第9話 沙羅さんは危険な御人?

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第9話 沙羅さんは危険な御人?

(1)  俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ。  日下部先生の突き抜けるように清々しい言葉。奇しくもその響きが、私の情けなく丸まった背筋をピンと伸ばしてくれた。 「はい! じゃあ少し休憩挟みまーす!」  切られ続けていたシャッター音が、小さなこだまを残してなりを潜めた。  現場は所変わって古い小学校。先ほどの海と違って刺すような日差しは防げるものの、木造校舎特有の湿気ともくずを思わせる埃の香りが何ともいえず特徴的だ。  まるで本当にあの作品の中に踏み込んだような心地に、私はそっと深呼吸をした。 「ちょっと貴女! そこの飲み物をとって下さる?」 「っ、はい! ただいま……!」  不意に甲高い指示が飛ぶ。  私は慌てて返答すると、冷たいペットボトルを抱えて女性の元に駆けつけた。 「あのねぇ、この子は冷たい飲み物を飲み過ぎると体調が悪くなりやすいの。悪いけど温かい飲み物をもらえる?」 「は、はいっ!」  とは言ったものの、炎天下のお昼時。本日準備している飲み物はほとんどが、クーラーボックスに詰められた冷えた飲み物だった。  温かいものといえばコーヒーがあるけれど、確か彼女はコーヒーは苦手だって聞いている。 「もうママってば。良いよ冷たい飲み物で」  その時、ママと呼ばれた女性の陰から、取りなすように朝比奈さんの笑顔が現れた。 「ちょうど暑くて喉が渇いてしまっていましたから。わざわざすみません、堀井さん」 「い、いいえ……!」  その笑顔はやっぱり天使そのものだ。近付けば近付くほど、透き通る肌の白さに見惚れてしまいそうになる。  確か、朝比奈さんの母親はマネージャーで、小さい頃から娘を相当売り込んできたらしい。ちらりと視線を向けるとちょうど鋭い瞳と目があって、慌てて顔を伏せた。  朝比奈さんの母親はとにかく現場を仕切りたがる──と下調べの最中に目にしていたが、どうやら間違いではなかったらしい。それも、いつも決まって“女性スタッフの一人”を目の敵にするらしい、と。  どうやら今回、予想通り私がその“目の敵”に選ばれてしまったようだ。  この飲み物の前にも、配付資料、中継車のメンバー、撮影前のメイク環境、すでにありとあらゆる所で母親の指摘が飛び交っていた。 「大丈夫ですか、堀井さん?」  こそっと声をかけてきたのは、映画製作スタッフの方だった。 「俺達も、撮影中にしょっちゅう口出しされて大変だったんですよ。朝比奈さんの母親に」 「朝比奈さんも母親のフォロー周りで大変そうでしたもんね。本人の人の良さがあるからいいようなものの」 「そ、そうなんですか」  今も休憩中にも関わらず、朝比奈さんは他のスタッフの人を労るように会話している。人に見られるという仕事は、きっと私の想像に及ばないほどの苦労があるのだろう。  気を取り直した私は、そそくさと人混みから抜け出し柊さんを探し出した。 「失礼します。柊さん、今からまたしばらく、この場所で撮影ですよね?」  映画の監督さんと並んでいた柊さんに、私はこっそり声をかけた。 「お。どうした小鳥ちゃん。何かあった?」 「私、コンビニで飲み物を買ってきます。温かい飲み物の希望がありましたので……!」 「へっ? 温かい飲み物って……ちょ、ちょっと待った待った!」  超特急でスタートしようとした私を、柊さんが慌てて止める。 「この辺りはコンビニもなかなか無いよ! 徒歩三十分のところにようやく一店だったような」  告げられた指摘に、奮起した勢いが早速しぼみかける。三十分の往復で約一時間だ。 「あっはっは! 小鳥ちゃんっていうの? 可愛いねぇお嬢さん。新人さん?」  私と柊さんのやりとりに吹き出したのは監督さんだった。豪快に笑いを飛ばした後、よいしょと大きな身体を割り込ませてくる。  あごひげを蓄えられた顔を遠慮なしに近付けられ、思わず肩が震えるも、どうにか愛想笑いを作り上げた。大丈夫。危険な人じゃない。大丈夫。大丈夫……! 「小鳥さんはもう勤務五年目の立派な中堅ですよ、中谷(なかたに)監督」 「あ」  そっと肩に添えられた手が、心に温かい。 「沙羅君。君と仕事をするのも久しぶりだね」  振り返った私に短く笑みを向けると、沙羅さんはすぐさま監督さんとの会話に戻った。 「こんな美男子を会社に押し留めるなんてなぁ。宝の持ち腐れというものだよ、柊さん?」 「あっはは! それじゃ今度監督に、慧人を主演に一本お願いしましょうかね?」 「おっ! そりゃあいい!」  監督と柊さんは仕事で何度か顔を合わせた仲だとは聞いていたが、どうやら沙羅さんとも初対面ではないらしい。勝手に盛り上がる二人に、沙羅さんは困ったように眉を下げる。 「お声がけは光栄です。でも、とても俺なんかに務まるような仕事ではありませんよ」 「またまた。謙遜が得意だな、沙羅君は」 「本物と触れてみれば嫌でもわかりますよ。逢坂さんも朝比奈さんも、お互いプロの空気をまとっている」  静かに話す沙羅さんの言葉が、自然と役者二人の姿を追わせた。  休憩中の今はお互い肩の力を抜いた“本人”同士だ。それでも撮影中の二人を見るや、自然とあの作品のページをめくっている感覚に引き込まれてしまう。 「それはそうと、先ほどコンビニに行く用事があると話していましたか」 「ああ、希望があったらしくてな。温かい飲み物を買いに行くって、小鳥ちゃんが」 「それなら、俺が車を出しますよ」  にっこり。美しく象られているはずの彼の笑顔に、私は久しぶりに鋭い緊張を覚えた。
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