣き叫ぶような声だった。 「あんた大人だろ!? そんな簡単に泣き事言うなよな! 格好悪いぞ!」  顔を真っ赤にしながらふーっふーっと肩を上げ下げするタイガ君に目を見張る。叱咤してくれているのだと、鈍い私でも理解できた。 「そうだね。格好悪いね」 「ふんっ。俺だってそんな簡単に泣いたりしないぞ!」 「そっか。タイガ君は、やっぱり強いんだね」  言いながら、自分の帽子を被せた頭をそっと撫でる。すぐに不機嫌を刻んだ顔がこちらを見上げたが、しばらくの間そのまま撫でられていてくれていた。 「俺、ちょっとトイレ!」  むすっとした面もちを崩さないまま、タイガ君が足早にベンチから下り向かいの道の駅の施設へ向かう。小さな背中を見送った私は、少しずれていた沙羅さんの帽子にそっと手を添えた。  すでにジリジリと日の熱を集めている帽子の表面に、彼の優しさを感じる。 「沙羅、さん」 「俺の沙羅君がどうかしたか」 「ひ!?」  知らぬ間に目の前に立ちはだかっていた人物に、ベンチごと身体がびくつく。  そんな私の姿をも見下すように仁王立ちするその御方は、鼻を鳴らし目を細めた。 「沙羅君には、このプロジェクト参加者は皆敏腕揃いだと聞いていたが……まさかお前が紛れ込んでいるとはな」 「く、日下部先生! その節はご迷惑をおかけしまして……っ」 「ふん。さすがに覚えていたみたいだな。このお邪魔チビっ子め」  お、お邪魔チビっ子……。  どうやら、初対面時に邪魔をした告白シーンをいまだ恨んでらっしゃるようだ。  とはいえ、今となればその怒りようも身に染みて納得できる。せっかく振り絞った勇気を第三者にもみ消されては怒って当然だろう。  思わぬ異名を授かったらしい自分に苦笑していると、日下部先生は不遜な態度のまま隣にどかりと腰を下ろした。  盗み見たその横顔はやっぱり美しく、金髪が風に揺れる度にきらきらと光を放っている。 「で? 子どものお守りをさせられてることでも察しが付くが、お前は今回のプロジェクトの主軸ではないのか」 「は、はい! 一応、メンバー全員のアシスタントという位置づけで」 「ふん。それにかこつけて沙羅君に言い寄ってるってことか?」  タイガ君に引き続き、どストレートな探りの言葉に思わず息を飲んでしまう。 「わっかりやすいなお前。いっそ清々しいわ」 「ち、違います! 今回のメンバー編成に公私混同はありません! ちゃんとプロジェクトの内容を慮った結果で……!」 「そりゃそうだろ。でなきゃ切る。例え沙羅君の頼みでもな」  足を組み替えながら、日下部先生が海辺に強い視線を送る。現在も続いている撮影班の様子を、真剣に見守っているのが見て取れた。  それは作品を生みだした──原作者の視線。 「……今回の撮影場所を指定されたのは、日下部先生だとお伺いしました」  日下部先生の返答も視線も向かないが、先を促しているのが何となくわかる。 「どの場所も、作品の中で特に印象深い撮影場所ですね。この海での語らいのシーンも、凄く胸に残っています」 「プロジェクトの原作くらいは目を通しているみたいだな」  今回映画化された日下部先生の作品の舞台は、もともとこの海辺の町をモデルとしたヒューマンドラマだった。  都会の華やかさから逃れてきた男女二人の出逢いと交流。そして別れ。切ないラストシーンには、それでも未来への希望も併せて滲んでいる余韻が深く残る作品で──。 「こんなに気持ちの良い晴れの日は、あの物語の中ではほとんどありませんでしたね」  すう、と爽やかな風を吸い込む。 「でも、商店の前から小学校まで全力疾走で駆けていくあのシーンは、今日の日にぴったりな気がします。主人公の勢い任せの感情を少し邪魔するみたいな風の強さが」 「……」 「あっ」  作者ご本人に対して何を偉そうに……!  ちらりと横目で日下部先生の様子を見遣る。同時に鋭い瞳が自分を貫き、びくっと肩が飛び跳ねた。 「す、すみませんすみません! 個人的な感想を好き勝手に垂れ流してしまって!」 「ああ。不快極まりないな」  はうあ! 「俺と全く同じ考えをしていやがる。心底癪だがな」 「へ?」 「同じことを聞き返すんじゃねぇよ」 「す、すすす、すみません!」  とはいえ、今の発言は聞き返したくもなる。  日下部先生が、私の発言を肯定するなんて。 「ま。小説から見る光景なんざ人それぞれだ。それを否定することはない」 「は、はい」 「だが、小説以外の媒体として起こすとなると、その光景のかい離を埋めなければならねぇ。そこで初めて他人の目から見た光景を見ることになる」  さらりと吹かれた金色の髪が目映い。 「お前が脚本家か演出家だったら、どんな映画に仕上がったかな」  その瞳に浮かぶ穏やかな色は初めて見るもので、思わず胸が鳴った。 「……そんなこと。私になんて、到底務まる役割じゃありませんよ」 「はっ。そりゃそうだ」  吐き捨てながらぞんざいに足を組み替える日下部先生は、どうやらいつもの先生に戻ったようだ。そわそわ落ち着かずに視線をさまよわせていると、何か思い出したように日下部先生が立ち上がる。 「沙羅君は確かに良い男だ。この俺が惚れ込むくらいだからな」  唐突なギアチェンジについていけず返答できない。 「だが、恋煩う想いをこの仕事に持ち込まれるわけにはいかねぇ。無理ってんなら即刻、仕事は下りてもらう」  鋭い指摘に、反射的に背筋がぴんとなる。 「俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ」 「……っ、はい!」  まるで一兵隊のようにお腹から張り上げた私の返答に、日下部先生は不遜な笑みを浮かべて去っていった。
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